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2017-03-23 (Thu)
外国人「広島長崎で被爆した人たちは戦後日本でいろいろな差別を受けていたなんて知らなかった…」(海外反応)

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ヒバクシャと呼ばれる原爆被害者は、戦後日本で差別を受けてきた 被爆者と結婚するとなると親戚一同に阻まれ、就職も汚染の恐怖から断られるなどの件があるらしい
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2017-03-07 (Tue)
外国人「日本の大東亜共栄圏って何が間違ってたの?」(海外反応)
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2017-03-05 (Sun)
外国人「第二次大戦中にアメリカ軍は日本人捕虜を殺したりしなかったの?」(海外反応)

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第二次世界大戦時、アメリカ人が日本人捕虜を殺害したという証拠はあるのでしょうか?
アメリカはジュネーブ条約を守っていたということを映画や歴史教科書の中で描いている
もちろん自分の国を誇りに思っているけど、第二次世界大戦中に日本がしていたような捕虜の殺害をアメリカ人が行っていなかったということを信じることは少し難しいように思う
Googleにはそれが起こっていたという事実に基づいた証拠がないため、誰かに説明してもらいたいと思ったんだ
もしくは、そういうサイトを教えて欲しい
アメリカはいつも正義だったというようなことを覆すようなものをね
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2017-02-24 (Fri)
割腹して介錯を拒否…神風特攻隊を考案した『大西瀧治郎』のケジメのつけかたに海外賛否(海外反応)

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神風特攻隊の創始者である日本人海軍中将が、第二次世界大戦後謝罪と称して自決(切腹)した
自らの腹を切った後慣習斬首を拒み、数時間痛みに苦しみながら死亡した

大西瀧治郎
大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年(1891年)6月2日 - 昭和20年(1945年)8月16日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第40期生。神風特別攻撃隊の創始者。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。

1945年8月16日渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し割腹自決した。午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。熱海にいた矢次一夫も駆けつけたが昼過ぎになった。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。介錯と延命処置を拒み続けたまま同日夕刻死去。享年55。


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2017-02-04 (Sat)
外国人「なんでアメリカはミッドウェー海戦のあとすぐに日本本土を攻撃しなかったの?」(海外反応)

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なぜアメリカはミッドウェー海戦の後第二次世界大戦に加わったのか?
日本の海軍は撃墜されたのではなかったか?
彼らは沖縄や日本本土に攻撃しに行けばよかったのではないか?
僕は第二次世界大戦の歴史の大ファンですが、太平洋戦争についての知識があまりなく、向上させようと思っています

アメリカが爆弾の保管場所や空軍の為の島を必要としていたのは理解できます
しかし、日本海軍がミッドウェー海戦で敗北した後、なぜそのままその小さな島で3年も戦争を続けたのでしょうか?
日本本島や近い沖縄を攻撃すれば、人や船舶は大きく必要とする結果になったかもしれないが、もっと多くの命は助かっていただろう
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2017-02-01 (Wed)
ソ連将校が日本へ亡命!?日本でかつて起きた歴史的事件に海外興味津々(海外反応)

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ソ連は戦闘機を返還された後、機体のパーツの1つ1つを確認したところ、20ものパーツがなくなっていたそうだ
そこでソ連は器物破損の代償としてその後1千万ドルを日本に要求したそうだ

ベレンコ中尉亡命事件
ベレンコ中尉亡命事件(ベレンコちゅういぼうめいじけん)は、冷戦時代の1976年9月6日、ソビエト連邦軍現役将校ヴィクトル・ベレンコが、MiG-25(ミグ25)迎撃戦闘機で日本の函館市に着陸し、亡命を求めた事件である。ミグ25事件とも呼ばれる。

実際にソビエト連邦外務省からは機体の即時返還要求があり、当時の最大野党でソ連から資金提供を含む様々な支援を受けていた日本社会党もこれに同調したが、アメリカ軍は航空自衛隊の協力のもとで、9月24日に外交慣例上認められている機体検査のためにMiG-25を分解し、アメリカ空軍のロッキードC-5Aギャラクシー大型輸送機に搭載して百里基地(茨城県)に移送した。機体には「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」と書かれた横断幕が掲げてあった。
移送の際には、ソ連軍による撃墜の可能性を考慮して、空自のF-4EJ戦闘機が函館から百里まで護衛に当たっている。機体検査の後、11月15日に機体はソ連に返還された。


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2017-01-17 (Tue)
外国人「原爆を落とされた時に日本のメディアは原爆のことをどう扱ってたの?」(海外反応)

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ナガサキとヒロシマの原爆は当時の日本のメディアではどう扱われたの?
感情的だったんだろうか、原爆の被害者の声ってあまり知らないんだけど 当時は何があったかちゃんと理解していたんだろうか? 日本国民は原爆を落としたことについて、アメリカに恨みを持っているの?
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2017-01-11 (Wed)
外国人「日本はヨーロッパの植民地にならなかった数少ない国のひとつ」(海外反応)

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ヨーロッパの植民地 ~日本はヨーロッパの植民地とならなかった数少ない国の一つである~

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2017-01-04 (Wed)
海外「壮大な話だ…」江戸時代初期に初めてアメリカ大陸に渡った日本人の話に海外興味津々(海外反応)

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田中勝介は1610年、エスパーニャとの通商を試みてメキシコに渡った 彼の旅は「アステカ貴族ジャーナル」に記録されている

田中勝介
田中 勝介(たなか しょうすけ、生没年不詳)は、江戸時代初期の京都の貿易商人。歴史上初めてアメリカ大陸に渡り、また太平洋を横断・往復した日本人とされる[1][注釈 1]。勝助とも呼ばれる。

田中勝介は慶長15年(1610年)8月1日、徳川家康の命を受け、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの帰郷に他の21人とともに同船してヌエバ・エスパーニャ(ノビスパン、現在のメキシコ)のアカプルコへ向かい同年11月13日に到着した。これは、前年にロドリゴがノビスパンへの帰任に際し、台風のため乗船のサン・フランシスコ号が遭難、1609年9月30日に上総国岩和田村(現御宿町)に漂着して乗組員317人が岩和田村の人達に救助されたこと[注釈 2]を契機としており、家康側近で財政家の後藤庄三郎(光次)の仲介でノビスパンへの渡航を許されたものである[1]。

帰国にあたって、勝介はヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノとともに1611年3月22日にアカプルコを発ち、同年6月10日相模国浦賀(神奈川県横須賀市)に到着した。ビスカイノは、エスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて答礼使と金銀島探索の使命を帯びて来日しており、現在の全権大使にあたるとされる。ビスカイノによれば、勝助は洗礼を受け、洗礼名をフランシスコ・デ・ベラスコといい、太平洋渡海中は善良な態度で周囲の尊敬を集めていたという[1]。なお、このとき、使節団のうち、アロンソ・ムニョス神父は家康の使節としてエスパーニャ本国に向かい、3名はヌエバ・エスパーニャに残り、帰朝したのは勝介ほか17名とされている。


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2016-12-27 (Tue)
投票権の制限が軍部が自由に動けた理由?日本が戦争に突入していった政治的な動きに海外興味津々(海外反応)

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大正デモクラシー 3分間歴史



大正デモクラシー
大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)とは、日本で1910年代から1920年代にかけて(概ね大正年間)に起こった、政治・社会・文化の各方面における民主主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である。

何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。



1890年 日本は憲法を作り議会をつくった
ただ投票権は制限されていたし天皇が首相と大名から選んだ政治家を指名することが出来た
軍部がかなり独立して動く事が出来た
これが19世紀終わりから20世紀始めのこと

伊藤博文と山県有朋は党利党略の政治に疑問を持ち軍隊に大きな力をあたえた
1998年大隈重信と板垣退助は政党を作りましたがこれは長くは続きませんでした
1900年板垣退助は将軍と別れて新しい党を作りました
政友会です

彼の一番のライバルは山形の弟子の桂と国民党の犬養毅でした
彼らはアナキストと社会主義者を増やしました
特に天皇を暗殺しようとした1911年以降には
そして日本は大陸に領土を広げることを決めました

20世紀初めには韓国、台湾と中国の一部に侵略して満州鉄道を引きました
ロシアと山形はシベリアに進む計画をしました
これは陸軍の計画でした
しかし海軍の人たちは東南アジアに進出したかったのです
政治家でアジア主義に賛成していたのは犬飼でかれは孫文を助けた
黒竜会も動いていました
こういう政治家達は財閥から資金を得ていました
三井、三菱などもその1つです

1912年の大正時代には日本は大きくなっていく国でした
しかし彼が引退すると議会は二つの内閣に別れてしまいました
1つはなるべく軍事費を抑えようとしたのです
桂はそれを天皇にアピールしようと新党を結成しました

同志会ですが彼はすぐになくなってしまいます
その後を引き継いだのが加藤高明です
かれは大隈内閣に入りました
大隈が日本を第1次世界大戦に参戦させたのです
大隈は中国を日本の防衛に使うという対華21に合意させたのですが将軍にそのことを通さなかったので辞任することになりました
その後を継いだのが軍事参謀寺内正毅です

ドイツの中国にたいする譲歩を見てロシアの内乱と政治と戦うために軍隊を派遣しました
しかし日本は蒋介石を応援するのはやめてモンゴルを支配しようとしました
これは国の物価をあげる事になり辞任させられました
1914年から政友会が台頭してきました
新しい首相原敬は海軍の会合で西洋との国交を正常にしようとしました
しかしかれは1921年暗殺されました

加藤友三郎は同じ様に軍縮につとめたがかれは関東大震災の少し前に死没した
彼の後を継いだ山本権兵衛はさらに軍部に力を与え政治犯を殺す権利をあたえた
その次は国本社の司法大臣平沼騏一郎と憲兵司令官荒木貞夫が日本の民主主義をおさえ軍国主義へと変えていった

山本は天皇が暗殺されそうになったことで辞任した
軍部に乗っ取られる事を恐れたのでその次の首相は清浦奎吾になった
1924年組閣し共産主義を取り締まりましたがソ連と国交を正常かしました
その後若槻礼次郎が首相となり同じ年裕仁天皇が即位しました
1927年日本は大不況に陥り総辞職しました
引き継いだのは田中義一で北伐を阻止するため山東出兵が行われた
これが大正デモクラシーの終わりでここから日本は更に軍主導になり世界大戦に入っていく

この動画にでた人を政党名と一緒に書いておく
政友会 伊藤博文
山県有朋
板垣退助
大隈重信
政友会 西園寺公望
同志会 桂太郎
国民党 犬養毅
同志会 加藤高明
寺内正毅
政友会 原敬
加藤友三郎
山本権兵衛
清浦奎吾
同志会 若槻礼次郎
田中義一
平沼騏一郎と荒木貞夫 国本社
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