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海外「攻撃は最大の防御…」日本人は盾を使わなかった?日本の盾の歴史に海外興味津々(海外反応)

海外「攻撃は最大の防御…」日本人は盾を使わなかった?日本の盾の歴史に海外興味津々(海外反応)

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日本の盾の歴史 なぜ日本人は盾を使わなかったのか?



古代の日本では盾を使っていました
中国には日本人が手持ちの盾を使っていたという記録があります
200年代から300年代 500年代と盾は頻繁に使われていたようです
だいたい縦長で幅の2〜3倍の高さがあるものでした
皮を漆で固めたものや時には鉄製のものもありました

奈良時代になると 日本人は中央集権の国としての体裁をもち始め軍隊ができてきました
このころになると日本人は手持ちの盾に興味を失い自立する動かせる壁のような盾をつかいはじめました
だいたい目の高さくらいのもので建てておくための棒がついていました
理想としては一枚板ですがだいたい2枚から3枚 時には4枚の板がつなげてありました
鎌倉時代になるとこの盾には家紋が入れられるようになってきました
持ち歩けるようになってきました

鉄砲が使われだすと木の盾では役に立たず濡れた藁を盾の前に並べたりしました
竹を束ねておく事もありました 竹で出来ない事なんてある?
800年代になるとメインの侍は騎乗で弓矢を使っていました モンゴル人のように
日本人の戦いは少人数での戦いが長く続き大きな軍隊としての戦争はあまりありませんでした
刀はあまり役に立たなかったのです

弓矢の次にやくにたったのは薙刀のようなものです
馬に乗っていると刀は短すぎるからですね
刀を使うとしたら馬からおりているという事なのであまりいい状況とはいえませんね
騎乗にいて盾をもつのはむりなので鎧が発達しました
大袖という弓を避けるための部品があったり穴があいた鉄板をつなげて鎧をつくりました
かなり何層にもなっていて動きやすく弓矢が使いやすくなっていました
歩兵も両手で使う武器を使う事が多かったので手持ちの盾はあまり使われませんでした
とはいえ全くなかったわけでもなく大袖くらいの大きさのものが使われる事もあったようです
江戸時代には刀をもる手をまもる小さな盾もあったようですがいずれにしても大ヒットというわけには行かなかったようです
戦国時代になるころには盾よりも鎧が発達していたし両手で使う武器がやはり人気だったので盾はあまり発展しませんでした


海外「日本が軍事的専制政治を世界初で始めたのか…」鎌倉時代から始まった!日本の武士の誕生の歴史に海外興味津々(海外反応)

海外「日本が軍事的専制政治を世界初で始めたのか…」鎌倉時代から始まった!日本の武士の誕生の歴史に海外興味津々(海外反応)

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最初のサムライ政府は機能したのか (鎌倉時代)

日本の最初の軍事政権は1185年に出来ました 内乱の跡でした
戦いに勝ったのは源頼朝でした
サムライをつかって鎌倉に幕府を作り鎌倉時代を始めました
京都にある貴族たちはそのまま維持されていたので政府が2つある状態が続きました
頼朝はなぜ朝廷を残したのでしょうか



理由の一つは血統です
どの家系に生まれるかによって人生が決まっていたのです
幕府の支配は主に西に朝廷の支配は主に東に置かれていました
頼朝に力はありましたが実際の身分としてはただの将軍でした
つぎに将軍になったのは二人の息子でしたが彼らは幕府のエリートと力をつけて来た北条によって常に監視されていました
そもそも将軍という地位自体にはそれほど意味はなかったのですが頼朝の死後北条が
この地位を不動のものとし鎌倉幕府を支配しました
北条は血統が良くなかったので血統が良い子供を将軍職に据えて鎌倉幕府を支配しました
子供が大きくなり意思を持ち出すと役に立たないので別の子供に取り替えて行きました
主従関係が成立しており家臣が忠実でなければ主人は何かしらの罰を与えることもできましたし反対に主人に理不尽なあつかわれ方をしていると思えば家臣が去ることもできました
ある種対等な関係だったと言えるでしょう
将軍は3つの部門の長だと考えられます
一番大事なのは政所で政府が政策を周知したりそういう政府的なことをする部署です

2つ目は侍所といい軍事的 警察的な役割を担うところです
問注所は裁判所であり様々な争いを解決するところでした
北条はこの3つの期間の上に北条衆という部門を作りました
3つの分権が成立しているようですが割と曖昧であったようです
鎌倉幕府は土地を管理するのに守護と地頭というシステムを採用していました
守護は軍事的な役割を果たしており当時朝廷からも同じ役職があったのが混乱するところでした 
地頭は土地を管理し年貢を集めました
ただ土地の持ち主は地頭ではなく地頭はその土地を管理しているのですがだれがどんな権利を持っているのかははっきりしていませんでした
地頭は理不尽なルールを作ってそれにかんして罰金を科したりいろいろな問題を引き起こすことになりました


外国人「南北朝鮮の分断って何が原因なの?」(海外反応)

外国人「南北朝鮮の分断って何が原因なの?」(海外反応)

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南北朝鮮の分断って何が原因なの?


海外「ソ連侵攻は無理だろ…」もし大東亜共栄圏が成功していたら?歴史のifに海外議論(海外反応)

海外「ソ連侵攻は無理だろ…」もし大東亜共栄圏が成功していたら?歴史のifに海外議論(海外反応)

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もし大東亜共栄圏構想が成功してたら

当時の大日本帝国が第二次世界大戦参戦で達成したかった一番の目標が、大東亜共栄圏を構築することだった
彼らの建前は、アジアを欧米から救うってことだったけどね
結局日本が第二次世界大戦で敗れたから、これが達成されることはなかった
でも、もしこれが達成されてたらどうなっていたんだろう?


海外「すごい発想…」秀吉の天下統一を決定づける小田原城包囲に海外興味津々(海外反応)

海外「すごい発想…」秀吉の天下統一を決定づける小田原城包囲に海外興味津々(海外反応)

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小田原城包囲

前回のビデオでは、豊臣秀吉は日本の将来を左右する計画を実行に移したことに触れた
日本に起きたキリスト教の広がりを押さえつけるとともに、下級の大名からの武器を取り上げることにも取り組んだ
これは後年、刀狩りとして記録されている
彼の北条氏政との確執についても触れた、両家の関係は一触即発の状態にまで悪化したのだ
とうとう、これが実際の戦にまで発展する
これが秀吉の天下平定への最後の障壁となっていたのだ



戦国時代 - 小田原平定
1589年、北条氏政は、当時一番の勢力を誇っていた豊臣秀吉との戦いに臨もうとしていた
過去2年にわたって、秀吉は北条家に対して外交的手段で近づこうとした
何度も氏家を首都に招き、彼を傘下に取り込もうとしたが、これはことごとく失敗した
氏政は北条家の誇りをもって、秀吉に対峙する決意を固めていたのだ
これに関しては、当時氏政の一番の味方であった徳川家康さえも彼の気持ちを変えさせようと助言したほどだ
戦の勃発は、避けられないことだった
秀吉はこの戦の勝利を確信していた、これが全国平定の最後のハードルだったのだ
関東の制覇が叶えば、東北地方がその手中に落ちることは明らかだった
しかし、この戦いは避けることが可能だったことも確かだ
もしも氏政が秀吉の招きに応じて彼の傘下に与していれば。。。。
この戦に関しては、北条側が仕掛けたとみられている
1589年、北条軍は真田軍に攻撃を仕掛けた、これは1585の戦の際の不公平な取扱いに対する敵討ちだという名目で行われた
これが秀吉には、氏家に攻撃を仕掛ける格好の理由を与える
1590年3月、秀吉は北条に対する最終戦を始める
京都に本拠を置いていた秀吉は自軍を進める
彼の前には織田と徳川の軍勢が東海道を東に上り、北からは前田利家と上杉景勝が南下した
海からは、長宗我部元親軍が進軍した
豊臣とその連合軍は総勢20万にのぼったといわれている

以前の戦いでは、北条軍は関東の地の利に頼り、特に箱根を天然の砦としていた
しかし、四方八方から敵が押し寄せてくる状況では、この地の利に頼ることはできない
これは国境の城を守っていた北条氏邦と氏照にはすぐに明らかになり、彼らは敗れ去る
氏政の長子氏直は、自軍が豊臣軍の4分の1程度のとなってからも進軍を望んだ
しかし最後は、氏政や彼の重臣たちの助言を受け、進軍をする代わりに小田原城の守りを固めることを受け入れる
実際、最終的には北条軍はほぼすべての軍勢を小田原に集結させることになる
関東平野の守りをとき、豊臣軍の侵攻を許してまで小田原城を守ろうとしたのだ
これには理由があった
当時小田原城は、一番堅牢な城であると言われていた
巨大な堀を持つ、北条氏の本拠地であった
8万人を数える北条軍がこの城の守りを固めた
1561年にはしかし、この城は上田軍により征服されている
北条軍が生き残るには、厳しい戦いを耐え抜くことが必要だった

しかし、ここで氏政が見落としていたことがある
当時の日本で秀吉ほど立てこもり戦に長けた武将はいなかったことだ
北条軍が立てこもりを続けるなら、秀吉は城の外で待ち続ける
ただ待つだけでは、兵の士気に乱れが生じる
この立てこもり戦は、稀に見るスタイルのものだった
城の外を一大エンタメ拠点としたのだ
女性や芸人・商人などを招き入れ、歴史に例を見ないパーティ会場に仕立て上げた
遠く北方からも、このお祭り騒ぎに参加しようとやって来た人もいるほどだ
すべてが、豊臣軍が立てこもり戦に飽きて規律を乱すことを防ぐためのものだった
どれほど長く待つことになろうとも、城を陥落することは確実だ
城に立てこもった北条軍の士気は、外のお祭り騒ぎに気を取られ乱れていた

この期間中に北方の大名たちが秀吉を訪れている
相馬に打ち勝ったばかりの伊達政宗もその一人だ
政宗は自分が放った間者からの報告を受け、秀吉の勝利を確信していた
長年にわたり東北地方での影響力を拡大していた政宗は、日本全土で影響を拡大している秀吉のさまを見て、自分の将来を熟考した
秀吉にたてつきその立場を失くしていった武将たちの前例を見て、政宗は、秀吉の傘下に入るしか自分の生き残る道がないことを悟る
1590年6月、政宗は秀吉キャンプを訪れて、彼の傘下に入ることを告げた
政宗のように多くの東北大名が自身の傘下に入れば、秀吉は自身の軍勢の多くを南に割くことができる
伊達だけでなく、南部もその後秀吉の傘下に入る
秀吉は他の東北大名たちにも触れを回し、人質を京に送ったり年貢を納めたりすることを奨励した
更には、東北の城を解体するよう要求するまでに至った
この戦いの間に、いくつかの武将が名を上げようとしたが、豊臣の庇護を受けなかったものは、そのすべてが最後には敗れ去っている

豊臣軍はほとんど何の抵抗も受けずに多くの領土を平定したが、この中で大石の戦いは興味深いものだ
秀吉が最も頼りとした石田三成は、まだこの戦いでは武名を上げられずにいた
その為秀吉は、彼をこの地域での幾多の城を制圧するための軍隊の頭に据えた
しかし光成は大石城で思いがけない苦戦を強いられることになる
大石城は、小田原城が豊臣の手に落ちた後まで陥落することはなかった
この話は、2012年の日本映画『のぼうの城』で詳しく描かれている
小田原城に話を戻すと、小田原城は最終的に徳川家康により陥落した
徳川軍は小田原城の城壁の一部を爆破することに成功する
戦いは激しいものだったが、この段階では氏政はまだ負けを認めてはいなかった
豊臣勢の攻撃に永遠に持ちこたえることはできず、また城へのダメージを考慮し、氏政は6月の終わりに降参することを決意する
秀吉の度重なる招きにも応えず、長期にわたる戦にも耐えてきたが、とうとう北条は負けを認めることになった
後の研究によれば、氏政自身は戦いを続けることを願っていたが、その子氏直の助言を聞き入れ降参することにしたということだ
城陥落の一週間後、氏政とその兄弟氏照は秀吉の命により切腹する
氏政の辞世の句は、「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」
「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」といものだ
北条氏が戦国時代屈指の武将であったことは間違いない
北条氏を打ち破り、秀吉には彼にたてつく勢力はいなくなった
北条氏直は、徳川家康の次女を妻に迎えていたという理由で切腹は免れた
しかし彼は高野山に送られ、そこで一年後に生涯を閉じることになる

徳川家康は、1584年の小牧・長久手の戦い以降、長年秀吉の信を得てはいなかった
北条氏に対する戦では東進する軍を任され勝利は納めていたが、秀吉は今一つ家康を信頼できなかった
しかし、最後には秀吉は家康が元々の領土を諦めることを条件に、北条氏の領土のすべてを家康に与える決断を下す
これには、家康の働きに報いるということのほかに、家康をできるだけ首都から遠いところに押し込める、という意図もあった
この誤算は、家康は関東に置かれることで更に富を得たということだ
結果として、家康は秀吉よりも富を得ることになった
家康は、当時は知られていなかった『江戸』を本拠地とする

秀吉は家康の元の領土を、同じく小田原の戦いで活躍した織田信雄に与えようとしたが、先祖伝来の土地から離れることに難色を示した信雄はこの申し出を断る
これに激怒した秀吉は、信雄を下野国烏山に流罪とする
結果この土地は、豊臣の昔からの家臣たちによって分割された
領土問題の解決を経て、秀吉は伊達政宗と共に宇都宮に進み東北地方の平定を目指す
これは、1590年の9月には終結を迎える
100年以上にわたる戦いの時代を経て、この年の12月日本は平和の時を迎える
豊臣秀吉は、織田信長が目指した日本平定に成功した
しかし、戦国時代が終わったわけではない

さぁ、今日のビデオのおさらいだ
1589年、幾度かのニアミスを経て、豊臣秀吉は当時の最大のライバル北条氏に対する戦いに挑む
1590年になると、秀吉の大群は関東平野に進軍し、小田原城を包囲する
当時もっとも堅牢と言われた小田原城に籠城する北条軍を降参させるため、秀吉は包囲網を一大エンタメセンターに変え、自軍の士気を保つことに成功した
これが北条軍の士気を貶め、数か月後には小田原城を陥落することに成功する
この結果、褒美として北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康の元々の領土は豊臣の忠臣たちで分けられることとなった
秀吉自身は、東北で伊達政宗に加勢し、東北地方の平定を目指した
1590年末までに、豊臣秀吉は日本全土を平定することとなる



海外「あれは戦略…」実は運に左右されていた?日本の敗北が決定的になったミッドウェー海戦に海外議論(海外反応)

海外「あれは戦略…」実は運に左右されていた?日本の敗北が決定的になったミッドウェー海戦に海外議論(海外反応)

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ミッドウェー海戦はどれくらい運に左右されたのか

よく言われてる黙示録の伝説では、アメリカ海軍の士官候補生はアナポリスでのミッドウェー海戦のシミュレーションで勝利をおさめることができていなかった、ということ
僕がいろんな人から聞くのは、これこれの理由からミッドウェー海戦を勝利するのは可能だ、っていう説
モントメイヤーのミッドウェーシリーズをずっとフォローしてるんだけど、ドキュメントりーとして秀逸だってことを脇に置いといて見えてくるのが、いかにアメリカがラッキーだったか、ってことだ
日本軍に米軍が見つからなかったもしくは日本軍の反応を見る断片的な攻撃、っていう事実にも関わらず、VB/S-6が迷子になったことが結果として日本軍の発見につながり、日本軍のCAPが転用されている間にVB-3と全く同じ時間に到着した、なんてまったく神がかり的な偶然だと思うよ

これ以上アメリカにとって都合がよい偶然はなかったと思う
こんな幸運が重ならなかったらアメリカは勝ててなかったと思うよ


海外「政治力がすごい…」島津と秀吉の激突!九州統一の歴史に海外興味津々(海外反応)

海外「政治力がすごい…」島津と秀吉の激突!九州統一の歴史に海外興味津々(海外反応)

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前回のエピソードでは本州への侵攻を目論む九州の島津と、豊臣秀吉との軋轢を特集した
今回は秀吉の九州平定の目論見に焦点を当てる

戦国時代
1586年、大友家は島津に攻め込まれ崩壊の危機を迎えていた
その為、大友宗麟は豊臣秀吉に支援を求める
前回も少し触れたが、ここでも豊臣秀吉の役割に関して言及しよう
1584年の小牧・長久手の戦いを経て、1585年には四国侵攻を果たすと同時に最初の上田制覇を果たしたことで、秀吉は西方及び東方を平定する機会を得ていた
更なる西方には九州があり、ここは平定されるのを待っている状態だった
九州が秀吉の最重要ターゲットであったが、当時秀吉は当方にも課題を持っていた
上田城を平定したが、秀吉と北条氏との関係は更に悪化する
秀吉は、早晩北条氏と対峙しなくてはならないだろうと覚悟を固めた
北条氏政が秀吉に屈服することは考えられなかったからだ
しかし、その時には北条氏を相手に戦いを挑む正当な理由がなかった
将来の平安の為には、現況を変えるべき正論が必要だったのだ
ここまでの所、秀吉のアクションにはすべて明確な理由があった
織田信長との戦い然り、柴田勝家然りである
織田信勝や徳川家康との戦いに関しても、彼なりの正当な理由があったのだ
四国平定に関しても、四国の大名が徳川方についたということを理由にして挑んでいった
秀吉はただ単に領土を広げるためだけにランダムな戦いを行っていたのではなく、戦略的な領土拡大を画策していた
秀吉がコミットした数々の戦いは、将来の日本の平安を達成するという目的のために正当化されている
秀吉は自らを、日本を平定した人物として描きたかったようだ
勿論、現代の検証では秀吉もまた野望をもって、敵方についた武将たちを攻撃していたと言われているのだが
この段階では、北条氏はまだ秀吉に、彼らに攻撃を仕掛ける理由を与えていなかった
そのような状況で、秀吉の第一のターゲットとなったのが九州だ
当時の九州は、島津と大友の勢力争いが激しく行われていた

1586年、大友氏が秀吉に助勢を願い出た
これが秀吉に待ち望んでいた機会を与える
当初、秀吉は島津と大友の争いを話し合いで解決しようと試みる
島津の拒絶にあった秀吉側は、早急に武力侵攻の策を練る、秀吉は島津を打ち破り九州平定を試みたのだ
四国平定の際の経験が、秀吉に水軍での戦いの策を授け、九州の戦いでは当時最大規模の水軍での攻撃を仕掛けた
秀吉と彼の同盟軍は九州での戦いに注力した
初期の作戦は、四国から豊後に上陸することであった、長曾我部などがこれに参加した
この作戦が成功すれば、島津側は豊後に上陸した勢力に対峙することに戦力を割かれ、弁方面から九州に攻め込む豊臣軍への対応が遅れると見たのだ
メインの戦力である豊臣軍は、九州北部側から豊前に攻め込む
総勢力は200,000であったと言われる
豊臣秀長と小早川隆景などは、上陸と共に南下して東海岸側に向かい、秀吉自身は120,000の兵を率い西に向かうという作戦だった
東西両方から島津を攻め込み、制圧する戦略だ
しかし、戦局は当初予定したようには展開しなかった
先陣を切った長曾我部と仙谷秀久の九州上陸は大失敗を喫する
四国での敗北を挽回する為か、仙谷秀久は上陸に際しての秀吉の指示を無視して、大友軍への助太刀に走る
豊後に上陸した軍勢は散々な敗北を喫し、長宗我部元親はその子供を失うという結果を招いた
秀久はこれにより、秀吉からすべての領土を取り上げられる
長宗我部元親は秀吉の命に従ったが、秀久の失敗により子を失くすという悲劇を経験する
これに心を痛めた秀吉は、元親に大隅の領土を与えた

1587年1月、秀吉軍は九州に侵攻する
島津軍は何万もの兵を、大友氏から奪い取った土地だけでなく九州全体に配備して、迎え撃つ準備をしていた
しかし、大量の豊臣軍の九州上陸を目にして、島津側は戦略の再考を余儀なくされた
島津義久は兄弟と協議を重ね、得たばかりの領土を手放し一旦南部に撤退する道を選ぶ
豊臣軍は、ほとんど抵抗を受けないまま、南部の島津の拠点まで侵攻した
この道すがら、多くの武将が豊臣側に投降したが、その中には島津側から寝返ったものも多かった
最も顕著だったのが、鍋島氏の豊臣側への参戦であろう
鍋島氏は大友氏と共に、秀吉軍を迎え入れた
日向に侵攻した豊臣軍は、島津軍と最初の大掛かりな戦闘に入る、これが高城の戦いだ
秀長軍に追われていた島津家久は、いきなり軍を展開させ秀吉軍に奇襲をかけた
島津軍20,000人が15,000の秀長軍に対峙した
数で上回る島津軍が勝利を得るかと思えた時、後方から15,000の豊臣の雄軍が駆けつける
背後からの攻撃は、島津軍に実際よりも大勢の軍勢がいるという幻想を抱かせた
島津軍は南方への撤退を余儀なくされる
これにより、秀長は高を平定する機会を得る
優勢に転じる機会を失した島津に残されていたのは、防戦のみだ
川内川では反撃の機会があった
数で大きく差をつけられていた島津軍は、川を渡りきることができれば戦局を変える機会があると考えた
しかし、5,000人の軍で170,000に対峙するのは不可能であるのは火を見るよりも明らかだったが、島津軍は最後まであきらめなかった
この戦いでは、新納 忠元と加藤清正の決闘でも有名だ
加藤清正が勝利を納めたが、今日でもどちらが勝ってもおかしくなかったと言われている
この戦いで島津軍は壊滅的な打撃を受け、豊臣軍に鹿児島への侵攻を許すことになる

鹿児島は、豊臣秀長、加藤清正、福島正則、黒田孝高らにより囲まれた
島津義弘は戦い続けることを望んだが、島津義久は敗北を認める道を選択した
義久は京都に移送され、自分の娘を含む家族のものを人質として差し出すことに合意した
かつての敵と講和を結ぶ経験に長けていた秀吉は、島津の領土を残し島津義弘のもとで薩摩を治めることを許可した
秀吉は先に大隅を長曾我部に与えたが、豊後は大友の手に残したままだった
肥前は竜造寺と有馬とその他小名に分けられ、小早川は筑前筑後を手にする
備前は黒田孝高に与えられ、肥後の大部分は加藤清正のものとなりその他の部分は小西行長のものとなった
日向の残りは、島津・秋月などにより分けられた
九州全土が豊臣の勢力下におかれたのだ
わずか半年で九州平定を成し遂げた秀吉は、当方制定にその焦点を当てる

今日のおさらいだ
1586年に大友氏からの支援要請を受けた秀吉は、これを島津を攻撃する千載一遇のチャンスととらえ、スピーディーに行動を起こす
外交的な調整には失敗するが、戦いを仕掛けることで九州平定の目標は達成された
大軍を急襲に上陸させることで、島津の領土深くまで侵攻することに成功し、数の力で優位に立ち島津を退けた
最後には島津義久は負けを認め、九州は秀吉の影響下に置かれることになったのだ


外国人「第二次世界大戦の時って大日本帝国は特殊部隊とかいたの?」(海外反応)

外国人「第二次世界大戦の時って大日本帝国は特殊部隊とかいたの?」(海外反応)

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第2次世界大戦中 日本帝国にはどんな種類の特殊部隊がありましたか?
連合軍側やドイツの特殊部隊についてはいろんな事を聞きますが(SAS コマンドー レンジャーズ OSSなど)日本の特殊部隊についてはあまり知られていません とくに歩兵について もちろん特殊攻撃の部隊があったでしょうが他にはあまり聞きません 隠されていたのでしょうか? 歩兵部隊について気になっています


海外「義経には同情しかない…」蒙古襲来に権力争い…日本の鎌倉時代に海外興味津々(海外反応)

海外「義経には同情しかない…」蒙古襲来に権力争い…日本の鎌倉時代に海外興味津々(海外反応)

投稿者
鎌倉時代―最初の将軍と蒙古来襲

鎌倉時代って言うのは、最初の将軍が誕生して、蒙古来襲もあった時代だね
サムライも少年期を迎えて、物事がだんだん怪しげになってきたんだ
永遠に続くかと思ったけど、源平合戦が終わってようやく平安時代に幕が下りた



さぁ、いよいよ鎌倉時代
ちょっと駆け足で、まとめてみよう
戦は源頼朝をセンターステージに送り出した、彼が鎌倉を本拠とする軍勢の長となったんだ
頼朝が最初に着手したのが、敵をすべて倒すことだった
弟の義経を追い詰めた
義経は奥州の藤原氏によって殺されたんだけど、義経の首を頼朝に送った藤原氏は“僕らの事は殺さないでね”ってメモをつけてたらしい
義経の側室が子供を産んだ際には、頼朝はその子を殺害させている
頼朝は又別の弟である範頼も殺害してる、彼が寝返ったんじゃないかって邪推したんだ
これでは飽き足りなくて、娘婿まで殺してるよ。。。。
これだけ聞くと、頼朝は家族ばっかり殺した鬼畜のような奴だって思うだろ?
でも、実はそうじゃないんだ
家族以外にも奥州藤原氏も皆殺しさ、義経の事を葬ってもらったのにね

1192年、朝廷は頼朝に征夷大将軍の位を授けた
これで、頼朝は正式に将軍の位についた
朝廷が彼に勢力を与えたって言うよりも、頼朝が強力だったから位が後からついてきた、っていう所だね
征夷大将軍の位についたからって、何かが変わったわけじゃない
でも、この時期は頼朝にとっては幸せな時代だったよ
軍事政権が生まれた時だったんだ、これは幕府って呼ばれた
幕府は朝廷を蔑ろにしたんじゃなくて、日本中を手中に納めたわけでもない
この時代には、日本には二つの政府が存在してた
伝統的な政府は京都に本拠を構え、軍事政府が鎌倉にあったんだ
高名な武将たちは鎌倉地方に本拠地を置いていた
頼朝は、政策をまず京都の朝廷から承認されてから執行するようにしてた
有体に言えば、鎌倉幕府は関東を統括して、そのほかの地方は京都が統括してたって事
頼朝にとっての懸念は、彼の死後この軍事政権があっけなく倒れてしまう事だった
これを防ぐために、彼は色々策を施した
彼が1199年に死ぬと、将軍の地位は彼の息子頼家に受け継がれた
でも、彼の家系が権力の中枢にいた期間はそんなに長くなかった
頼朝の妻は北条政子
彼女の実家の北条家は、頼家が将軍の座に就くことを快く思ってなかった
北条家は頼家に辞職を促し、その弟を将軍の座につけ、頼家を暗殺しちゃった。。。。
新たに将軍となった実朝はまだ子供だったから、北条氏はあっさり彼の後見についちゃった
ここから北条氏のレガシーが始まるよ
将軍はお飾りになって、北条氏が政治の実権を握ったんだ
これは1333年に鎌倉時代が終焉を迎えるまで続いた
源頼朝の死後、北条政子は出家して、お祈りの合間に北条氏をがっちり支配下に置いて、彼女の兄弟と共に将軍家のフィクサーになった
彼女は尼将軍と呼ばれて、彼女の時代には色々とドロドロした政治ドラマが展開された
日本で政治の実権を握ったのが将軍で、天皇家はお飾りだったってことだよね
でも、頼朝の後で将軍それ自体もお飾りっぽくなってきた
鎌倉時代に実権を持っていた将軍は頼朝だけだったんだ

1221年、位を退いた後鳥羽天皇は問題を抱えていた
彼は将軍の勢力が強くなりすぎていると考えて、兵を集め将軍の勢力に対して戦いを挑んだ
これがお粗末な承久の戦いだ
この戦いの後で、将軍派は敗戦側の土地をすべて取り上げた
これで鎌倉側のパワーは京都のそれを上回るようになる
鎌倉側が、誰が天皇の位につくかに口をはさんでくることもあった

1274年、フビライハンが日本に攻め込んできた
モンゴルと日本は何度もやり取りをしていて、事態は「言う事を聞かないと攻め込むぞ!」ってところまで行ってた
日本側は、「来れるもんなら来てみろ、俺っちには神風が吹いてるんだ」って強気に構えてたらしい
モンゴル来襲は対馬から始まって、モンゴル軍は九州に向けて侵攻してたんだけど、結局は撤退せざるを得なかった
台風のせいだって言われてるけど、研究者の多くは台風なんて来なかったって思ってるよ
1281年、モンゴル軍は再び襲ってきた、今度は前の時より大勢の兵を率いていたんだ
でも今回は本物の台風に襲われて、散々な目に遭った。。。。。
モンゴル軍の大将は、“船の大きさじゃない、波の大きさだ”ってなことを詠った詩を残した
日本人は、この台風の事を“神風”って呼んだ
何とかモンゴル軍を押し返すことができたけど、これは将軍にとっては大きな頭痛の種となった
鎌倉幕府は、武勇を立てた武士に与える土地がなくなってきていたんだ
寺社勢力も、自分たちの祈りが神風を呼び覚ました、って主張して褒美を欲しがった
この戦いで活躍したサムライ達は、約束された土地が与えられないのに不満を持ち、将軍が約束をたがえていると考え始めた
朝廷の豪華な生活様式も、サムライの鼻につくようになった
領地が増えないから収入も頭打ちで、子供に領地を分け与えると、実入りが減ってしまった
こうなると、殺戮が一番都合のいいオプションに見えてくる
頼朝の時代に彼のために戦った武士たちは、とっくの昔に忠誠心など失っていた
さらなる領地を獲得することにあくせくして、将軍への忠誠心などどこかに置き忘れてきた
鎌倉政府は、土地は一人の息子にしか相続させることはできない、っていう策を講じた
他の家族やペットは彼の下に置かれることになった
女性も母方の土地を相続することはできたけど、時代が進むと女性が所有する土地はどんどん減っていった

この時期に仏教が盛んになってきた
仏教は中国から伝来した、ってことは男子の権利を尊重する孔子の教えが入って来たって事
彼によれば、女性は劣るものだと考えられていたんだ
女性は仏教の聖地、比叡山などに入山することも認められていなかったよ
平安時代には、仏教は貴族階級によって信仰されてた
でも、鎌倉時代になって仏教は一般市民にも広がったんだ
これは源平の戦いの後で、軍事勢力が力を増していた頃だった
世の中が安定してない時だったから、一般市民も心のよりどころが必要だったんだ
主なところは、浄土真宗・日蓮宗・禅宗なんかだね
浄土真宗は、大衆向けの信仰だった、大衆に浄土に続く道を説いたんだ
暮らしに希望が持てなかった人たち(当時のほとんどの人たちだけど。。。)に人気だった
阿弥陀様を信仰したんだ
阿弥陀様の名前を繰り返し唱えることで、極楽浄土に行けるって信じてた
“南無阿弥陀仏”って言うのはここから来てるんだ
中国でも似たような言葉を使ってるね
日蓮宗では蓮の祈りを捧げることを教えてる
日蓮は、物静かで親しみやすい僧侶だったらしいってことだけど、彼の銅像から察するに、真逆だったとしか思えないよ。。。。。
彼に従っていたのは、僧兵で国粋主義的な考えを持っている者が多かった
彼は、他の宗派はすべてクソで、自分の宗派だけが純粋な仏教を教えてるって主張してた
彼の宗派だけが日本で生まれた純粋な仏教だってことらしい。。。。
最後が禅宗、この宗派の目指したのはパラダイスじゃなくて、修業を通じて物事の摂理を説く、って言うものだった
頭で考えるのではなく、座禅を組むことで物事の真理に到達しようとした
言うのは簡単だけど、これを実践するのは中々難しいよ
禅はサムライに良く馴染んでいた
シンプルで、刹那的で、自律的なものだった
他社に救いを求めるのではなく、救いは自らの内にあるとされた
禅の教えは日本の文化全般に影響を与えてるね
茶道や日本庭園、刀工、絵画なんかにその影響が出てるのが分かるだろう?

この時代の終わり頃に、当時の天皇は将軍制度にほとほとうんざりしたんだ
これが後醍醐天皇だよ
彼を天皇に据えたのは将軍家なんだけど、天皇の位についたら後醍醐天皇はアンチ将軍派の動きを重用するようになる
後醍醐天皇は1333年に鎌倉幕府を追い出し、天皇家が日本を統治するシステムを再び始めた、まぁこれは3年くらいしか続かなかったんだけど。。。。


海外「まさにレジェンド…」義経に楠木正成…日本の歴代『伝説の侍』の一生に海外興味津々(海外反応)

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投稿者
伝説のサムライ

今日は、クールな伝説のサムライがテーマだよ
さぁ、誰が一番クールなサムライに選ばれるかな、こうご期待!



先ず最初は、義経と弁慶
これは日本で一番有名な兄弟愛を描いてるものだよ
源義経は有名な武将で、有名な武勇伝がいっぱいある
彼には西塔武蔵坊弁慶っていう右腕がいたけど、彼の名前は歴史には数回しか出てこない
弁慶は生まれる前から頑固者だったらしい
お母さんのお腹の中に18ヶ月も居座っていたんだって
弁慶は大柄で声の大きな奴だった
彼は僧侶だったんだけど、寺を飛び出して日本中を歩き回り、まぁ色々やってたんだ
この二人の出会った様子は有名な話だ
ある日弁慶は、刀を1000本奪い取ろうと決心した
何故かって? だって彼が周りを見回すと、金持ちで馬を1000頭持ってる人とかいるし、
弓を1000本持ってる人もいる
金持ちは何にせよ1000持ってる、って感じじゃん
自分が刀を1000本持ってたら、人は自分の事を金持ちだって思うかな、って考えたんだ
弁慶は夜の京都の町に繰り出し、出会う人々に果し合いを挑み勝つと刀を取り上げていった
すぐに京都の町には、10尺の大男が人々から刀を取り上げてるって噂が駆け回った
数か月で、弁慶は999本の刀を取り上げていた
彼は、1000本目にはそれにふさわしい刀が見つかるといいなぁ、って思いながら五条橋に差し掛かる
するとどこからともなく、美しい横笛の音色が聞こえてきた
夢見がちの少年が、女性のベールをつけてこちらにやってくるのが見て取れた
なよっとした感じの少年だったけど、弁慶は彼の腰の立派な刀に身が吸い寄せられた
これはちょろいと思った弁慶は、大音声で「その刀をこっちによこせ!」って叫ぶ
これが刀を奪っているやつに違いないと思った義経は、これを拒否する
両者の戦いが始まったけど、これは弁慶が考えていたようには進まなかった
義経は小柄な少年だったけど、すばしっこくて橋の上を飛び回ってた
弁慶が義経の前に立ちはだかった時には、2段蹴りをかましたりした
最後には義経が勝ったんだけど、弁慶の強さを認めた義経は自分の家来にならないか、と尋ねる
ここから後、有名な主従関係が築かれていき、弁慶は義経の一番の家来となる
弁慶の忠臣は最後まで揺らぐことがなかった
最後の戦いで負けを悟った義経は、切腹しようした
弁慶は敵が義経の切腹を邪魔しないように守りを固め、自らも弓や刀に傷つきながらも戦い続け、誰も義経に近寄らないようにしていた
敵陣は長い間義経に近づけずにいたが、しばらくして弁慶が立ったままで死んでいることに気が付いた、死んでも義経を守り続けていたのだ。。。。
このおかげで、義経は彼の家族と共に切腹をすることができた
義経と弁慶は、日本で最も気高い武士として知られている

ここで、これより優れていたと言われる武士を紹介しよう
戦いで武名を揚げただけではなく、一度も怪我を負うことがなかったサムライ
本多忠勝だ
彼の名前は、サムライに興味がある人なら良く知っていると思う
彼は三河の出身で、元々浄土宗の熱心な信者だった、これは一向一揆で有名になった一向宗に打ち負かされた宗教だ
当時まだ松平元康と名乗っていた後の徳川家康が三河に戻り、元々自分の領土であった土地を桶狭間の戦いの後で取り戻すと、忠勝は浄土宗を捨て徳川家康の側につくことにした
その後の生涯、忠勝は家康に忠誠を示し続け、数々の戦いで彼の右腕として戦った
姉川から三方ヶ原の戦いまで、そして長篠から小牧・長久手の戦い、小田原から関ヶ原、そしてもっと数多くの戦いで家康に付き従っていた
彼がいるということが、戦いに力を与えた
彼の武将としての能力だけでなく、彼のルックスも敵に恐れを抱かせる原因だった
名工村正の名の入った愛槍の蜻蛉切を抱え、敵ににらみを利かせていた
彼の名声は周りの尊敬を集めていたため、家康が豊臣秀吉との戦を行った際には、思いがけない効力をあげた
忠勝の名声を聞き及んでいた秀吉が、忠勝との戦いを避けたのだ
彼の経歴だけが、彼を優れた武将としているのではない
数々の戦いを無傷で切り抜けたことが、彼を優れた武将としているのだ
これは彼が1610年に畳の上で寿命を終えるまで続いた
彼は日本が生んだ最も優れた武将の一人と言うだけでなく、戦場での死を逃れた武将としてその名を後世に知らしめている
ふーん、一度も切られなかったんだ、紙でスパッと指を切るとかもなかったのかな?

さぁ、今度は自分の主人の為にすべてを捧げたサムライを紹介するよ
楠木正成だ
最初の幕府は1185年に打ち立てられた軍事政権
その後朝廷よりも力をつけてきちゃったから、後醍醐天皇は腹を立てて自分の軍勢を集め幕府転覆をはかるんだ
楠木正成は、この軍隊の忠臣
朝廷の時代は、その後足利尊氏が反乱を起こすまで2年半ほど続いた
尊氏はサムライの力を取り戻そうとして、朝廷軍よりも大きな軍を率いて首都まで攻め込んでくる
正成は、この軍勢と正面切って戦うことは得策ではないとして、一旦首都を離れゲリラ戦を展開するべきだと提案した
天皇はこの話に興味を示したが、他の家臣と相談してやはり敵陣と正面からぶつかることにしたんだ。。。。。
正成はこれは自殺行為だって分かってたけど、自分は逃げることなく敵に立ち向かうことにした
この戦いに臨むってことは、自らの死を意味する
戦場に赴く前に、正成は自身の11歳の息子に「何が起きても天皇に対する忠誠を忘れてはならない」と語った
これが湊川の戦
戦いは長引いたが、朝廷側にとっては厳しいもので、正成と彼の兄弟、そしてごくわずかの兵だけが残った
残った全員が、切腹することを決意した、当時は他に方法なんてなかったからね
ここで正成の兄弟が「7度生まれ変わっても、この国に忠誠を捧げる」っていう有名なセリフを残す
正成もこれに賛意を示し、彼らは全員切腹して果てる
この後、正成の息子も天皇の為に命を落とす
楠木一族が全員 “忠誠を尽くす” っていう生き方を世に示したんだね

正成が、彼の忠誠心で皆の心に残ってることは認めよう
今度は、その忠誠心が後の日本に何世代にもわたって影響を与えたサムライを紹介しよう
実は普段はあまり顧みられることがない人物なんだ
あまくに(天国)は刀鍛冶だった
後の刀のもととなる太刀を作り上げたものとして知られている
700年ころの大和の国、そこにはあまくにと呼ばれる刀鍛冶が暮らしていた
最初は、彼の仕事はそれほど抜きんでた物ではなかった
彼の作る刀はそれほど機能的なものではなかったが、いつの日か素晴らしい刀を作り有名になりたい、という夢だけは持ち続けていた
彼がその当時作っていた刀のデザインは、ほとんど中国や朝鮮など大陸から渡ってきたものを模したものだった
まっすぐな本身に、両刃か片刃が付いたものだった
何とか使うことはできたが、当時の日本での戦いの在り方にはマッチしていないものだった
初期の頃の日本での戦いで使われた刀の主な用途は切り裂くことで、中国で使われたいたように刺し殺すことには使われていなかった
そのような理由から、中国式の刀は無駄に酷使されることが多かった
刃こぼれやゆがみ、刃の割れなどは日常茶飯事だった
当時の鋳物技術力の低さも刀の性能の低さの原因の一つだった
武士が戦場から戻ると、あまくには刀をチェックするようになった
自分の刀に大きなダメージがあることを発見するたびに、彼はとことん悲しくなってしまう
性能を上げるために何ができるだろう?と悩んだ彼は、大胆な方法をとる
彼は息子と共に工房に籠り、神道の神に祈りを捧げ続けた
7日7晩祈り続け、やっと光明が見えてきた
その場で彼は刀づくりをはじめ、今までになかったような刀を作り始める
焼き入れをして、鉄を折り重ねていくことで不純なものを取り除き、鋼を鍛えていく
最初の太刀を作り上げた
強い反りをもった片刃の刀で、日本式の戦いにはより適している
当時の刀鍛冶は、このデザインに懐疑的だった
今まで何世紀にもわたって使い続けてきた刀よりも優れているのだろうか?
結果的に、彼の刀が優れていることは証明された
あまくにの刀を携えて戦場に臨んだ武士たちは、刃こぼれもしていない刀と共に国に戻り、その刀の素晴らしさを語り草にした
その後、太刀が日本での戦いの主な武器となった
時代が立つごとに、デザインはますます機能性を増し、更に洗練されたデザインも見られるようになってきた
野太刀、脇差、そしてもちろん刀など
これらの優れた武器も、あまくにがいなければ生まれることはなかっただろう

へぇー、でもこの人は刀作ってただけだよねぇ??
僕が刀を使いこなした名人を紹介するよ
彼の名前は宮本武蔵、刀の達人だって言われてる
60以上の決闘に臨んですべて勝った、って話だよ
伝説の決闘が、ライバル佐々木小次郎との戦い
小次郎は大きな男で、使ってた刀も大太刀だった
決闘の当日、小次郎や見物人が決闘場で待っていた時、武蔵は船の上で寝過ごしちゃった
わざと遅れたって言う人もいるけどね、小次郎をイライラさせるための戦術だ
武蔵は剣の達人ってだけじゃなくて、戦略家でもあった
自分が勝つために、使えるものは何でも使ったんだ
寝過ごした後で武蔵がやったのは、船のオールを刀みたいに削ったこと
この理由については諸説あるよ
一つは小次郎の刀に匹敵するよう(に見える)大きな刀を持ってる、って思わせたかった
別の説では、木刀の先がちょっと見えるように抱えて、小次郎をびっくりさせたかったって言うもの
ようやく武蔵が現れた時には、3時間も待たされていた小次郎はカンカンだった
武蔵が木刀を抱えてるって分かった時、小次郎の怒りは頂点に達したよ
武蔵がこの決闘を真剣に考えてない、って思ったんだ
小次郎は有名な燕返しを繰り出すと、武蔵も彼の木刀を繰り出す
小次郎の刀は武蔵の鉢巻きを切ったけど、武蔵の木刀は小次郎の頭をたたき割った
小次郎は命を落とし、武蔵の全勝記録は続いた



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