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海外「永遠に生きられる…」人間を食べる?海外より恐ろしい日本版人魚に海外興味津々(海外反応)

海外「永遠に生きられる…」人間を食べる?海外より恐ろしい日本版人魚に海外興味津々(海外反応)

投稿者
日本の人魚 人間を食べるんだよ・日本の伝説



日本の人魚はアンデルセンの人魚とはだいぶ違う
江戸時代に動物のいろんな場所を取り合わせた人魚が作られました
これはロンドン間で持っていかれ「フジマーメイド」と呼ばれました
だれが作ったかわかりませんがこれは魚のしっぽを猿の胴につけたものです
人魚のお話はかなり古く中国から日本に渡ってきたのだろうと思われます
中国の人魚の話は2000年ほどまえには中国にあったようです
これが日本の迷信と混ざってしまいました

日本では人魚の血をのむと年を取らなくなると言われています
人魚は邪悪だとされこれを持ち帰ると村に厄災がくるといわれています
人魚のモデルになったのはマナティという動物ではないかとも言われています
八百比丘尼(やおびくに)は日本の人魚のお話です

人魚を捕まえた漁師がおもしろいとおもって料理した物を娘が食べてしまいこの子はずっと若いまま生き続けたといいます
夫を見送る事に疲れた娘はその後自殺してしまいます
人魚を捕まえた漁師は他にもいて助けてほしいと言った人魚をころし家に持ち帰っていると子ども達がそれを食べ魚にかわってしまっていたという話もあります 

漁師は子ども達を戸隠にうめその思い出のために植えた3本杉はいまでもそこにあります
日本の人魚の話しは江戸時代になると人と結婚する美しい娘になってきました
1900年にはアンデルセンの人魚姫が紹介され欧米風の人魚が有名になりました


海外「生まれる時代を間違えた…」浮気も不倫も問題なし?平安時代の文化に海外興味津々(海外反応)

海外「生まれる時代を間違えた…」浮気も不倫も問題なし?平安時代の文化に海外興味津々(海外反応)

投稿者
昔の日本の浮気文化



平安時代の男女関係の最も共通しているものは何か知っていますか
結婚でも純愛でもないものでした
平安時代は性的にフリーな文化だったのです

しかし良いことばかりではありません
それに伴うダークサイドもあります
平安時代における婚姻関係はすこしおかしなものでした
妻と旦那が別々に暮らしていました
また同じところに住むこともありました
しかし、別の建物という話です

今では結婚初夜で起こることも平安時代ではそれはありませんでした
藤原一族はその娘を皇族と結婚させることで、政治に介入しようとしていました
大抵は周りの世話をしてくれる女性に手を出していましたが
結婚している女性も多くいました

女性の部屋に入り夜明け前に出ていくという感じです
当時の女性も旦那に加え、メインの愛人やその次など多くの関係を持っていました
そういったこともあり男性・女性ともにバランスがとれていたのです
当時の日本人が浮気を不道徳であると考えたか、それは違います
結構普通のことでした

男性だけが女性を思い通りにできたわけじゃないのです
磁石に吸い込まれるように引っ付いていったのです
性的なことは日本では宗教が介入しません
欧米では宗教が介入しがちですけどね

神道にセックス自体が不浄であるという考えはありません
仏教はセックスをしても楽しむなというものがあります
当時は顔を真っ白に塗ることが美の象徴で、歯を黒く塗ります
芸術や音楽、文学などにも美があり、浮気などもそのうちに入っていたのです
現在のような考えではなく、ポジティブなものだったのです
では、性の自由のダークサイドはなんなのでしょうか

男性が女性を追いかける傾向にあったのですが、女性を責めることはなかったのです
それは法律に反しないものの社会的なエチケットとしてはダメなものだったのです
美というものを女性が守っていたのです

平安時代には悲しみというものも美の一部として考えられていました
苦しいことや悲しいことは紙に書いてそれを示すことも美だったのです
センシティブなことを示すことが美に感じられたからです
それには仏教の教えが少しだけ入っていることが考えられるのです

この動画チャンネルは日本の歴史を知ってもらい
文化、そしてアジア文化まで尊敬の念を持ってもらうことが目標です


海外「知らなかった…」日本が『日出ずる国』と呼ばれる本当の理由に海外興味津々(海外反応)

海外「知らなかった…」日本が『日出ずる国』と呼ばれる本当の理由に海外興味津々(海外反応)

投稿者
日本が「日の出ずる国」と呼ばれる本当の理由とは?

この動画では質問に答えていきます
日本が「日の出ずる国」と呼ばれる理由は?というものがありました



古代中国では色々なものが発明されました
言葉を書くことや銅を作る技術などがあります
日本よりも2000年は先を行っていました
中国はその技術などを新興文化にシェアしていきます
哲学や政治的な構造、建築、仏教などなどもです

中国から日本をみた場合東側にあたります
それは日の出の方向になるのです
初めて日本が中国に大使をAD57年に送ったときがありました
当時は倭国でした
彼らは服従していたのです

中国側にある記述によると日本では多くの暴力があったとしています
しかしながらAD1世紀に大和一族が制圧し始めます
AD5世紀になると日本人としての存在になったのです
社会的に構築されてくると日本は中国の文化や方法を取り入れます
AD600年にいた聖徳太子は、特に中国のものを好んでいました
そのため大きな影響が広がっていったのです
仏教の寺などを建て始めたのもこのときです

ニッポンというものを作り出した人物だとも言われています
607年に彼は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書きました
AD645年には大化の改新がありました

天皇中心の中央集権国家を目指して行われたのです
そうして、日本やニッポン、ダイニッポンという言葉が使われるようになります
中国はその国の呼び方を良しとしませんでした

しかし、中国側の記述では皇帝がニッポンに改名するように言ったとしています
そして670年中国への大使が送られ高句麗の征服の成功に祝辞が贈られたのです
当時ニッポンというのを選んだ理由として日の出に1番近い国だったからだとしています
7世紀後期には日本と言う名前が定着しました

それから1400年ほどが経ちますが世界は日本をニッポンと呼びます
日の出ずる国と言う意味でです
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海外「日本人はいろんな話を考える…」日本の怪談『化け猫』に海外興味津々(海外反応)

海外「日本人はいろんな話を考える…」日本の怪談『化け猫』に海外興味津々(海外反応)

鍋島の化け猫騒動
肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半左衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説[18]。



投稿者
警備の者がふすま越しに猫の影を槍で突いた だが影は消え、奥方の姿はどこにもなかった
猫をあまりにも長い間飼っているとどうなるか知ってる? 化け猫になるんだよ 日本の迷信ではね



猫といえば強欲、信頼できないなどと言われますが それは長く刈っているうちに人間の知識を覚えるからだとも、長く生きているうちに化け猫になって人を殺すからだとも言われている 今日は猫のおはなし 「鍋島藩の化け猫」

鍋島公は囲碁が好きだった 相手はいつも盲目の家来で、家来は猫を飼っていた ある日、いつも通りに碁を打っていたが、負けが込んだ鍋島公は罰として家来の首を討たせた 家来の母親はそのことを聞いて大変嘆いた 涙ながらに、母親は猫に言った 「お前の主人は殺されたよ、仇を打っておくれ」 猫「ニャー」 そしてネコは姿を消した

その後、鍋島公のまわりでおかしなことがいくつも起こった 公は眠れず、具合が悪く、げっそりと痩せた なぜかは誰にも分らなかった 理由を知っていたのは下級の家来ただ一人 鍋島公の部屋の外はにいつも忠実な警備が立っていた だが警備の者も、時には居眠りをする 警備の者は鍋島公が死にそうなことに心を痛めたが、どうしていいかわからなかった だが警備をしていて、おかしなことに気が付いた 鍋島公の奥方である 

奥方が部屋に入ると、鍋島公はいつもうめき声を上げるのだ 色っぽいやつではなく、苦しそうな声 そこで警備の者は奥方を注意して見張るようになった

あるとき、奥方が部屋に入ると、その影が障子に映し出された それは人の形ではなく、ありえないほど巨大な猫の影だった 危険を感じた警備の者は槍でその影をついた 影は消え去り、奥方の姿もどこにもなくなっていた さらにおかしなことに、その翌日、奥方は自室から一歩も出なかった 風呂で足を滑らせ怪我をしたというのだ さらにおかしなことに、このところ奥方は毎日魚しか食べなかった だが以前は魚が大嫌いだったはずなのだ 

警備の者は奥方に目を光らせた にらんだ通り、奥方はどことなく猫のような行動をしていた 猫の大好きな辛子油は、灯りにも使われる ある日、警備の者は奥方が四つん這いになって灯り用の辛子油を舐めているところを目撃する 人間と共に暮らすうち、猫は人間のようにふるまいどんどん賢くなっていくのだという 後ろ足で立ち、頭にタオルを乗せて踊りだしたり 知らんけど
警備の者は、奥方ではなく人間の姿をした猫だと考え、彼女を槍で突きさした するとその通り、奥方はあっという間に猫の姿になり、外へと逃げていった それは殺された目の見えない家来のネコだと、警備の者は気が付いた 後日、家来たちが奥方の部屋を調べると、奥方の骸骨と着物が見つかった 化け猫は殺した者の身体を食べてその人の姿を手にいれるのだという 奥方も化け猫に食われたのだろう 化け猫は不当に殺された主人の敵討ちとして、鍋島公の血をすすっていたのだ

猫は廃屋となった寺で見つかった なぜ鍋島公を傷つけたのかと問うと、化け猫は答えた 「ニャー」 それが合図だったのだろう、一瞬にして暗闇から多くのネコが現れた 家来たちは必死で立ち回り、公を苦しめた化け猫を退治した  
もちろん、鍋島公は健康を回復しましたとさ

さてここでもう一つ 猫を見分けるポイントがいくつかある ひとつは色 毛色が三色のネコは問題なし 白い猫は賢くて長生きだから化けやすい 特に雌猫はね 黒猫は悪魔 ピンクや赤い猫はもっとも危険 化け猫になる可能性が最も高いから飼わないほうがいい お宅の猫は何色かな?

そしてもう一つ 猫の耳の先が割れ始めたら、化け猫になり始めている証拠だよ 尻尾も割れる 尻尾が短い猫が好まれるのは、長いと割れるからだ 猫またって言うだろ 猫のお化けだ たくさんのしっぽを持つキツネの伝説とも似ているね 猫またの場合は尻尾は2本 まあ、3本のしっぽを持つ猫の話もあるにはあるんだけど 猫を死体のそばに置いておいてはいけないよ 死体をかじってゾンビにしてしまうからね 人間には2つの魂があって、いい魂は死ぬとすぐ天国へ行くんだけど、悪い魂はしばらく死体と一緒にいる 猫はその魂に飛びついて、死体に戻してしまうんだ 


海外「日本にワニがいるの…?」古事記に登場する日本の神話に海外興味津々(海外反応)

海外「日本にワニがいるの…?」古事記に登場する日本の神話に海外興味津々(海外反応)

日本の古事記に登場する因幡の白ウサギが海外で話題になっていました

投稿者
因幡のうさぎ 日本の神話



むかしむかし日本に神がいたころ
隠岐に白いウサギがいました 
かれは本土に渡りたいとかんがえたが目の前に広がる海をわたるすべがなかった
しかし彼はいい事を思いついた
海に向かって「ワニよりもウサギの方がずっと多いのだ」と大声でいうと
それをきいたワニが怒って集まってきました
ここをずっとならんだら僕が数を数えようとウサギが持ちかけるとわにはそれもそうだと並びました
最後のわにをわたるところでつい「だましたんだよ」と言ってしまうと最後のわににつかまり毛皮をはがれてしまいました
苦しんでいる所に神が通りすがりました
人間は海にはいって風にふかれたら治るとうさぎに教えましたが痛みは悪くなるばかりでした
次に通りすがった神は最初に通りかかった神の兄弟でしたがいい方法をおしえてくれました
川の水で身体をあらって川縁のがまの実で身体をこすると治りますよ
ウサギがそうするとがまの実がはじけてしろいけが出てきてウサギの身体にくっついたのです
うさぎはいい方法を教えてくれた神の所にいってこう予言しました
「八神の女神に心をいとめるのはあなたでしょう」
それは本当の事になるのですが続きはまたこんど

因幡の白兎
因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)とは、日本神話(古事記)に出てくるウサギ、または、このウサギの出てくる物語の名。『古事記』では「稻羽之素菟」(稲羽の素兎)と表記。

この説話は、「大国主の国づくり」の前に、なぜ他の兄弟神をさしおいて大国主が国をもったかを説明する一連の話の一部である。

この説話は、『先代旧事本紀』にあって『日本書紀』にはない。『日本書紀』では、本文でない一書にある「ヤマタノオロチ退治」の直後に「大国主の国づくり」の話が続く。また、『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』に記載はない。

『古事記』上巻(神代)にある大穴牟遲神(大国主神)[1]の求婚譚の前半に「稻羽之素菟」が登場し、大穴牟遲神に「あなたの求婚は成功するでしょう」と宣託言霊のような予祝を授ける(説話の後半は大国主の神話#八十神の迫害を参照)。

今日では、「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる」という部分だけが広く知られている。




海外「政治操作」「アメリカは…」1919年に世界で最初に公的に人種差別撤廃を訴えていた国が日本だった事実に海外議論(海外反応)

海外「政治操作」「アメリカは…」1919年に世界で最初に公的に人種差別撤廃を訴えていた国が日本だった事実に海外議論(海外反応)

投稿者
日本は人種差別を違法とするベルサイユ条約の改定を提案した
その提案が多数の支持があったにもかかわらずアメリカのウッドロウ・ウィルソンは否決した

人種的差別撤廃提案

人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。この提案に当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウィルソンは反対で事が重要なだけに全員一致で無ければ可決されないと言って否決した。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。




海外「全然知らなかった…」アメリカ独立戦争『アラモの戦い』と日本の『長篠の戦い』の意外な共通点に海外興味津々(海外反応)

海外「全然知らなかった…」アメリカ独立戦争『アラモの戦い』と日本の『長篠の戦い』の意外な共通点に海外興味津々(海外反応)

アラモの戦い
アラモの戦い(アラモのたたかい、Battle of the Alamo)は、テキサス独立戦争中の1836年2月23日 - 3月6日の13日間にメキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テクシャン反乱軍)の間で行われた戦闘。

テキサス側の拠点とされ戦闘の舞台となったアラモ伝道所はテキサス州サンアントニオ中心街の一角に遺跡がある。



投稿者
アラモの戦いと長篠の戦いに共通する英雄像

テキサス州サンアントニオのアラモの砦には石碑があって、そこには長篠は日本のアラモだ、と記されています
そして、アラモはアメリカの長篠なのです
長篠の合戦の英雄を知る人は、アラモの戦いの英雄も知るのです
アラモの闘いはアメリカでは割とよく知られています
しかし、この石碑に刻まれている1575年に日本で起きた長篠の戦いについては、世界的にはそれほど知られていません
この2つの戦いには、異なる2つの文化がどのように英雄を理解するか、と言う類似点が見受けられます
この闘いは、歴史から消え去ってしまってはなりません
日本は16世紀に戦国時代を迎えます
日本には数々の戦国大名が存在し、彼らは自らの領土を広げ、京都を支配する為に戦いを繰り広げました
京都に天皇はいましたが、どちらかと言えばお飾りに過ぎませんでした
当時京都を制覇したものは将軍と呼ばれ、全国の大名を司っていました

1540年頃に日本に火縄銃がもたらされます
歴史家によれば、火縄銃は15世紀にドイツで発明されたと言うことです
日本人はこの火縄銃をポルトガル人から買い付けました
当時は未だ、このような火気を戦闘でどう活用するか、色々思案が行われていました
当時名を馳せていた武士は、大刀と脇差で戦っていました
武士道が規範としてまとめられたのは16世紀になってからですが、当時の武士の戦いはとても厳しいものでした
武士が重んじたのは、尊厳、責任、家名、正直さなどということです
もし戦いで破れて捕らえられそうになった場合には、切腹をして自ら命を絶つことが、正しいことだと信じられていました
騎乗の侍に付き従っていたのが、足軽と呼ばれる軽輩です
彼らは戦場で拾った武器を使って戦っていました
足軽は特に戦闘方法を教えられたりはしていませんでしたが、度重なる戦いに明け暮れる時代にあって、足軽の教育をする必要が起きていました
武将は足軽にも弓矢や刀を与え、武具を着けさせ、火縄銃を持たせるようになります
当時の強力な武将、武田勝頼は1575年6月に長篠城に攻撃を仕掛けます
この武田家は徳川家に対してもう何年も戦いを仕掛けていました
交通の要所に建てられていた長篠城は、戦略的にとても魅力的なものだったのです
武田勝頼は、長篠城を手に入れることが出来れば、三河に勢力を伸ばし、徳川家康と織田信長の威信に楔を打ち込むことが出来ると踏んでいました
当時若干24歳で、徳川方についていた奥平貞昌は、わずか500の軍勢で長篠城を守らねばなりませんでした
武田勝頼方は、15000の兵を擁していました
勝頼は兵糧攻めを仕掛け、城の明け渡しを画策します
貞昌は助けが必要なことを認識していました
鳥居強右衛門が自ら名乗りを上げ、夜中に長篠城から家康に向けた親書を届けることを請け負います

6月22日の真夜中、強右衛門は城を抜け出し、堀を通って、当時徳川勢が本拠地を置いていた岡崎を目指します
そこには38000を超える軍勢が控えていました
親書には、城は持ちこたえてはいるが、食料は後数日で底を尽きるとありました
家康からの言質を取った後で強右衛門は長篠城に戻ります
勝頼は城に張り巡らせた縄が断ち切られているのに気づき、今度は縄に鈴を取り付けました
強右衛門は捕らえられ、城に向かって「援軍、徳川は来ない、籠城は無駄である」と叫ぶように言われます
強右衛門はこれに合意しましたが、いざ城に向かって叫ぶ段となると「援軍はもうすぐやってくる」、と叫んだのです
怒った勝頼は、強右衛門を磔にします
勝頼の従者は、迫り来る徳川軍に打ち勝つには、城に入城し、城壁をはさんで戦うしかないと結論付けます
勝頼は、これには賛同せず、平野での戦いを選びます
勝頼は自軍が培った戦略を用いれば、この平野での戦いに勝利することが出来ると自信を持っていました
武田勝頼の父親は、野戦での戦術に長けたことで知られていたのです

6月29日、勝頼は自軍を3000人ごとに5つの部隊に分割します
そのうち3部隊を迫り来る徳川を迎え撃つ位置に配置しました
一部隊は城に配置し、最後の舞台を予備軍としました
勝頼の戦術を察知していた徳川軍は火縄銃を装備し、3列に配備します
鉄砲隊には、敵が充分近くに来るまで発砲することを禁じ、一度に一列ごとに発砲するよう指示を出しますて
この方法で、常時発砲できる体制が整うことを望みました
勝頼は攻撃を指示します
その日は雨が降っていた為、火縄銃は使えないし、武田軍の高度に訓練を積んだ兵の前では
敵軍の雑兵は適わないだろうと踏んでいたのです
しかし、この戦略は全く通用しませんでした
勝頼の劣勢を城から見ていた兵は、城を出て降参しました
この戦いが終わったときに、勝頼は1万の兵と馬の3分の2を失っていました
徳川が失ったのは6000の兵士でした
長篠の戦いにおける徳川軍の勝利は、戦国時代の終焉を意味します
勝頼は、これより数年後に切腹を申しつけられました
織田信長は命を落とします
矢を受け、燃え盛る城に戻って、武士として尊厳ある死を選んだのです
信長の宿敵、徳川家康は1603年に将軍となります
彼が始めた将軍家は実に1867年まで続きました

有名なアラモの戦いは、1826年2月23日に始まりました
テキサス州のわずか189名の兵士がメキシコのサンタナ将軍率いる2000の兵に対峙したのです
ここには当然長篠の戦いとは大きな違いがあります
アラモの兵も援軍を求めたのですが、誰も助けに来なかったのです
アラモの戦いでのメッセンジャーは29歳のジェームズ・ボーナムでした
ウィリアム・トラバスから命じられて伝令に立ったのです
援軍の願いが聞き届けられなかったとき、彼はアラモに戻り、そこでなくなります
1836年3月にこの闘いは終わります
アラモの兵士はなくなりましたが、彼らは敵兵を倍も倒すことに成功したのです
その後サム・ホーソン将軍が1836年4月のサン・ジェシントの戦いで、サンタナ軍を散々に蹴散らします

日本の大学教授竹下氏が、アラモに石碑を建てた人です
彼は、柵を用いた戦法や若い将校、両軍の兵力の差、勇敢なメッセンジャーの存在など、アラモの戦いと長篠の戦いの類似点に気づいたのです
彼はアラモの戦場跡の管理をしている人々に掛け合い、石碑を設置することを認めさせました
1914年11月6日に設置された石碑の式典では、竹下教授は、テキサスの偉大な人々の心が日本に伝わることを願う、と述べています
この4フィートの石碑には、長篠は日本のアラモであると刻まれています
1941年12月に日本軍が真珠湾を攻撃した際には、この石碑を取り除くべきだと言う議論も起こりましたが、アラモの戦場跡を守る人々によってこの石碑も守られたと言うことです
当時石碑の擁護派は、この石碑は日本語ではなく中国語で書かれている、と主張することで石碑を守ったのです
竹下教授は、石碑に記す詩を、当時の慣習に従って漢文でしたためていたのです
石碑の最後には、人々の心意気には西洋も東洋も関係ない、と書かれています


海外「ツンデレ…」平安貴族の独特な恋愛テクニックに海外驚愕(海外反応)

海外「ツンデレ…」平安貴族の独特な恋愛テクニックに海外驚愕(海外反応)

投稿者
平安宮廷 誘惑ゲーム(古代の日本人は如何に女性を落としていたのか)



日本の誘惑ゲームと言える平安宮廷を話していきます
聞いたことがない人は驚くと思います
源氏物語からの話です
源氏が喉の乾いた女性を部屋へ急に連れ込んだのです
彼女は理解できず怒っていました
源氏は何度も関係を持つようにいいました
しかし女性は断り続けたのです
しかし最終的にはイヤイヤ関係を持ったのです

幾つかの学者は平安時代であっても源氏の行為はイカれていると指摘します
また一方で他の学者は平安時代では普通の出来事だとしたのです
光源氏という有名な人がいたのですがヒーロー的な存在でした
女性関係以外はモンスターではなかったのです
平安の恋愛関係は大きく現代とは違っています
平安時代は想像もつかないことを言って落とそうとしていたのです

欧米での愛は感情などがしっかりあって結びつきます
平安宮廷では同情の気持ちから愛に発展することがあったのです
可哀想にみせて相手の同情を誘います
それによって気を引くようになるのです
中国もそういった感じになっているという調査があったみたいです
それは本当でしょうか、それとも欧米のような感じでしょうか
それは平安の誘惑ゲームだったいえます
その時代は力で連れて行ってしまうこともありました
源氏がそうしたようにです

女性を力で守ることを表現する意味もあったようです
ほかには一緒に関係を持つように説得することもあったそうです
女性は軽い人だと思われたくないためその証明のため金品を要求したりしました
それから、あなたがいないと死んでしまうなどといって同情を買うこともしていました
もし女性が興味のない場合は、ノーと言い続けます
若しくは全く反応しなかったようです
いわゆる無視というやつです
しかし、リスクも伴います
もし弱みを見せれば男性は攻めに入ります
同意の意味だと勘違いされることもあるのです

中には女性が関係を持つまで行って翌日源氏に会えず残念に思う場合もあります
それは誘惑のゲームの一部に過ぎないからです
ほかにも良い動画があるので新しく見ている人は是非見てくださいね


海外「怖い…」怨霊となった日本の崇徳天皇の悲運に海外興味津々(海外反応)

海外「怖い…」怨霊となった日本の崇徳天皇の悲運に海外興味津々(海外反応)

皇族の派閥争いに破れ罪人扱いされた史実から後世に怨霊として語り継がれた崇徳天皇が海外で話題になっていました
wikiの詳細は長いので海外のコメントの最後にあります

投稿者
ある僧が墓を見つけた すると冷たい霧が立ちのぼり空が真っ暗になった 現れた男は亡くなった崇徳天皇と名乗る 彼は日本を呪っているという



1119年、平安時代 鳥羽天皇には息子がいた そう、九尾の狐玉藻の前に誘惑されたあの鳥羽天皇 その息子は、父の鳥羽天皇ではなく祖父の子どもであると噂されていた 祖父とは白河上皇、院政で権力を持っていた 白河は鳥羽を脅迫して息子に譲位させ、5歳の崇徳天皇が誕生した 以前紹介した3大妖怪のうち、崇徳天皇だけが実在の人物である 物語もほぼ実在のもの 

祖父白河上皇は院政を敷き、1129年に亡くなった 権力は鳥羽上皇に移るが 鳥羽は息子崇徳が大人になっても憎んでいた 実の息子だとは思っていなかったのだ 鳥羽は当時3歳の別の息子に天皇の位を映すことにする 崇徳にも息子がいたが、彼は父の命に従って1142年に譲位した 鳥羽上皇の3歳の息子は近衛天皇となった 鳥羽は崇徳と仲間たちを都から追い出す

崇徳は落ち込んだが、その後近衛天皇が病死 崇徳は自分の息子を天皇にするチャンスだと考えた だが鳥羽はそれをあざ笑うように、別の息子を即位させる これが後白河天皇だ これは崇徳には痛手だった 彼の子孫が天皇になる道は閉ざされた 

だがその後鳥羽上皇もなくなる いま動かなければもう手はない 崇徳は兵をあげる これが保元の乱である だがたった1回の戦闘で決着がついた 崇徳と彼の兵、家族は都を追われ、讃岐へ流れ着いた

崇徳は都を恋しがったが、野望をあきらめ、仏教に入門して静かな生活を送っていた そして作り上げた写経を都へ送った だが後白河天皇はその写経を呪いと思い込み、送り返した

これを崇徳の視点で考えてみよう 父親に憎まれ、権力を奪われ、子孫は出世の道を閉ざされた 田舎での暮らしを余儀なくされ、恥をさらされ、忘れられ せめて何かいいことをしようと写経をすれば受け取ってももらえない 伝承では、彼は自ら指を切り、その地で朝廷を呪う言葉を写経に記したという 「わたしは日本最大の悪魔になる 天皇を呪ってやる」と 崇徳はその写経を海に放り込み、昼も夜も悪魔になりたいと祈り続けた 髪も爪も伸び放題、まるでモンスターのような姿になったという 崇徳は1164年に怒りのうちに亡くなった   
 
だがこの話はここで終わりではない 崇徳の呪いの話は後々まで語り継がれ、冒頭で紹介した「シラミネ」という物語になった 崇徳の幽霊は仏僧に自らの人生を嘆き、行動を言い訳したという そして日本を呪うと言って、詩をうたい上げた 

では、崇徳の呪いは本当に起こったか? 彼の死後、いくつか不思議なことがあったと言われている 彼の遺体は20日経っても腐らなかったとか ある日、彼の棺から地面へ血が流れだした 遺体を焼いた煙は都にまで流れていったという 彼の魂が天狗になったとも言われている あの長い鼻の妖怪だ 彼が怨霊になったというものもいる その後の天変地異はすべて崇徳の呪いと言われた 後白河の後継車が突然亡くなったことも 朝廷の力が弱まり、武士が台頭したことも 飢饉も、地震も、ぜんぶ崇徳のせい その後、源平合戦が起こった これが、崇徳が日本の三大妖怪のひとりと言われるようになった理由である 源平合戦を機に700年にわたって日本中が血にまみれ、朝廷の権力は失われた 

つまり、天皇が権力を失い、武士が台頭するという点で、崇徳の呪いは起こったと言える 蒙古襲来や応仁の乱、禁門の変まで崇徳の呪いだという人もいるが、さすがに死後700年もたったものはどうかね

明治天皇は即位する前、崇徳天皇の名誉を回復し、皇国に平和をもたらそうと考えた そこで崇徳の遺体を讃岐から京都に運び、白峯神宮に祀ったのだった


海外「広島に軍事拠点はなかった」「降伏させるには必要」原爆投下はテロ行為と主張する外国人に海外議論(海外反応)

海外「広島に軍事拠点はなかった」「降伏させるには必要」原爆投下はテロ行為と主張する外国人に海外議論(海外反応)

投稿者
アメリカのヒロシマ・ナガサキへの原爆投下はテロ行為であり、「戦争を終結させた英雄的決断」などではない
自分は決して日本が第二次大戦中に犯した残虐行為を正当化しているわけではない すでに戦犯とされているものをここで取り上げるつもりはない
第二次大戦において、アメリカは2発の原子爆弾を日本の広島と長崎に投下し、少なくとも12万人を殺し、20万人に後遺症を残した そのほとんどが一般市民だった しかし2発の原爆は「戦争を終結させるためには必要不可欠だった」とされているが、それが正しいとは言い切れない

1.軍事力を見せつけるために、あえて一般市民をターゲットにし日本に降伏をうながした これは「暴力や脅迫を用いて、特に一般市民を政治的に利用するための不法行為」と定義される「テロリズム」に該当する だが戦争犯罪と、人類に対する犯罪の線引きは難しい
2.日本が戦時中に残虐行為を行ったからといって原爆投下を正当化することはできない 日本軍が残虐行為を行ったことは否定できないが、そのことでアメリカが10万人以上の人を皆殺しにしたことが英雄行為にはならない
3.「戦争の終結に一役買った、原爆を落とさなければ戦争は続き、もっと多くの戦死者が出た」のは確かにそうかもしれない だが論理的に考えれば、実はその根拠はないのだ 歴史というのは勝者が書き残した記録であり、死んでしまった敗者に同情する部分はない 
まとめると、アメリカは第二次大戦中に日本に対し2度のテロ行為を行った 2001年の世界貿易センタービルへのテロがお遊びに思えるほどの規模であったその行為を、アメリカは戦争を終わらせるための英雄的な行為に書き換えてきたということだ 1発目のあとすぐ降伏しなかった日本が悪いという意見もあるだろうが、当時はまだ原爆というものが知られていなかった時代であり、都市を一瞬で消してしまう爆弾など理解を超えていた
改めて言っておくが、自分は核兵器の使用が必ずしも間違いだと言っているわけではない 一般市民をターゲットにすることがモラル的に間違っていると言いたいのだ



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