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海外「実在したのか…」日本の卑弥呼と邪馬台国の歴史に海外興味津々(海外反応)

海外「実在したのか…」日本の卑弥呼と邪馬台国の歴史に海外興味津々(海外反応)

投稿者
卑弥呼と邪馬台国



弥生時代の何年にもわたる争いを経て、邪馬台王朝が誕生した
邪馬台国が実際どこで存在したのかはいろいろ議論があるけど、これは地方の思惑が絡まってなかなか解決しない問題だよ
邪馬王朝に属する30の地方が中国に接近を試みたよ
邪馬台国は当時で最も強力な王朝だったと思う
すべての地方が統一されて、卑弥呼をその女王として迎えたんだ
彼女は日本の歴史の中で、最初に名前が付けられた人物なんだ
卑弥呼って言うのは、太陽の子供、っていう意味なんだ
この名前からでも、彼女がどれくらい崇拝されてたかって言うのがよくわかるよね

神道では天照大神が一番重要な神様だってこと、覚えてる?
日本の天皇は、天照大神の子孫だって自称してるよ
邪馬台国はその配下に30の王朝を従えてたけど、弥生を統治下においてはいなかったと思う
邪馬台国がその他の国と戦闘状態にあった、っていう記録も残ってるところから考えると、当時の日本は一つの国が統治していたんじゃなくて、いくつかの国々に分割されてたんだと思う
その中でも卑弥呼の力は突出してた
卑弥呼は170年から248年の間生存してて、結婚はしなかった
彼女には1000名の侍女と、100人の護衛、一人のお付きの男性がいたんだって
このお付きの男性が食事を運んだりして、卑弥呼と外の世界を結ぶ中継者になっていた
どうして誰か中継する人が必要だったんだろう?

彼女は、祈祷師だったんだ
一般人とは離れて生活してて、いつも祈祷術を学びながら神と対話をしてた
このお付きの男性が、卑弥呼の言葉を外の世界に伝えていたらしい
もしかしたら、この二人はできてたのかもしれないね、常に一人の異性に食事を運ばせてたなんて普通じゃないよ
まぁ、実際二人ができてたかどうかなんて、そんなに大事な事じゃないけど。。。。
卑弥呼には弟が一人いて、中国の記述によれば、彼が邪馬台国の統治に関する任務か卑弥呼の責務の一部を担っていたらしい
この弟って言うのが、実際の国の運営をやってて、卑弥呼は他所とは隔離された世界で生きていたみたいだね
ここで覚えておいてほしいのは、この歴史は中国人によって記録されてた、ってことだよ
弥生時代には書き言葉って言うのは存在しなかったからね
この時代の後では、日本の統治者は他国の代表者に接見しないって言うのが一般的だった
代理人が他国の代表者に会うのが普通だったんだ
だから、中国人が卑弥呼の弟が国の運営の実権を握ってるって書いたのは間違いだったかもしれない。。。。だって、弟しか話す相手がなかったから。。。。。
もう一つは、卑弥呼は宗教に関わる部分しか担ってなかったけど、それは彼女の実権が弟より弱かったっていう事にはならない、ってこと

祈祷師は絶対的な力を持ってたんだ
弥生時代の人たちはすごく信心深くて、祈祷師が言うことは全部信じたよ
卑弥呼が絶大な力を持った背景は、その政治力や軍事力じゃなくて、彼女が祈祷師だったってことがあると思う
卑弥呼は10代のうちに実権を手中に収めたけど、これはのちに出てくる女性天皇も同じだった
卑弥呼の権力は、宗教に裏打ちされてたんだ
研究者の中には、邪馬台国の統治下にあった地方の国々はそれぞれ祈祷師をリーダーとしてを擁していた、って言う人もいる
この祈祷師兼リーダーが、軍事や実務に関して配下に割り当てを行い、自らは祈祷に集中してたらしい
中国の文書によれば、卑弥呼は邪馬台国を魔術や妖術を使って収めていたって記されてる
でも、歴史研究家の一人は、卑弥呼の事を狡猾な政治家、って評してる
どんな理由で卑弥呼が力をつけてきたかには拘らず、あんなに長い間国の実権を握り続けたんだから、政治的な才能はすごくあったと思うよ
邪馬台国と中国の交流に関する文書は残ってないけど、卑弥呼が権力の座についている間に中国の漢朝は衰退していくつかの国に分割された
その中の魏と邪馬台国に交流があった、っていう記録は残ってる

邪馬台国が使者を送って、礼儀に基づいて従属国としての態度を見せた
贈り物が気に入ったのか、魏は卑弥呼に“和(日本)の女王”っていう称号を授けたんだ
同時に卑弥呼に金の封印と銅鏡を授ける
弥生とそれ以降の社会での階級は氏によって形成されてた
弥生時代の国同士の政治関係は、宗教関連がすべてだったんだ
その当時は宗教と政治の分離、何て言うコンセプトは存在してなかった
宗教と政治は一体のものだったんだ
国々は、政治的存在であると同時に一つの宗教的団体でもあったよ
それぞれの国には、そこを象徴する神が存在して、国のリーダはその神から力を授けられているって考えられてた
卑弥呼に“太陽の子供”っていう称号が与えられたのは、名前だけの事じゃなくて、彼女の国が太陽の神(例えば天照大神)を祀っていたってことを表してるのかもしれない
この称号を受けて、卑弥呼の国はますます力をつけて、それに伴って彼女の配下の国々も力をつけることができた
神からの力が国のリーダーそしてその配下にもわたって及ぼされる、っていう考え方は日本の歴史を通して国の統治の実権の正当性を表すものとして利用される
この状態は1950年代ころまで続くんだ
卑弥呼は国を50年から60年にわたって平和に統治した

まぁ、邪馬台国が他の国と紛争を起こしたって言う記録がないわけじゃないけど、邪馬台国の人々は卑弥呼の統治におおむね満足してたみたい
中国の書物では、卑弥呼の統治手腕をほめたものも見られる
人々の日常生活もまずまず満足がいくものだったみたいだよ
嫉妬深い配偶者もいなくて、コソ泥もいない
税も問題なく徴収できてたし、地方の隅々まで物販の店も存在してた
248年に卑弥呼が亡くなった時には、直径100メートルにも及ぶ墓陵が建築され、100名以上の侍女がその遺体に付き従った
って、一緒に埋められちゃったんだけど。。。。。
そのあとは一体どうなっちゃったんだろう?
そんなに詳しい資料は残ってないんだけど、卑弥呼の後を継いだのは男性だったらしい
こいつはあんまり出来た奴じゃなかったみたいで、早晩争いが起こるようになった
王朝は不安定な時期が続いたんだけど、当時13歳で卑弥呼の縁続きだった伊予が統治者の位につくと、国は再び平静を取り戻したんだ
その後に関しては、全然記録が残ってないんだよ。。。。。


海外「日本のほうがカッコイイな…」日本と中国の鎧の違いに海外興味津々(海外反応)

海外「日本のほうがカッコイイな…」日本と中国の鎧の違いに海外興味津々(海外反応)

投稿者
中国の鎧vs日本の鎧

中国の鎧と日本の鎧はどう違うのでしょうか
中国には非常に多くの種類があります
今回はカテゴリ分けして話していきます



まずはレザーの鎧です
これは日本でも採用されたものになります
中国ではブロンズを使ったものも何千年も前から存在していました
4世紀頃に日本に入りそれを進化させてきました
唐朝の時代にはサイの皮を使ったものもあり、とても耐久性が高くなっていました
日本でも練皮というものが使われていました
平安時代頃から鎧が本格的に作られました
防水性にも長けており、柔らかく外に長くさらされても劣化しないものでした

また薄板状の鎧もありました
柔軟性にも優れており、鉛やブロンズなどが作られていて
耐久性に優れてもいました
スチールなども組み合わせたものや
様々な形の鎧が生み出されていきました
騎馬する者もその鎧を付けており足の守りなどにも長けていました
唐朝の時代には皮と板を組み合わせたものがあり
1374年にはヨーロッパからの影響を受けレースと皮で作られたものもありました
中国の薄板状の鎧には山型になった板のパターンの鎧もありました
日本では大和人がブロンズやアイアンを使った鎧を使っていました
挂甲というのがそれにあたります
前と後ろに皮などが使われていました

平安時代初期には新しいスタイルの板状の鎧が生まれます
前と後ろに板が使われ歩兵のために多く使われるようになります
平安時代の鎧はレーシングされる前にラッカーされたものもでてきます
そうすることで、さきほど言ったように防水性に優れていました
大鎧もその後生まれています

胴丸は11世紀に生まれ、上着部分に胸板があります
胴丸とともに腹巻きが作られ大鎧の代わりになるものでもありました
メイルも14世紀に生まれていきます
メタルリングを用いて作られており、中国でも高貴な人物が付けるものでした
メイルは日本でも使われます
それはモンゴルが侵攻してきたときに広がっていきました
畳具足の隙間を守る効果もありました
鎖帷子もそのように生まれカラクリもあったとされています
中国のスケール鎧というものもありました
日本のスケール鎧は魚鱗小札というものでした
これは藤原氏がいた時代まで戻ります

プレート鎧はあまり中国で普及しませんでした
薄板状のものが変化していったものでそれを用いることで
安価に作ることができたためそちらのほうが使われていました
中国では2枚の板を使って、肩にストラップを付けたタイプが広がっていました
日本では少なくとも弥生時代から使われていたとされています
メタルの鎧は古墳時代からだとされています

韓国から入り、板を使った鎧で4世紀くらいに入ってきたとされています
韓国からの鎧は4世紀から多く入ってきたとされています
短甲の形成に大きく影響を及ぼし、オリジナルになったものだとされています
ラウンドリベットにすることで、皮をなくし防御性を高める一方
柔軟性が下がったとされています
当世具足は現在型のプレート鎧です
とてもシンプルに作られており、大鎧とは大きく改良がされていました
着用が非常に簡単になっていました

種子島鉄砲が生まれたときにも火薬に耐久があるものを目指して
徳川家康が日本の鎧とヨーロッパの鎧を組み合わせた鎧を生み出しています
この動画が気に入ってもらえたらコメントをいただけると幸いです
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海外「鎖国はなかった?」もしも日本が中世時代にキリスト教を受け入れていたらどうなっていた?歴史にifに海外興味津々(海外反応)

海外「鎖国はなかった?」もしも日本が中世時代にキリスト教を受け入れていたらどうなっていた?歴史にifに海外興味津々(海外反応)

投稿者
もしも日本が1637年にキリスト教を受け入れていたら

まず皆が知ってるところから始めよう
日本はアジアに位置する国だね
日本ついて皆が知ってることの中で、キリスト教はきっとリストの最後に来るものだと思う
でも、400年前には日本はキリスト教国家になる一歩手前だったんだ
実際日本がその時キリスト教国家になってたら、今はどんな感じになってるんだろう?
国境とか文化とかその他諸々はどんな風になってるのかな
僕らが今日考察する時代は1590年と1637年だよ



第一部 反乱
時は1637年
その当時世界で知られていたのは、地図で色がついているところだけだった
日本のことはまずまず知られてたけど、灰色ってところだったかな
当時は徳川が日本中をその勢力下に収めてから、30年くらいといったところ
これは17世紀半ばの世界の状況からすれば、平均以上に平和が続いた時代だよ
世界では紛争による死者の数がすごく増えてた時代だったんだ
そうは言っても、日本の一般の人たちの暮らしは中々厳しかった
地方を収める大名にはかなりの力が与えられていて、めっぽうな税を課してる地方もあった
酷い所では家族に死者が出たことに対しても税を課していた所もあったくらいだ
税を払えない場合、男性はせっかんを受け、女性は岡場所に売り払われたりしたよ
九州、特に長崎あたりはすでにヨーロッパとの交流があった
大名の中にはヨーロッパ人を保護し、他の大名と対峙するのに利用するものもいた
中にはヨーロッパ人との関係を強化するために、キリスト教に改宗するものも出たよ
日本の南部では、庶民の間でもキリスト教は人気があったんだ
当時の日本の宗教の主なものは、神道・仏教・儒教だった
これらの宗教の中では、特に儒教で顕著だったんだけど、人は階級によって明確に順位建てがなされていた
でも、キリスト教では神の元では皆が平等だって教えられたんだ
身分の低い者も、位の高い者以上に天国に行けるかもしれない
キリスト教は九州南部に広がって、キリスト教が宗教の主流になっていったよ
キリスト教の危険性を認識した中央政府は、キリスト教徒の弾圧を始める
そのため、キリスト教徒は地下に潜って信仰を深めある種の抵抗勢力になっていったんだ
キリスト教徒が政府に反対して行動を起こしたとき、庶民の中にはそれに従う者が大勢出た
反逆者が勝利を収めるってことは、はなから考えられていなかった
日本全体をキリスト教の影響下に置くってことは、まったく不可能な話だった
島を占拠したキリスト教徒に対して、幕府はその11倍の勢力を配置して事に臨んだ
でも、そんな中で色々な出来事もあったんだ
これが成功してたら、日本中がキリスト教に改宗してたかもしれない
第一にもっと多くの日本人がキリスト教に改宗する必要があった
キリスト教は九州南部では最大の宗教で、その他の地方では散見されたくらいだったよ
徳川幕府はキリスト教徒の大名たちに天下平定の任を担わせた背景がある
ポルトガルの海軍力を利用したんだ
そんな背景から、キリスト教は九州南部では広く信仰されるようになっていた
覚えてる? ロシアの共産革命が起きたとき実際の共産主義者は人口の5%にしか過ぎなかったってこと
ローマ帝国の時だって、キリスト教徒の数は7.5%にしか過ぎなかったよ
もう一つ、キリスト教徒がもっとヨーロッパの兵器を取り入れていたとしたら
もし日本がポルトガルが当時持ってた兵器や戦術を採用していたら
16世紀頃までは、ヨーロッパの戦闘では騎馬団の騎士が戦力の主流だった
日本でも騎馬の侍はいたけど、これは主に個人戦を担ってた
15-16世紀になると、戦術を持った戦団での戦いが行われるようになった
戦術訓練の重要性が認識された時期だった
この集団戦術が成功すれば、世界をその手に収めることも可能だったよ
日本は、ヨーロッパ以外で唯一集団での戦術を採用した国家だった
16世紀半ばでは、日本が一番優れた集団戦術を実行してた、って言っても言い過ぎではないよ
日本は、ヨーロッパで使われていた火器銃器を採用したし、ヨーロッパに先駆けて統制立った鉄砲隊を組織することにも成功した
城壁のデザインにしても、ヨーロッパよりも頑丈なものを造ることに成功した
これが何を意味するかって言うと、歩兵クラスが侍クラスを凌駕することが可能になってた、ってこと
例えば、火縄銃部隊が結束して侍に銃を向けたら、革命に成功してたかもしれない
そのことが頭にあったから、島原の乱の後で幕府は火縄銃の使用を禁止したんだ
この反乱が起きた時、ヨーロッパは反乱軍を支持しなかった
当時日本にかかわりを持っていたヨーロッパの国は2国に過ぎなかった
その一つがポルトガルだけど、ポルトガルは当時自国の抱えるスペインからの独立戦争で忙しかった
オランダは交易にしか興味がなかった
反乱軍は九州だけじゃなく、本州南部にも広がりを見せていた
九州の反乱軍を外れた勢力が他に拡大を見せていたら、日本は反逆軍が支流となった南部と幕府を中心とした中・北部に2分されただろうね
様々な勝ったり負けたりを経て、反逆軍が江戸を制圧してたかもしれない

第2部 日本の統治
島原の乱は、どうやって日本を統治するかっていうほどの規模には発展しなかった
フランス革命のバスティーユでの出来事とかが頭に浮かぶけどね
この乱を、他の市民革命と比べてみよう
キリスト教、特にカソリックが日本の国教になっていただろうね
アメリカ・ロシア・イギリスなんかでも革命は反逆軍が敵軍を打ち破ることで、王政の廃止とか極端な動きに達する
日本も反乱が成功していたら、最初は強力な独裁が敷かれてそれがだんだんと緩やかなものに変わっていっただろうね
キリスト教の姿も段々日本化していって、ヨーロッパのものとは異なるものになっていっただろうと思う
初期の段階では、多くの聖職者が日本に渡ってきて布教活動をするけど、西洋の文化がそのまま日本に定着することはないだろうね
日本人は、日本的なカソリックの姿を育てていくだろう
例えば、日本や中国の仏教がインドの仏教とは似て非なるものだってことと同様だよ
日本の歴史を見ると、第2次大戦後のアメリカの占領や明治時代の始まり、徳川幕府にしても、神としての天皇の地位が失われることはなかった
もし日本がキリスト教国家になっていたら、天皇は象徴としての役割を与えられて神以外の名称が使われただろうね
イエス・キリストの親戚とか呼ばれていたかもしれない。。。。
島原の乱は、民衆の蜂起以外の何物でもなかった
もし、この反乱の影響が天皇制にも及んでいたら、その効果はフランス革命並みだっただろう
貴族制度は破壊されていただろうね
あの当時の日本は、何世紀にもわたる無秩序な時代の後での商業の発展を見た時代だった
貴族が存在しないことで、庶民の自由度は増し市場主義の中での役割を増していく
商人の社会での勢力が増し、聖職者と共に高い地位を築いていったことだろうね
日本は独自な発展を遂げていったと思う
島原の乱が失敗したことで、日本はあの反乱が目指したのと真逆の方向に進むことになる
日本は鎖国を実行し、他国との交流を断つ
海外の書籍や物品・武器・宗教は禁止された
その後、他国との交流を200年にわたって閉ざしてしまったんだ
階級制が定着し、礼儀が重んじられるようになる

第3部 その他のアジア
もしキリスト教が日本で宗教の主流となっていたら、日本から学ぼうって言う姿勢ももっと大きかったことだろうね
日本は西洋に門戸を開き、西洋の文化を積極的に取り入れたことだろう
明治時代の初めに起きたことが、200年早く起こっていただろうね
日本が戦団戦術を進化させていたら、ヨーロッパとも対等に対話できていたことだろう
当時のアジアで主要なヨーロッパ勢力はオランダだった
オランダはポルトガルの衰退に付け込んで、ポルトガルの影響下にあったアジア諸国を取り込むことに成功した
ここで問題になったのは、日本のキリスト教はポルトガルによって持ち込まれたものだってこと
日本はポルトガルに味方して、オランダをアジアから駆逐するのに加担しただろう
一方で、当時フィリピンを統治していたスペインとも良い関係を継続しようとしただろうね
スペインもカソリックだったから
でも、日本でのカソリックは更に日本化してたと思うよ
だから、早晩スペインとは袂を分かってたかもしれない
これは単純に地政学的な観点からの僕の仮設でしか過ぎないんだけど
勢力が弱まってきたフィリピンのスペインとは衝突が避けられなくなっていったかもしれない
日本の方が先進の武器を備えていただろうから、もしフィリピンのスペイン勢力との間に戦争が勃発していたら、日本の方が勝利を収めていたことだろう
その後日本はフィリピンを拠点として、アジアでの勢力を拡大していく
統治国のヨーロッパ列強ははるか離れたところに居たから、本拠地の近くにあった日本の方が地理的にうんと有利だったことだろうね
その当時のアジア諸国の軍事力は、本当に取るに足りないものだったから
日本がその気になったら、オーストラリアとかアメリカ西海岸までだって勢力を拡大できていたかもしれないよ
どれくらいの勢力になっていたかなんて、想像もつかないよ
当時の中国は清朝の時代だった
軍事力や技術力は日本のそれに遠く及ばなかったけど、兎に角広大な領土を国力のバックボーンにしてた
日本は中国も手中に収めたかったと思うよ、制海権は奪取したかもしれないけど、これは中国にはそんなに重要な事じゃなかった
18世紀になると、中国の王朝は凋落していく
日本の政府だって、イギリスが中国に仕掛けたアヘン戦争くらいのインパクトがある戦いを仕掛けることができたかもしれない
19世紀の半ばには、中国はいくつかの戦争を体験する
特筆すべきは1851年に起きたキリスト教信仰を基礎とした太平天国の乱だろうね
反乱勢力は、当時の中国の中心地を制圧し中国全土に勢力を拡大するまでに至った
19世紀の段階で日本がすでにキリスト教国家になっていたとしても、やっぱり太平天国の乱は起きていたと思う
もしそうなっていたら、中国でも西欧式のキリスト教国家が誕生していたかもしれない
キリスト教国家の日本が参画していたら、反乱軍は間違いなく勝利を収めていたと思うよ
日中は強固な関係を築いただろうし、これによって中国の近代化は100年早く訪れていただろうね
中国でのキリスト教も、やっぱりすごく中国的になってただろうと思うよ
既存の仏教と混ざり合ったものになっていただろうね
中国はアジアの列強となって、第1次世界大戦にも勝利を収めていたことだろう
中国に国境を接する国々が同盟を組んで、それ以上中国の勢力が拡大しないように画策してたと思う
一方、太平天国の乱が制御不能に陥って、キリスト教徒自身も目的を達成できなかった、っていうシナリオも考えられる
このシナリオだったら、中国の勢力拡大もそれほどのものではなかったと思うよ
でも、やっぱり中国の近代化は実際の歴史上の近代化よりも早く発生してたと思う
キリスト教国家となった日本の近代化が早く発生したことの余波は、絶対中国まで届いていたと思う
どちらにしろ、アジア列強の勢力はかなりなものになっていただろうと思う
西欧のテクノロジーが1世紀前に導入されたことによって、歴史上実際に起きた西欧列強による東南アジアの植民地化は起きなかったことだろうね
日本は太平洋の覇権を握る勢力となり、中国がアジアの雄となっていたはずだよ


海外「デザインがカッコイイ!」日本の侍の鎧の仕組みと歴史に海外興味津々(海外反応)

海外「デザインがカッコイイ!」日本の侍の鎧の仕組みと歴史に海外興味津々(海外反応)

投稿者
今回も侍についての話もしていきます
今日は侍の鎧です
なぜ侍が盾を使っていなかったのかも分かると思います
それではいきましょう



日本の侍の鎧は韓国や中国のものと似ています
4世紀にはじめてみられた鎧で短甲です
5世紀には短甲よりも戦闘がしやすい鎧ができました
それが挂甲です

これは韓国が発祥のものです
より動きやすくなった鎧です
奈良時代には武士が多くなり
平安時代には確立され、ほかの国の兵とは変わっていきました
馬に乗って弓を射る形が普及したため大鎧が生まれました
皮が使われ、背中の部分にはシルクが編んであります
金属と皮が使われているのが重要な部分です
これによって騎乗でも動きやすく戦いやすくなりました
大鎧はその後、歩兵のために発展していきます
源平合戦のときからさらに進化していきます
モンゴル侵攻のときも大きく変化しました
変化が続いていくことによってほかとは大きな差別化がされたのです

足軽も生まれ多くのデザインができました
腹巻きと腹当てがその例です
ラミナーアーマーとして世界にも存在しますが
より防御力などが高い質を擁していました
大鎧から胴丸に通常の鎧が変わっていきました
鎖鎧も生まれ、1800年代には鎧だけみられるようになりました
1400年には当世具足が使われ、応仁の乱でその名が知られました

それでは典型的な戦国の鎧を紹介していきます
まずは銅です、鎧の中で一番変化のあったものだとされています
次に兜で、様々な種類があります、階級などを示す意味もあります
伊達政宗や本多忠勝などのものが有名です
頬当てはフェイスマスクで悪魔のようなデザインになっています
小手があり手を守るもので鎖が使われることが多いです
それをカバーするのがやぐけです
うわ帯がベルトにあてり、佩盾がもも当てのようなものです

ほかにも鎧の着用方法も決まっています
正しく適切に守るためにしなければなりません
ビデオゲームなどでみられるような侍の鎧とは違い
色々な色のものがあり、個性が表れています
徳川家康はブラウンのものを使っていました
西洋の銃が入ってきてからはマスケットの火に耐えられるように
より重いアイアンとスチールプレートが使われるようになったのです
これは試し具足と言われています
一枚のプレートよりも重ね合わせたものが生まれました

戦国時代が終わって江戸時代に入ると国家統一が行われたため
鎧の進化などが止まりました
武士の鎧は薩摩の戊辰戦争のときに再び多くみられるようになります
それでは侍が盾を使わなかった理由を解説して終わりたいと思います
いろいろな説がありますがまずは侍にとって盾を使うことは不名誉であるという考えです
しかしそれが全てに当てはまるわけではありません
大きな盾を使う場合もみられたからです
実際は騎乗した状態で使えないかったというものもあります
肩のガードが鎧の役割もあったといえます
歩兵にあたる侍は弓とともに使用していました
前に進むためにつかったケースもありました
手盾というものです
あとは銃を防ぐためのものも作られました
江戸時代でも盾はみられました
手を防ぐための小さなものがあったのです
存在はしていましたが、西洋のように常に使われるものではなかっただけです
ではご覧いただきありがとうございました


韓国人「韓国がしたベトナム戦争中での残虐行為について調べたいんだけど」(海外反応)

韓国人「韓国がしたベトナム戦争中での残虐行為について調べたいんだけど」(海外反応)

投稿者
韓国人としてベトナム戦争中の残虐行為について徹底調査をしたい

ベトナム戦争中に韓国の兵士によって行われた戦争残虐行為の疑いがあります
反韓国感情のあるベトナム人がいる原因にもなっています
戦争中に韓国の兵士がベトナムの民間人に何をしたかに関する記事について
韓国のニュースで定期的に出てきます
ニュースでは韓国人兵士が家族を殺害し
戦争中に起こったことを政府が謝罪すべきだと
そう主張するベトナム人もいます
こういった声の信憑性を確認し
それが真実であることが判明した場合の補償のため
徹底的な調査を実施する必要があると思います
これを主張しているのは私だけではありません
被害者でさえ調査をお願いしているのです
金大中大統領はベトナム政府に対し
両国が戦争中に行われた民間人虐殺の調査を実施し
ベトナムでの虐殺の申し立てに対して補償することを提案しました
しかしベトナム政府はそれを拒否しました
ベトナム政府は戦争の調査に消極的でした
しかし手遅れになる前に問題を掘り下げるべきだと思うのです
ベトナム人はこの問題についてどう思いますか?


海外「興味深い…」中世日本に住んでいた外国人はどんな生活をしていたのか?海外興味津々(海外反応)

海外「興味深い…」中世日本に住んでいた外国人はどんな生活をしていたのか?海外興味津々(海外反応)

投稿者
16世紀に日本に住んでた外国人はどんな生活を送っていたのか

合意は、とても簡潔で、日本と西欧人との文化の違いや比較を含んでいた
彼らの文化の多くは自分たちのものとはかけ離れていて、これほど対局にある文化が存在しうるものなのかと納得するのは難しいほどだった
対極にありながらも人々は秩序正しく、生き生きと暮らしており、知能程度もかなりのものだった



第一部 男性について
西欧人は一般的に体格がよく背も高いが、一方の日本人はそれほど背が高くない
西欧人は大きな瞳を美しいと感じるが、日本人はそれを奇妙だと感じ、切れ長の瞳を美しいと思っている
西欧人は白目がちなのを不思議だとは思わないが、日本人はそれを化け物のようだと考える
西欧人は高く長い鼻を持つが、日本人は低くて短い鼻を持つ
西欧人は通常大きなひげを蓄えているが、日本人は短く部分的にひげを蓄えるにとどまる
西欧人は立派なひげに誇りを持っているが、日本人は頭の後ろに乗せている髷に誇りを持っている
西欧人はひげを手入れするが、日本人は毛抜きを使ってひげを抜いてしまう
西欧人の間には、男女に拘わらずそばかすがある者が多いが、日本人でそばかすがある者は稀だ
西欧人では男女とも天然痘のあばたがあるのは稀だが、日本人にはこれを患う者が多く、それにより視力を失うこともある
西欧人は長い爪を持つことは非衛生的で野蛮だと考えるが、日本人の男性や高貴な女性は爪を長く保っている者が多い
西欧人は顔に傷をつけるのは奇形だと考えるが、日本人は顔の傷に誇りを持つ
傷の手当は十分になされないので、顔の傷はより一層奇形のように見えてしまうのだが
西欧人は季節に拘らず同じ服を着るが、日本人は年に3回衣替えをする
夏帷子、秋合わせ、そして冬着物だ
西欧人は柄付きの生地で作られた衣服を着るのはばかげた振る舞いだと考えられているが、日本人はよほどみすぼらしい老人を除いては、皆柄付きの着物を着ている
西欧では毎年新しいファッションの流行が現れるが、日本ではいつでも同じスタイルだ
西欧人は両刃の剣を使うが、日本人は片刃の剣を使う
西欧人は剣の試し切りを木材や動物で行うが、日本人はこれを人間の死体で行う
西欧人は散歩をレクリエーションととらえるが、日本人はぶらぶら歩くことは一切しない

第2部 女性について
西欧では若い女性の貞操は最も尊ばれるものだと考えられているが、貞操はそれほど重視されておらず、処女を失うことにそれほど大きな意味合いはない
西欧では金髪がもっとも美しいとされるが、日本では黒髪であることは何物にも代えがたい
西欧では女性は前髪を顔にかからないように分けるが、日本では前髪は剃ってしまう
西欧では付け髪をすることはめったにないが、日本人は主に中国から輸入されたかつらをいくつも持っているのが普通だ
西欧では女性が厚塗りの化粧をするのは好まれないが、日本では何層にもおしろいを塗ることが望ましいと考えている
西欧の女性はあらゆる手段を使って歯を白くしようとするが、日本人の女性は鉄と酢を使ってわざわざ歯を黒くする
西欧では男性は女性の後ろを歩くが、日本では男性が女性の前を歩く
西欧では財産は共同名義であることが一般的だが、日本では男女それぞれが自分の財産を持ち、妻が夫に利子付きで金を貸すこともある
西欧では妻が夫の許可なく家を離れることはないが、日本では妻は夫にいちいち知らせることなく好きなところに出かける
西欧では堕胎はそれほどあることではないが、日本では日本では堕胎はよくあることで、中には20もの子を堕した者もいる
西欧では幼児の死亡率はとても低いが、日本では生まれても養いきれないと思われる子供は母親が首の骨を折って殺してしまうこともある
西欧では女性が食事の支度をするが、日本では男性が食事を作り高貴な男性が台所で食事を作ることは素晴らしいことだと考えられている
西欧では女性が酒を嗜むことははしたないと思われているが、日本では女性もよく酒を飲む

第3部 子供について
西欧の男の子は髪を短く刈っているが、日本では15歳になるまでは髪は伸ばし放題だ
西欧では子供は専用のベッドで眠り、歩行器を使って歩くことを覚えるが、日本にはそんなものは一切なく、自然の中で手に入るもの使う
西欧人は子供のしつけに鞭を使ったり手を上げたりするが、日本ではそういう事はほとんどなく、口で注意するくらいだ
西欧では子供はまず読むことを習ってから書くことを覚えるが、日本ではまず書き方を習ってから読み方を習う
西欧の子供たちは良い服や栄養の高い食事を慈愛をもって与えられるが、日本の子供たちは半分裸で慈愛や十分な食事を与えられることもない
西欧では両親が子供の教育に直接かかわるが、日本ではすべては第3者を介して行われる
西欧では両親が逝去した場合は子供に遺産が渡るが、日本では子供に財産を継がせるために親は早々に財産を放棄してしまう

第4部 その他の事
西欧人は財産を失った時などに失意の感情を露にするが、日本人はそれらをあまり深く受け止めない
西欧では誰かから嘘つきだと言われることは耐え難いことだが、日本ではそのようなことは笑い飛ばしてしまうのが秩序ある振る舞いだと考えられている
西欧では誰かを殺すなどということはめったにないが、日本では自宅で誰かを殺すことは良くあり得ることだ
西欧人は人間を殺すことには躊躇するが、家畜や犬猫を殺すことは深く考えない
一方日本人は動物が殺されることには深く心を痛めるが、人間が殺されることに対してはさほどの気持ちも持たない
西欧ではよほどの大金を盗まない限りは死刑になることはないが、日本では額の大小にかかわらず窃盗は死罪となる
西欧では自己防衛とか正当な理由がある場合の殺人は罪に問われないが、日本では誰かを殺した者は自らも死ななければならない
もし誰かを殺した本人が死なない場合は、誰かがその身代わりで死なねばならない
西欧では磔になることはないが、日本ではこれはよくあることだ
西欧では使用人が罰として鞭うたれることはあるが、日本では追放刑だ
西欧では男性・女性・子供は一様に夜を恐れるが、日本では夜は恐れの対象ではない
西欧では蛇は恐れられ触るなどもってのほかだが、日本では蛇を触ることは躊躇せず食べる者までいる
西欧では手を使って球を打ち合うが、日本人は毬を蹴る
西欧では球は打ち上げるが、日本人はできるだけ地面に向けて球を蹴る
西欧人は誰かが出かけるときや戻ってきた時にお互いを抱きしめるが、日本人はそんなことはしないしそんなことをする者を見たら笑ってしまうだろう
西欧ではレクリエーションで人々が広場や往来に集ったりするが、日本では集いは誰かの家でのみ行われる、道は歩くためだけのものである
西欧では嘘笑いは忌み嫌われるが、日本では逆に高貴なものとして考えられている
西欧では明瞭に言葉にし曖昧さを避けることが推奨されるが、日本では曖昧さが最も高等な表現手段であると考えられている
西欧人は大っぴらに怒りや短気さを表すが、日本人は感情をめったに表すことがなく常に自己を規律している


外国人「もし日本ではなくロシアが韓国を植民地にしていたらどうなっていたと思う?」(海外反応)

外国人「もし日本ではなくロシアが韓国を植民地にしていたらどうなっていたと思う?」(海外反応)

投稿者
もし日本ではなくロシアが韓国を植民地化していたらどうなってただろう?
帝政ロシアなら、日本が手を出さなければ韓国を併合したと思うんだ 実際日露戦争では朝鮮を巡って争っていたわけだし もしかしたら韓国はいまロシアの一部になっていたかも


海外「奇襲してるし…」「軍人だけ狙ってる」日本の真珠湾攻撃は非道ではなかった?外国人の主張に海外賛否(海外反応)

海外「奇襲してるし…」「軍人だけ狙ってる」日本の真珠湾攻撃は非道ではなかった?外国人の主張に海外賛否(海外反応)

投稿者
真珠湾攻撃は非道ではなかった 少なくとも日本人は一般市民が死ぬのを避けた 一方広島や長崎の爆撃では市民だけが犠牲になっている 1945年2月の時点で日本が降伏のための交渉をしようとしていた証言がある 


海外「結果論…」第二次大戦開戦は枢軸国だけでなく連合国にも責任がある?外国人の主張に海外議論(海外反応)

海外「結果論…」第二次大戦開戦は枢軸国だけでなく連合国にも責任がある?外国人の主張に海外議論(海外反応)

投稿者
大学で歴史学を専攻してる 第二次大戦において、開戦した枢軸国(ナチス、イタリア、日本)と同じくらい、連合国(イギリス、アメリカ、フランス等)にも責任はあると思う
そもそも朝鮮半島をめぐって争っていた日本と中国に対して、連合国は侵略するなと文句をつけたわけだよね それから、領土を拡大していくナチスに対して、オーストリアはいいけどフランスとベルギーはやめろと文句をつけた これが結局は世界戦争に至ったと思うんだけど


外国人「なんで小国だった日本がパリ講和会議で力を持っていたの?」(海外反応)

外国人「なんで小国だった日本がパリ講和会議で力を持っていたの?」(海外反応)

投稿者
なぜ日本が1919-20のパリ講和会議で力を持ったの?
フランス、イギリス、イタリア、日本、アメリカの五大国が中心になって会議をコントロールしたわけだけど そもそもどうしてその5カ国だったの?
ロシアや中国が参加しなかったのはなぜ?

パリ講和会議

パリ講和会議(パリこうわかいぎ、Paris Peace Conference)は、1919年1月18日から開会され第一次世界大戦における連合国が中央同盟国の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどはパリのフランス外務省内で行われており、ヴェルサイユ宮殿を会場に使ったのは対独平和条約(ヴェルサイユ条約)[1]と、対ハンガリー平和条約(トリアノン条約)[2]、関連する諸条約(ヴェルサイユ小条約(英語版))の調印式のみであるため正確ではない。





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