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海外「200年も国を牛耳るとは…」中世日本の貴族『藤原氏』の栄光と凋落に海外興味津々(海外反応)

海外「200年も国を牛耳るとは…」中世日本の貴族『藤原氏』の栄光と凋落に海外興味津々(海外反応)

投稿者
藤原氏の栄光と凋落

平安時代に日本政府のトップに立ったら、何をすると思う?
登り詰めたら後は落ちていくしかないよねぇ
藤原氏がやったことは、政敵を倒して政府を崩壊から救うこと
知らない人のために言っておくと、藤原氏は娘を朝廷に嫁にやって、平安朝を850年から1068年頃まで、200年以上に渡って支配してたんだ
藤原氏は中臣鎌足が645年に蘇我氏を追い払ったことによって始まった、って言われてるよ
勿論蘇我氏にかかわりのある人だったら、別のストーリーを話してくれるだろうけどね。。。



当時の日本は、まだまだ黎明期で高校の人気投票に血道を上げる、見たいな状態だったんだ
ここで争ってたのは、朝廷と地方の豪族たち
平安時代の後には、日本はもう少し大人になった、っていえるかな
豪族を一つにしていた絆は、最初からすごく強いものだった
こんな状況の下で平安時代に時代を束ねていたのが、藤原氏だったんだ
藤原氏は摂政の位を与えられる、朝廷に代わって判断を下すことが許される立場、ってことだよ
もしも、天皇が赤ちゃんだったら、藤原氏は摂政の立場で、この天皇が成人すると藤原氏は関白になる、成人した天皇に対しても代理で判断を下すことが出来るってわけ
その頃は、自分の意に染まない天皇を排除して自分の思いのままに政治を操る為に、赤ちゃんを国の頭にすえることはよくあったんだ
一時期は、藤原氏が朝廷の全てのトップ・ポジションを占めていた、なんてこともあったよ
藤原氏の栄華が最高潮だった頃に、藤原氏の頂点に立っていたのが藤原道長
でも、彼自身が最高位についていたのはわずか1年で、その後息子に位を譲ったんだ
それから20年後に道長は朝廷の文書の監視役、という位につく
この位は、そんなに高いものではなかったんだけど、位の高低ではなくて藤原っていう名前が政治を支配していた、って言う証明だね
道長は、ほとんどの主要な役職を藤原姓が占めることを重視して、政敵を排除するのにいささかの躊躇もなかった
藤原姓を名乗っていても、自分にたてつくものには容赦なかったんだ
道長は、朝廷で派手なパフォーマンスを繰り広げていたけど、朝廷の外で不穏な動きが出て

いることにも耳ざとかったよ
道長は当時は弱小だった源氏と近づく
源氏は、首都の朝廷から見れば弱小だったけど、地方では最強の軍事力を誇っていたんだ
この源氏のトップに立っていたのが、源頼光と源頼信、二人とも興味深い人物だけど、今回はパスね
道長の政敵は、この二人を藤原氏の野犬、って呼んでたよ
道長は自分の利益のために公金を使うこともしなかった
この頃が藤原氏の黄金期だったみたい
道長は病に倒れたときに、“わが人生に悔いなし、自分の死後にこれ以上の成功はないだろう”って言って言われてるよ
道長は62歳でこの世を去る、エゴが強すぎたのかねぇ
藤原氏は平安朝の恋愛文化や感性を重視した文化の台頭のうえに、自らの時代の栄華を堪能した
藤原氏は絶対の権力を持っていたわけではないけど、既存のシステムの中で最大限にそれを活用して上手くやってたんだ
確かに藤原氏が政治のトップを占めていたし、要職も藤原一族が占めていたけど、政策を立案したり強要したり、って言うことには手を染めてなかった
政策を決めてたのは朝廷だったし、藤原一族の足並みが揃わないこともあったよ
一族の中でもそれぞれが自分のオフィスを持ち、物事を管理し、論争を調停してたんだ
正式な政府と並行して藤原一族の中にも政府機能を持っていた、って所かな

問題を抱えた人たちは、朝廷に行くよりも藤原氏のところを訪ねて問題解決を図ってたみたい
ここで先ず、取り決めを行ってから、朝廷に出かけてその取り組みを正式なものにしてたんだ
権力争いのミニ版が藤原氏のオフィスで起こってた、ってことだよねぇ
朝廷を牛耳っていたから、藤原氏自身が対極に身を引き裂かれる、って事もある
平安時代には、朝廷は無税の土地、荘園を寺院や朝廷の高位の官吏に褒美として与えるようになる
無税だったから、人々は何とかこの土地を自分でも手に入れようと躍起になる
藤原氏は最大の数の荘園を与えられる
これは、税収が藤原氏に流れるようになる、って事でもあったんだ
一見、都合がいいように見えるだろう? でも、実際はそうは行かなかった
藤原氏は朝廷のトップの位にもあったわけだから、税収の減少は、朝廷のプロジェクトや政敵を追い落とす為の企みの資金不足を意味する
何事もバランスが大切だよね

平安朝の朝廷の栄華の裏では、毒がどんどん身体の中に溜まってきたてんだ
当時の朝廷の政策は、限られた資源を有効に活用して成長を促す、って事はなかった
朝廷は既存のパワーにしがみついてるだけだったんだ
朝廷は徐々に税収を失い、それと共に影響力も失っていった
こんな状態でも、朝廷は豪華なセレモニーや神様への儀式を続けていた
現実を分かってない上層部が、格式だけを重んじた、って批判する人もいるだろうけど、当時の人たちは、問題が起きたら神様に御伺いを立てるのが正しい解決策だ、って信じてたんだ
問題が大きければ大きいほど、セレモニーや儀式をおろそかにしちゃいけない、ってこと
一般の民が知らないうちに朝廷が困窮を極めているときに、地方の豪族が力をつけてきた
平安時代の68の行政府長の義務は、税収を朝廷に納めることだった
朝廷は、一定の税収を手に入れることが出来れば、地方の長官が何をしてお金を手に入れてるかってことには、あんまり頓着してなかった

そんな状況だから、地方の長官は出来るだけ調停への税の納付を少なくしようと知恵を絞っていたよ
地方の長官が、新たな富裕層になっていったんだ
この、地方の長官を任命する立場にあったのが藤原氏なんだ
藤原氏に長官職を任命してもらおうと、地方の豪族は藤原氏に賄賂攻勢をかける
藤原氏は栄華を極めていたけど、これに終止符を打ったのが、後三条天皇
この続きは、また今度ね


韓国人「韓国は過去を忘れようとしていたのに…」「権利の分離だから」なぜ韓国は日本からの戦時徴用工の協議を拒否するのか?韓国で激論(海外反応)

韓国人「韓国は過去を忘れようとしていたのに…」「権利の分離だから」なぜ韓国は日本からの戦時徴用工の協議を拒否するのか?韓国で激論(海外反応)

徴用工協議を拒否する韓国が韓国人の間で話題になっていました
海外の巨大掲示板redditの韓国板は多くの韓国人が書き込みをしており
韓国の視点からみたコメントとなります

投稿者
どうして韓国は日本が戦時徴用工の問題の調停を呼び掛けても拒否するの?


海外「石油…」第二次大戦当時なぜ日本はソ連よりもアメリカに脅されていたのか?その理由に海外議論(海外反応)

海外「石油…」第二次大戦当時なぜ日本はソ連よりもアメリカに脅されていたのか?その理由に海外議論(海外反応)

投稿者
なぜ日本はソビエト連邦ではなくアメリカに脅かされているのか

1941年、ドイツがバルバロッサ作戦を始めた6か月後に日本はソビエト連邦に二回目の攻撃をする代わりに真珠湾を攻撃することを選んだ どうしてそうしたのだろうか? アメリカはスターリンが明らかな独裁者で会ったとき半独立国であり、日露戦争の時この二か国の間でかかわりはなかった


海外「非効率…」ハンコを押すだけの仕事?平安時代の貴族の生活に海外興味津々(海外反応)

海外「非効率…」ハンコを押すだけの仕事?平安時代の貴族の生活に海外興味津々(海外反応)

投稿者
平安宮の生活様式/日本の歴史44

あなたの職場は効率的ですか?
日本の平安時代の話を紹介します
当時は太政官が法令を天皇にあげて
それを認めてもらうという流れがありました



印を押すだけのものでした
それが中央省庁のようなところにいき
そこでもスムーズな認証が行われていました
審議指導庁、下級省庁にいき、認証されていきます
そこから書記にわたり、太政官に戻ります
そこからまた更に天皇に戻り再認証を受けます
そこからまた必要な変化をつけて太政官に気をつけて戻して
また書記のほうに戻します、コピーを作って
関係のある各管轄にまわされます
そこでも書類に目を通させ、サインをさせます

そこでようやく皇居において儀式が執り行われます
天皇の公式の印がされて終わります
これはすごく流れがあり時間がもったいないです
しかし当時は効率的な政治は求められていませんでした
それほど急を要する出来事はなかったからです
それに平安時代の貴族はバブルボールのような存在でした
当時の人口のごく一部にしか存在せず、200人から最大でも1000人だけでした
その中でも力を持つ者はごくわずかで、ほとんどが藤原家でした
知らない人のために言うと彼の一族の娘達は天皇と結婚することで
つながりをもち権力を維持していたのです
そのため殆どの貴族などが椅子に座って印を押すだけの作業をしていました

殆どが平安京に住んでいました、のちの京都です
都は彼らの世界になっていました
平安時代の生活はほとんど屋内の生活でした
当時の彼らの服は何重の層にもなる服で旅には適していませんでした
旅に出ることもありましたが、牛引き車の中で待つだけだったので
ほとんど屋内の状態です
出先も親戚や神社などだけでした
平安宮の中にある広場のようなところでスポーツをするだけでした
死刑などはなく、島流しなどがありました
当時は海外からの侵攻などもありませんでした
平安時代の終期だけ大きな変革があったくらいです
効率的にするよりも全てのことを美しくする動きが広まっていきました
天皇の行事などもより複雑化され、新鮮なものと変わりました
平安時代にはこういったルールもありました

1、口を開けて笑わない
2、手で食べ物に触れず、人に口を見せない
3、手紙はしっかりとした文字できれいに書く
4、良い色で適切な袖の長さにする

男性も女性も白塗りで香水をつけるというものもありました
当時貴族が夢中になっていたことも話さないといけませんね
詩を詠うのが流行っていてアートだけの存在ではありませんでした
中国語をしっかりと書いたりするためのものでもありました
日本は中国文化を模倣してきたのです
日本と中国のものを混ぜた独自のスタイルが確立されていきます
社会的に関係のある詩を書いていたのです
悪い詩は歯をみせずに笑われていました
良いものはアンソロジーとして集められていきました

戦時中に敵が侵入して盗んだものもあり
中には公表されなかった詩もあったそうです
位の高い人でも政治では成功をせず
良い詩を詠った人も知られてはいません
あの平安宮の中では人がダメになってしまっていたのです
他の動画では普通の人の生活なども紹介しています
みなさん大好きですよ、このまま知識を広めていきます!


海外「分かる…」なぜ中世日本は盾を使わなかったのか?その理由に海外納得(海外反応)

海外「分かる…」なぜ中世日本は盾を使わなかったのか?その理由に海外納得(海外反応)

投稿者
なぜ日本人は盾を使わなかったのか?



みなさんこんにちはEpimetheusです
この動画は日本刀と盾のコラボになっています
今回はなぜ日本人は盾を使っていなかったのかをやっていきます
実際、彼らは盾を使っていました
歴史的に有名なところで登場してないだけです

中国の記述で日本人が盾を使っていたことが明記されています
手で持つタイプの盾だったそうです
200年代から300年代くらいに存在していたとのことです
そのほとんどが長方形になっており幅に対して3倍ほどの長さだったそうです
奈良時代710年から794年ごろは大きな盾がありました
そのまま設置できるほどのものです
中世では目線の高さまである盾がそのまま設置できていました
盾の後ろから棒状のもので支えて立てるタイプです
盾は木で作られていました

3枚をつなぎ合わせて幅を増すこともありました
その表面にはその部族などの家紋が入れられていることもあったそうです
弓隊の壁の役割となり機動性にも富んでいました
銃が戦場に登場すると木製の盾は破られるようになります
しかし鉄製のものより竹が安く使われていたほか
濡れた藁を前方に設置していることもありました
防ぐことはできませんが、弾丸の威力を弱めることが可能でした
竹は束ねられて立てかける形で設置していました

手で持つタイプの盾がなくなったのは、おそらく日本人の使う武器に関係しています
侍について考えてみましょう
800年代の武士は多くが騎馬でした
そのときのメインの武器は弓だったのです
その次は薙刀でした、それは理にかなっています
刀は使うには短すぎるからです
現代で考えると兵士がピストルを使うようなものです
バックアップ用で、通常はライフルを使いますよね
侍が刀を使うときは落馬したときなどでした
そういったわけで中世では弓が主な武器として普及していたのです
普通に矢を受けると致命傷になります
そこで日本の鎧は最適化されていきます
騎馬で弓を射ることを考えて作られました
スムーズなレザーストラップなどが戦略的に組み込まれていました
そのため矢を通さない作りになっていたのです

手で持つ盾の代わりに大袖がありまし
鉄などでできた板状のもので、それを何枚も重ねてつなぎ合わせます
皮などを使って結ばれており大きな板になっています
肩に垂れ下がる形で盾の役割を担っていました
柔軟性もあり動きやすさもあったのです
歩兵は鎧などがなかったので、盾が盾になっていました
初期の日本では戦場の人の数がそれほど多くなかったので
ヨーロッパの部隊のように盾を使う効率性がなかったのです
この絵からどのように盾を使っていたのかみることもできます
ピストルの弾丸を防ぐこともあったそうです
このメールスカートにはろうそくを立てる場所がありました
おそらく夜の戦闘のときのものでしょう
江戸時代には手の大きさより少し大きな形の盾がありました
刀を持つ手を守るためのものでした
日本は鎧の性能を高めていったのです

戦国時代には多くの武士が戦場で争います
鎧が機能性にも富んだものになると盾の必要性がなくなります
そのため当時は二刀流が流行っていたのです


海外「現実だったら悪夢…」第二次大戦後に降伏した日本の分割統治案に海外興味津々(海外反応)

海外「現実だったら悪夢…」第二次大戦後に降伏した日本の分割統治案に海外興味津々(海外反応)

投稿者
戦後分割統治の占領ライン

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海外「刀は本当にクール!」知られざる日本の刀の歴史に海外興味津々(海外反応)

海外「刀は本当にクール!」知られざる日本の刀の歴史に海外興味津々(海外反応)

投稿者
刀の歴史

みなさんこんにちは
今日はEpimetheusをゲストに話を進めていきます
彼も日本の刀や盾に関するユーチューバーです



侍は封建国家だった頃の貴族的な存在でした
中世ヨーロッパのナイトとよく比較されます
侍は刀を持っています
いつも刀はそばにあります
戦場、病床、年配期などでもです
鎧でも平常時の服装でも帯刀しているものです
武器でありながら権限などのシンボルでもあったのです

日本の刀はとても考えられて作られてきました
何世紀にもわたり研究され開発されました
初期の刀は直刀と言われるものでした
AD3世紀頃につくられ中国や朝鮮からの影響が大きかったものです
直刀は片手で使うもので切りつけや突きなどに適していました
片刃のものが多く、両刃も存在しますが浸透しませんでした
9世紀には大きな変化を迎えます

痘の流行が812年から814年にかけてあり、人口の半分ほどがなくなりました
天皇の支配よりも、各地域で大名などが支配するようになります
それに合わせて刀も大きく変化していきます
直刀から、2本の腕で使う太刀になり、それから侍の刀につながっていきます
太刀は長く戦場で折れやすく、ソフトすぎました
それを刃がないほうをソフトにして刃を鋭くすることで強靭なものにしたのです
密度が大きくなり効果的な使い方もできるようになったのです
防御にも適すようになりました

太刀から刀にいくのに大きく変わったのは、その耐久性だったのです
刀は腰に差して、刃の部分は上に向けていました
侍は徒歩であるときもあり騎乗する場合もありました
他の武器が破損した場合にすぐ使えるのが刀でした
刀は2モーションで抜刀できます
それが太刀の長さが刀のようになっていった理由です
何世紀にもわたって刀も太刀も使われていました
15世紀まで太刀はありましたが、それ以降は刀が多くなっていきます
その2つは一見わかりづらいです

刀を作った者の名前の位置が握り手に違いがあります
Epimetheusでした、楽しんでいただけていたら幸いです
ありがとうございましたEpimetheus


外国人「なんで当時の日本や中国は植民地を探さなかったの?」(海外反応)

外国人「なんで当時の日本や中国は植民地を探さなかったの?」(海外反応)

投稿者
なぜ中国も日本も新世界を植民地にしなかったのか?
地図で中国や日本あたりからアラスカまで道を見ていた時におもったんだけど なんでアジアの国は新世界を植民地にしたり、新世界を見つけるために探険したりしなかったのかしら?
それに新世界があるってしったアジア諸国が儲かりそうな新世界を植民地に使用としなかったはなぜでしょうか?


外国人「アメリカは奴隷制度の被害者に賠償金を払う検討してるけど第二次大戦中の日系アメリカ人にもするべきじゃないの?」(海外反応)

外国人「アメリカは奴隷制度の被害者に賠償金を払う検討してるけど第二次大戦中の日系アメリカ人にもするべきじゃないの?」(海外反応)

投稿者
アメリカ下院が奴隷制度の被害者に賠償金の支払いを検討

奴隷と強制収容は別のものです
それは知っています
彼らは同じではないけども
近いものだと思います
それぞれ虐げられてきた過去があります
扱いも酷かったでしょう
しかしながら日本人は労働をする必要はなかったのです
下院がアフリカン・アメリカンの子孫に賠償金を払うべきか話したいです
日系アメリカ人の子孫に関してもです
それにネイティブ・アメリカンについても残虐行為を行った過去があります
それについても考えなければなりません
全て同じなのか、いくらか違うのでしょうか?
そうだとしたらなぜですか?
そうじゃないのだとしたら、それまたなぜですか?
これは「滑りやすい坂道」になるのかどうか知りたいのです


海外「当時最強の戦闘機…」ゼロ戦の生みの親『堀越二郎』の生涯に海外称賛(海外反応)

海外「当時最強の戦闘機…」ゼロ戦の生みの親『堀越二郎』の生涯に海外称賛(海外反応)

ゼロ戦の生みの親 堀越二郎



堀越二郎は彼が生きた時代で最も優れた日本人の航空工学のエンジニアだったと言われてる
彼は日本人が気軽に飛行機で旅行できる日が来ることを夢見ていたんだ
でも彼が生まれたときは、日本は戦争中で、彼の才能は第2次世界大戦中に爆撃機を開発することにしか活かされなかった。。。。
堀越が有名なゼロ戦を設計したんだ
当時最も優れたドッグ・ファイトが行える爆撃機として名を馳せ、“カミカゼ”と対になって知られるようになったよ

本題に入る前に、みんなにちょっと思い出して欲しいことがある
子供の頃どんな夢を持ってた?
宇宙飛行士になりたいっていう夢を持ってたとしても、大きくなるにつれてそんな夢は忘れちゃうよね
でも、二郎は子供の頃から飛行機のことばかり考えてた
彼が生まれた1903年頃は、ヨーロッパで生まれたモダンテクノロジーを取り入れて、日本は近代化への道を歩んでいたよ
彼の生まれた群馬県藤岡では、当時未だ人々は未舗装の道路を旅していて、畑を耕すのも手作業だった
二郎は空を眺めるのが好きで、たまには上空を飛ぶ飛行機も見えたりしてた
飛行機を飛ばすのは魔法みたいに思えて、二郎は最初パイロットになりたかったんだ
でも、子供の頃から近眼でメガネをかけてた二郎は、パイロットにはなれない。。。
変わりに飛行機を設計することが出来る、って事には気がついた
彼が唯一飛行機について学べるのは、ヨーロッパやアメリカの雑誌を通してだけだったけど、当時そんな雑誌に日本語訳なんてなかった
二郎は辞書で一言一言調べながら、文章を理解するしかなかったんだ
当時の航空業界で最も尊敬を集めていたのは、イタリア人のジオバニ・カプロニ
彼は、航空機の設計で斬新なアイディアを取り入れ試していることで有名だったんだ
彼が考察した空飛ぶボートの映像は世界各地で見られていたよ
大勢の乗客が乗った重たい飛行機が空を飛ぶなんて事は、考えられない時代だった
二郎もカプロニの映像を見た一人だ
二郎も子供の頃から夢見ていた飛行機を実際似スケッチし始めるようになる

二郎にとって幸いだったのは、東京大学が新たに航空工学科を開設したこと
ここで、二郎は自分と同じくらい航空工学に情熱を持った友人たちに出会う
その頃の東京は鉄道や路面電車が走り、街は古くからの日本と欧米のモダンな景観が混在してたんだ
二郎にはこの景色がすごくキラキラしたものに映ったことだろうね
彼の夢はもうすぐかなうかに見えたんだけど、そんな時1923年二郎が二十歳のとき東京は東京大震災に見舞われる
その時の被害は甚大なもので、鉄道は脱線し、ビルは瓦礫の山と化した。。。。
地震が起きたのは昼時だったから、昼食を作っていた台所から出火して、街はいたるところで火事になってた
この火事で38,000人もの人が命を落としたよ
この地震は津波も引き起こし、更に数千人の人が命を落とし、200万人もの人たちが住む所を失くしたんだ
この時に、当時日本に住んでいた韓国人や中国人が井戸に毒を入れる、っていういわれのないうわさが流れて、多くの韓国人や中国人が殺されたりもした。。。
二郎や彼の学友たちにとっても、学問なんてやってる場合じゃなくなっちゃったよ
二郎にとって幸いだったのは、彼の家族は藤岡にいたから、この震災で全てをなくさずに住んだってことだね
大学が再開された時に、二郎は学校に戻ることが出来て、学位を修得することが出来たんだ

大学を卒業して24歳で、彼はエンジニアとして最初の職を三菱で得ることが出来た
今じゃ三菱って言えば、カー・メーカーとして有名だけど、三菱の創業は実は1870年に遡る
当時三菱は帝国海軍から注文を得ようとして、ライバル企業としのぎを削っていたんだ
当時の日本では、旅行向けの旅客機なんて開発しようと思ってた会社は存在しなかった
彼に与えられた最初の課題は、1FM9を再構築することだった
最初の試作機は、パイロットが最高速度まで加速しようとした時に、無残にもばらばらに壊れてしまったんだ
当時三菱のような企業が生き残るには、海軍から契約をとることが欠かせなかった
帝国海軍は、中国との戦いに勝利する為にはもっと速度の出る飛行機が欠かせない、とエンジニアたちにはっぱをかけた
これを達成できなかったら、二郎も彼のチームメンバーも即お払い箱だよ
二郎は昼夜を問わず、計算式とスケッチに取り組んだ
当時の日本の飛行機はほとんどが他の国で開発された飛行機のパクリだったから、独自のデザインで設計するのはすごく難しい課題だった
二郎は29歳でとうとう製造に値する、全く新しい航空機を設計することに成功する
それが三菱1MF10 だよ
最初は単翼だったんだけどテストの失敗の結果二郎は再計算を実行して、最終的にA5Mを完成させる
これは、当時世界初の単翼飛行機だったんだ
でも、これは世界からは全く無視されて、当時の航空雑誌は、日本の戦闘機は欧米の真似をしたデザインばかりで、その性能は全く取るに足らないものだ、と論評していたよ
日本が欧米の技術に追いつくには、もっと長い年月が必要だって思われてたんだ
でも、それは思ったよりも早くやって来て、1940年には二郎はA6Mの開発に着手する
ゼロ戦って呼ばれたこの機体は、時速500キロのスピードに達し、7.7mmのマシンガンと20mmの大砲を2台を装着してた
その当時のアメリカ軍の戦闘機よりよほど速い飛行機で、日本はいきなり戦闘機サーキットで一番に躍り出たんだ

帝国海軍は、三菱の技術力と二郎に賞賛を惜しまなかった
中国戦では、A6Mは旧式の中国の戦闘機を全く寄せ付けなかったよ
でも、三菱のエンジニアたちは誰も、その戦闘機がアメリカを攻撃する為に利用されるって事は知らなかったんだ
最終的にアメリカが第2次世界大戦への参戦を決めた頃、日本軍の資源はすごく手薄になってた
でも、ゼロ戦が日本軍に新たなパワーを与えてくれた
当時連合軍はゼロ戦のパワーを過小評価してた、航空工学の分野では日本はスタートラインに立ったばかりだから、そんなにスゴイ爆撃機を開発できるなんて露ほども思ってなかったんだ
最初はゼロ戦に全く対抗できなかったアメリカ軍も、ほとんど無傷のゼロ戦を回収することに成功して、二郎の技術力を検証してその弱点を見つける機会を得る
ゼロ戦の機体はすごく薄い金属で出来ていたから、数発の攻撃で燃料タンクを破壊することが可能だって気がつくんだ
機体の速度が速いって事は、急に方向転換をかけるのが難しい、って事でもあるしね
ゼロ戦は撃ち落されるようになり、経験豊富なパイロットを失った軍は、経験の浅いパイロットを導入するしか手がなくなる
このような若いパイロット出された指示が、機体ごと的の軍艦に突っ込む、カミカゼ攻撃だ
当時のプロパガンダビデオでは、日本人は狂信的だって言われ続けてた
ゼロ戦パイロットで生き残ったサカイ・サブローは、このような説に真っ向から反対し、カミカゼ・パイロットは洗脳されてたわけじゃなくて、自分の命を賭けて、兎に角家族や国土を守ろうと必死だったんだ、って語ってるよ
彼は又、20時間程度の飛行時間しか経験の無いパイロットが、アメリカに向かっていけ!、って言われたら突っ込んでいくしか方法はなかった、って言ってる
天皇陛下のために戦ってた、って言うのは嘘っぱちだよ、皆家族を守るために戦ってたんだ

カミカゼのアイディアは二郎の中にはなかったよ
彼は、何度も再利用できて何年も使える飛行機を考えてたんだ
撃ち落されてもパイロットを守る安全性もしっかり考慮してた
二郎は後に出版された自身の日記の中で、真珠湾攻撃にA6Mが使用されたことがどれ程ショックだったか記してる
技術力の最先端を誇るアメリカに対して日本が戦いを挑んで勝てるとは、誰も思ってなかったし、政府が外交努力で問題を解決するって信じてたんだ
このような悲劇に日本を追い込んだ軍と政府に憤りを禁じえない
戦局の悪化以外にも1944年の地震により、三菱は戦闘機の製造を中止せざるを得なくなる
戦闘機の組み立て工場は地震で破壊され、エンジニアたちは近くの学校に拠点を移さざるを得なかった
二郎自身は、彼の設計した戦闘機が大日本帝国崩壊の原因の一つとなっていることに、益々落ち込みを深めてた
二郎は具合が悪くなり、職場を離れざるを得なかった
この年、東京と名古屋はアメリカによる空襲を受ける
二郎は具合が悪すぎて、疎開することもできなかったよ
二郎は自分の子供たちや親戚を故郷の群馬に疎開させる、すごく田舎だったから危険も少なかったんだろうね
二郎の妻は名古屋を離れることを拒んで、二郎の看病を続けたんだ
病気が癒えて、職場に戻った二郎は、空襲の悲惨さに言葉もない
でもわずか一週間職場に復帰しただけで、二郎はこれ以上戦争に関わることは出来ない、って感じるんだ
二郎はようやく妻と共に群馬に疎開して戦火を逃れる

1945年にアメリカによる東京大空襲があり、80000人から130,000人の人が命を落とした
そんな状況でも、日本人は益々、大勢を救う為に少数の犠牲は仕方がない、って思うようになってくる
22歳のカミカゼ・パイロットは出撃の前に母親に宛てた手紙で、自分が如何に幸せな22年間を過ごし、その恩に報いるために出撃するという趣旨のことを書いているよ。。。
彼は、同期の兵隊と一緒にアメリカのUSSバンカー・ヒルに体当たり攻撃をかけ、何百人もの負傷者を出すことに成功する
真珠湾攻撃やバンカー・ヒルへの攻撃はアメリカ軍の大空襲に比べれば何てことない規模のものだけど、アメリカは日本への攻撃の手を緩めることなく、遂に広島と長崎に原子爆弾を投下することを決定する
この原子爆弾により、推定226000人に及ぶ人命が失われた。。。。
三菱は終戦までに10400機のゼロ戦を製造したけど、終戦までにその全てが破壊されたよ
権力の中枢にいた数人のエゴのために、何千人と言う尊い命が失われた
堀越二郎は死ぬまで、彼の作り出した戦闘機のために多くの若い命が失われたことを後悔してたよ

連合軍の占領を受け、三菱の戦闘機部門は1947年に解体された
二郎は飛行機の設計を諦め、東京大学の教授となった
二郎は日本の復興をこの目で見ることが出来た
1970年代にとうとう、民間の旅客機に搭乗して東京・ニューヨーク間を横断するんだ
堀越二郎は1982年78歳でその生涯を閉じる

2013年にオスカーを受賞した日本人のアニメ映画監督宮崎駿が、堀越の生涯を描いた『風たちぬ』を発表する



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