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海外「面白い…」日本の天狗誕生秘話に海外興味津々(海外反応)

海外「面白い…」日本の天狗誕生秘話に海外興味津々(海外反応)

投稿者
妖怪の話;そめどの妃をダメにしたかった坊さんの話し (狐をゲストにした天狗のお話)


清和天皇の時代 朝廷は危機にひんしていました
天皇の母染殿后が病気になりわるいものに取り付かれてしまったのです
天皇はお坊さんを次々とよんで除霊を試みましたが役に立ちませんでした
ある日天皇は高名な信西(しんぜい)という山寺に住んでいるお坊さんの事を聞きました
彼は魔法の儀式を何年も練習していて山にすんでいるので強いとおもいますよね?
彼は自分の力をつかって茶碗と空中に浮かせて食べ物と水を持ってこさせたというのです

これを聞いて天皇はすぐに信西を呼び寄せました
朝廷の前で信西はお祈りをしました
お祈りの最中に染殿后に使えている女性がおかしな行動をとり始めました
人々は彼女を取り押さえて叩きました
すると狐が服から飛び出してきたのです
この儀式で皇后に取り付いていたのはこの狐だという事がわかりました
狐はとらえられ信西に懲らしめられました
皇后の病気はすっかり良くなりました

みんな大変喜んで信西をしばらく宮中にとどまるように言いました
ある日信西は偶然下着姿の皇后をみてしまい我慢ならず寝所に忍び込みました
皇后はもちろん大声をだしそばに控えていた女性が助けを呼びに走りました
宮中の医者が廊下に控えていたので皇后の部屋に駆けつけました
信西はつかまり天皇は彼を牢に入れました
僕をころしたら悪魔になる事もできる しかし皇后が行きている限り彼女の願いを一緒に叶えようと言いました
これを聞いて天皇は信西を追い出し山に返しました
信西は嘆きましたがどうする事も出来ません
信西は悪魔になる事にして12日間絶食したあと亡くなりました
そして天狗として生まれ変わったのです

天狗になった信西は皇后をあやつって自分を好きになるようにしました
天狗が去ったあとお月の女性が来ましたが皇后は 「何かあったの?」と言っただけでした
以来信西は毎日皇后のところに訪れましたし皇后は歓迎しているようでした
信西は医者への復讐を誓っていたので医者は亡くなりその息子も気が狂って死んでしまいました
朝廷の人達はとても悲しみ天皇を哀れみました

天皇は国中のお坊さんを集めtえ天狗を追い払おうとしました
なんとこれが功を奏して天狗が現れる事はなくなりました
3カ月ほどたつと皇后の気持が回復して来た事を天皇は喜んでいました
普通になった皇后をみて天皇は涙しましたがその時どこからともなく天狗が表れ皇后の気持は元に戻ってしまいました
皇后と天狗は結婚してしまいましたが天狗があまりにも強いのでだれも手を出せませんでした
天皇は悲しく宮中に戻りました

この清和天皇は実在した人物でこの話しは反対勢力からだされたものかもしれません
清和天皇には半分血がつながった兄弟がいて地位を争ったのです
染殿皇后は清和天皇が生まれる前からあやつられていて清和天皇は天皇になる血筋ではないという
噂をたてる話しだったかもしれません
しかし清和天皇の孫は清和源氏となり鎌倉幕府、足利幕府、徳川幕府の素となったのですから
どこかの馬の骨の子供という事にはならなそうですね


海外「技術力高すぎ…」奇襲本土爆撃!アメリカ軍が恐れた日本の潜水空母『伊四百型』に海外興味津々(海外反応)

海外「技術力高すぎ…」奇襲本土爆撃!アメリカ軍が恐れた日本の潜水空母『伊四百型』に海外興味津々(海外反応)

投稿者
「潜水空母」伊四百型

1945年8月、世界は大戦の終了に沸き返った
そんな中、太平洋ではアメリカ軍が不思議なものを発見した
アメリカ海軍は日本海軍の潜水艦を阻止したのだが、その姿は今まで誰も見たことがないものだった
それは世界一大きな潜水艦であっただけでなく、まったく新しい形の兵器だった
魚雷潜水爆撃機を発射することができる潜水艦だ
アメリカ軍は、偶然日本の重大機密である潜水空母に出くわしたというわけ
そして程なく、戦局を全く逆のものにしたかもしれない秘密の計画を暴くことになる



日本が奇襲をかけた真珠湾攻撃は、アメリカを震撼させ、第2次世界大戦への関与を避けられないものとした
真珠湾攻撃の翌日、アメリカは日本への宣戦布告を行う
アメリカは迅速に準備を始め、軍需産業を振興し、程なく日本の軍備力を凌駕するようになった
アメリカにとって、真珠湾攻撃は無意味で卑怯な挑発行為だった
しかし、日本にとってこの攻撃は全く違う意味を持っていた
アメリカとの全面戦争を避けるために、長期的視点に立って計画された、大きな賭けだったのだ
アジアでの侵攻を続けていた日本は、アメリカがこれに待ったをかけるのは時間の問題だと考えていた
真珠湾攻撃の首謀者山本五十六は、一度の攻撃でできうる限りアメリカ軍に打撃を与えることを目指した
太平洋地域でのアメリカ軍の介入を、少なくとも6か月は遅らせようとしたのだ
アメリカからの停戦提案が出れば、儲けものだと考えていた
しかし、大日本帝国はアメリカを酷く過小評価していた
真珠湾攻撃後の混乱の中で、山本はアメリカがすぐに日本をしのぐであろうと予測した
勝ち目のない戦争が目の前で起こりそうな局面で、山本は次の作戦を立てる
アメリカが太平洋での戦争に身を投じるのを避けるために、アメリカ本土を攻撃することにしたのだ
しかし、アメリカは既に日本に対する防衛線を強固なものにしていたため、山本には敵の目からは見えない兵器が必要だった
アメリカが疑いを持たないようなものだ

潜水艦から爆撃機を発射するという考えは、第2次大戦前から始まっていた
しかし初期の試みは、軽量の小型セスナ機1機のみという実験的なものに過ぎなかった
山本が考えていたのは、もっと大掛かりなものだ
複数の爆撃機を格納した潜水空母戦団だ
深海から浮上して爆撃機を発射し都市を攻撃し、すぐさままた海に潜ってしまうというものだ
1942年3月、日本の技師たちは山本発案の潜水空母の設計に取り掛かる
山本の案では、この潜水艦はフルサイズの魚雷潜水爆撃機を発射できることが求められた
カタプルト発射システムも必要だ
それだけでなく、爆撃機を回収するシステムも必要とされた
潜水艦の中に爆撃機を収納する、というのも大きな課題だった
当時の一般的な爆撃機は翼の端から端までで12メートルほどあった為、技術者たちは全く新しいタイプの爆撃機を設計する必要にも迫られた
翼を折りたたみ、潜水艦のハンガーに収容できるようにするためだ
潜水艦は、途中のどこにも寄港することなくアメリカ領のどこにでも到達し帰還できることも必要であった
その為には200万リットルにも及ぶ重油を積み込み、乗組員の為に数か月分の備蓄を備えていることも考慮しなければならなかった
この潜水空母は、I-400と名付けられた
I-400は巨大で、ドイツのUボートの倍ほどの大きさがあった
ハンガーの重量と、運航中の動きを安定させるため、二重船体デザインを採用した
これにより、I-400はアメリカ軍の最大級の潜水艦に比べても3倍の変位を有していた
I-400は恐ろしい潜水艦だった
先端には8か所の魚雷発射口と巨大な甲板砲を備えていた
空からの攻撃に対処するための、対空砲が3基、セイル部分にももう一基備え付けられていた
この潜水空母の一番の武器は、3機の魚雷潜水爆撃機だ

奇襲能力がこの潜水空母の最大の武器だった
I-400が標的に忍び寄るころには、船員たちは既に爆撃機の準備を始めている
メカニックは、高温の油を爆撃機に注入し期待を温めいつでも攻撃できるように準備をした
巨大な潜水艦は標的から数百キロのところで海面に浮上し、3機の爆撃機の準備を迅速に開始する
爆撃機はハンガーからデッキに移動し、エンジンをかけ翼を広げて攻撃対象にロックオン
そこから1機ずつカタプルとを利用して発射する
このプロセスを完了するには30分ほど必要だ
その後は潜水艦は再び海に潜り、爆撃機が無事に帰還するのを待つ
魚雷潜水爆撃機は、最先端のテクノロジーだった
この魚雷潜水爆撃機は、I-400に特化して設計されたもので、最大級の魚雷を搭載することが可能だ
フロートを装備した爆撃機は、潜水艦と並んで海上に降り立つことができ、そこから油圧式のクレーンを使って艦内に収容される
又その攻撃能力を高めるために、フロートなしでも発射できるようになっている
しかしその場合は、パイロットは海上に不時着することを余儀なくされる
I-400はステルス性と高い攻撃性を兼ね備えた、素晴らし潜水艦だった
この素晴らしい武器も、しかし、実際の戦争で戦局を覆すことはなかった

1945年8月15日、4年間に及ぶアメリカとの数々の激戦で疲弊し、日本は降伏する
アメリカがI-400を始めて回収したのは、日本降伏後2週間たった時だった
最初、アメリカ軍はこれが何なのか理解できなかった
日本軍がすべての戦艦を放棄してしまったからだ
当初I-400は輸送艦だと思われていた
しかし、その真の目的はすぐに解明され、アメリカ側はこれがなぜ実戦で使われなかったのか首をひねった
山本の案は、海軍では茶番だと考えられていた
敵陣に近づいてからの攻撃準備にかかる時間は、乗組員には危険すぎると考えられた
しかし、すぐにこの懸念は山本にとっては小さなものに過ぎないことが明らかになった
設計するだけに一年の月日を要した
I-400の建造が実際に始まったのは、1943年に入ってからだ
それまでに、日本の敗戦は色濃いものになっていた
1942年6月以降、アメリカ軍は日本軍に対して猛攻を加え、太平洋から押し戻した
日本での燃料や資材不足は深刻なものになり、これがI-400の建造を更に遅らせた
山本自身もこの潜水空母の完成を目にすることは叶わなかった
1943年、南太平洋の視察の途中彼の乗った飛行機はアメリカ軍によって撃墜される
当初18の潜水空母を建造する計画であったものは、最終的には5つの建造にとどまった
そのうち完成したのは3つでしかなかった
最初に実戦に参加したのは1945年
この時にはすでに、日本の軍事力は壊滅状態に陥っていた
アメリカの都市にわずか数隻の潜水艦空母で攻撃を仕掛けるなど、もはや何の意味もない
より戦略的に利点があったパナマ運河の攻撃計画も、今更戦局の転換は難しいとの軍幹部の判断で断念された
I-400の唯一のミッションは、太平洋の小島のアメリカ軍基地を攻撃することとなった
しかし、このミッションの途中で日本は降伏し、第2次大戦は終わりを迎えた

潜水空母は当初から大きな賭けだと考えられていた
天才的なひらめきをもってして、日本はこの状況を変えようとした
戦争の初期の段階でこの潜水空母が導入されていたら、戦局も変わっていたかもしれない
3機の魚雷潜水爆撃機の発射にかかる時間は30分のはずだったが、実際には45分以下で完了したことは稀だった
巨大な潜水艦が浮上する時間としては危険すぎた
I-400搭載の爆撃機は、優れた設計ではあったが、資材不足により質の劣る資材でやっつけ仕事で作られることになった
このため爆撃機は信頼性に劣っており、不具合が原因で、実際に発射されることは稀だった
巨大なサイズだったため、危険水域を脱するにはアメリカの潜水艦の倍の時間を要した
溶接もしっかりしていなかったため、深海に潜った際の脆弱性も顕著だった
それでもアメリカ軍は、このI-400を危険な武器だと考えていた
特に敵の手に落ちたら、危険なものとなる
1946年、ソビエト軍がこの潜水空母の視察を申し出たが、アメリカ側はこれをハワイ沖で撃沈させた
沈没させた海域も機密情報として、アメリカはこの開発に関わる全てを闇に葬ったのだ
もし、状況が違ったものだったら、戦争の結果も違っていたかもしれない


海外「俺なら島津義弘!」1位は意外な人物?外国人が選ぶ日本の武将TOP10に海外興味津々(海外反応)

海外「俺なら島津義弘!」1位は意外な人物?外国人が選ぶ日本の武将TOP10に海外興味津々(海外反応)

投稿者
日本の武将トップ10

今週は戦国時代の長篠の合戦を特集する予定だったけど、まだ参考文献が揃わないから、今回は趣向をちょっと変えて、トップ10シリーズを紹介しようと思う
趣向についてはずっと温めてきたんだけど、まずは武将から始めよう
レジェンドになり、その後の日本の歴史に影響を与えたような侍の武将たちだ
ただし、選考基準は戦で手柄を立てたとかじゃないから、有名な武将でも真田幸村とか源義経は出てこないよ
僕の選考基準は、彼らの功績だ
彼らのレガシーを検証して、それがその後の日本にどんな影響を与えたかで判断してる
僕なりの判断基準でそのレガシーを評価してるんだ
だからどの戦いでAがBを破ったから、Aはより上位に位置づけられる、とかにはしていない
だから、これを見てくれた人と僕の間でリストに違いが出てくることも十分ありうるよ
もし、僕のリストとは違うリストを考えてる人がいるなら、是非その意見を聞かせてほしい



10位 - 平清盛
12世紀の武将、その頃の日本は全く異なる時代だった
サムライはパワフルだったけど、日本を支配していたわけじゃない
しかし、京都を根底から覆した保元の乱と平治の乱を経て、平清盛は表舞台に登場した
京都の騒乱が収まるころには、平清盛は源氏を始めとするほとんどのライバルたちを打ち負かし、源氏を遠く離れた土地まで追いやっていた
1180年までには、彼はその力を最大限に利用して天皇に影響を与え、政治をつかさどり、その後何代にもわたる平家の安定を確立した
しかしそれは、平清盛が自分の孫を次の天皇につけようとしたことでほころびが見え始め、源平の戦いへと発展する
この戦いで平家は力を急速に失っていくが、平清盛は戦いで命を落とすことはなく、戦局の初期の段階で寿命が尽きて亡くなった
源平の戦いで敗れたことよりも、存命中の政治力と軍事戦略の優秀さで彼をランクインさせることにした

9位 - 武田信玄
1540年までに、日本は本格的な戦国時代を迎えていた
当時武田家は、分家を通して様々な土地を修めていたが、その力は少しずつ弱まっていた
最後の砦が甲斐の国だった
武田信玄の父信虎は家を継いだばかりだったが、その考えのない軍事戦略の失敗が続き、武田家の存続は風前の灯火だった
信玄は武力革命を起こし、武田家を自分のものとする
もしこの謀反が失敗していたら、武田家はそのまま滅び去っていただろう
信玄のもとで、武田家はその領地拡大に成功する
その後武田家は、織田信長に対抗できる唯一の勢力に成長した
信玄は軍事戦略における天才で、その才能は上杉謙信に対峙した川中島合戦で真価を発揮した
彼は又、その治世戦略を通して達成した安定性でも知られている
彼は孫氏の兵法に精通し、そこから風林火山というコンセプトに到達した
しかし、信玄は後継ぎには恵まれなかった
彼は優れた戦術を子であり後継ぎである勝頼に伝えきることができず、勝頼の代に武田家は滅び去ることになる

8位 - 上杉謙信
戦国時代、上杉家は日本で最も強力な武将だった
しかし、その軍事力衰退と家内での不協和音が上杉家を滅ぼすところだった
長尾景虎が居なければ、上杉家は1551年までに敵の前にひざまずくところであった
景虎は、当時窮地に陥っていた上杉憲政に自らを後継者にするように持ち掛け、越後の実権を彼に与え、関東地方において将軍に次ぐ地位を与えるよう迫った
選択肢がなかった上杉憲政は、これを受け入れざるを得なかった
これにより上杉家は再び団結し、その地位を維持することが叶った
景虎はその後仏教の教えを信じ、その名を謙信と改める
その後謙信は、関東一体で北条氏を相手取り様々な戦いを繰り広げた
武田信玄とは、川中島の合戦で越後に進軍しようとした武田軍との間で雌雄を決した
彼は信玄の対極に位置する武将だ
信玄が後継者の育成に失敗したのとは反対に、上杉家は存続を続け、現代にもその名をとどめている

7位 - 毛利元就
毛利元就は、才能ある軍事戦略家だった
勝てる見込みのない戦局を覆し、勝利を収めたことが何度もある
その中で最も有名なのが、厳島の戦いだろう
彼は敵の軍勢を一人残らず小島に囲い込み、総勢を打ち破ることに成功した
これにより毛利家は日本中にその名をはせることになる
安芸のとるに足らない小名から、元就の指揮のもとにライバルを蹴散らし、実質本州西部を手中に収めた
自身の死後も、自身の3人の息子たちに強力な団結を促し、彼らもその遺志に応えて奮闘した
関ヶ原の合戦では敗戦者側に置かれたが、戊辰戦争においてそのリベンジを果たす
戊辰戦争では毛利家は、尊皇派の先頭に立って戦い、最終的に徳川時代の幕引きに貢献した
毛利家は現在でも続いている

6位 - 西郷隆盛
薩摩藩の侍であった西郷は、戊辰戦争では尊王攘夷派として戦った
徳川幕府転覆成功のカギとなった、鳥羽伏見の戦いの立役者であったと考えられている
徳川家の江戸城明け渡しの際にも活躍した
しかし、明治の改革においては数々の政策に反対したことでも知られている
議論を続けることよりも、日本の軍隊の近代化と再編成促進に注力しようとした
彼の提案がことごとく却下されたことで、彼は明治政府を去り薩摩に戻る
地元では改革に絶望した元武士たちの支持を集め、1877年これが西南戦争に発展する
西郷とその配下は、ことごとく打ち破られる
これはその後、明治天皇から西郷への大きな同情という形で評価を受けるようになる
急速な西洋化の時代にあって、侍の矜持を呼び覚ますものであった
武士道精神はその後の帝国軍にも受け継がれていく
興味深いのは、映画「ラストサムライ」において、渡辺謙が演じた勝元は西郷隆盛をモデルにしたと言われている

5位 - 足利尊氏
モンゴルによる日本侵攻の終わりに、鎌倉幕府は弱体化していた
日本を守るために戦った多くの武将は、何の見返りも得られなかった
幕府の弱体化を察知した後醍醐天皇は、このような武将を味方につけ将軍に対して開戦を宣言した
戦いの初期には鎌倉幕府が有利かに見えたが、その後多くの武将の裏切りを経験することになる
将軍派の巨大勢力を率いていた足利尊氏は、幕府と袂を分かち、古都を天皇の名のもとに平定し、鎌倉幕府を東に追いやることに成功した
この戦いの後で、足利尊氏は最も重要な侍の地位を手にする
しかし後醍醐天皇は侍の弱体化を図ろうとした為、尊氏は天皇に対して反旗を翻し京都を自らの手に取り戻した
この時尊氏は足利将軍の座を創設し、この将軍家はその後235年継続した

4位 - 織田信長
尾張の虚け者に関しては、様々な逸話が残されている
戦国時代に信長はあれよあれよという間に頭角を現した
彼は終わりを統一し、自軍の10倍の規模を持つ敵軍を制圧することに成功した
その後信長は美濃を制圧し、首都にその矛先を向けた
足利将軍家を傀儡とし、彼の名の元での全国での戦いの終焉を訴えた
彼の協力な軍事網は、たとえ周りすべてを敵陣に囲まれていてもそこから不死鳥のようによみがえった
浅井・朝倉を打ち破り、三好家を本州から遠ざけ、武田に壊滅的な打撃を与えた
織田信長は非情な武将だと言われているが、西欧文化に並々ならぬ関心を持っていたことでも知られている
西欧の火器を最初に戦いで採用したことでも知られている
1582年の明智光秀の造反がなければ、信長が天下を平定することも可能だっただろう
しかし、彼は基礎を作り上げ、彼の後継者たちによって全国統一は果たされることになる
織田信長は、その後の日本の統一に寄与した三英傑の一人として名を残している

3位 - 豊臣秀吉
信長の家来であった秀吉は、平民の子として生まれた
しかしその後の献身的な奉仕により、のちに侍の地位に昇格した
信長の狡猾な戦略を学んだ秀吉は、1582年に信長が命を落とした時には毛利氏と対峙していた
毛利氏と停戦合意を結び、秀吉はすぐさま信長の陣営へと駆け戻った
裏切者の明智光秀を破り、かつての仲間であった柴田勝家を討ち果たしにかかる
これらの戦いでの勝利を通じて、秀吉は信長の天下平定の後継者とみなされるようになる
1585年秀吉は四国に侵攻し、武力外交により岡部氏を倒し、さらに九州にも足を延ばす
彼の最後の難敵が関東を支配していた北条氏だったが、これを1591年の戦いで破ることに成功した
この戦いの後では、日本で秀吉に歯向かうものはいなかった
しかしその後、秀吉はいくつか疑問が残る決断をする
その一つが侍以外から刀を取り上げる刀狩りだ
もう一つが、昇進の制限、足軽から侍になる、と言ったことができないようにした
最も顕著な失策が、二度にわたる朝鮮への進軍だ
秀吉は1598年に命を落とすが、彼が日本に残したものは新たな混とんだった
しかし彼の存在は、三英傑の第2番目として記録されている

2位 - 徳川家康
今回のリストにあげた武将の中で、もっとも忍耐力があると言えば家康だろう
元々は松平元康として知られているが、自分の機が巡ってくるまでひたすら待ち続けた
今川義元のもとで織田を敵に回して戦ったが、今川が倒されると即独立を宣言し、織田信長と同盟を結ぶことにする
その後は一心に自らの地位を高めることに精進する
名前も徳川と変えた
武田家を破ったことで、家康は広大な領地を手中に収めることに成功した
北条氏の敗退の後、家康はわざと朝鮮出兵から自分の兵を外し、秀吉の死後は最強の武将として名をはせた
秀吉派を相手に戦った関ヶ原の戦いに勝利したことで、徳川将軍家の設立を成し遂げる
この幕府はその後約265年にわたって繁栄した
家康は日本統一を図った三英傑の最後の武将として知られている
戦国時代を終わらせ、平和な時代を作り上げたのだ

1位 - 源頼朝
このリストは最後にまた12世紀に戻ってきた
源頼朝は平清盛によってその地を追われた源氏の一員だ
平清盛が自分の孫を天皇に据えると宣言した時、多くのものが憤慨し、源氏を呼び戻して平家に対して戦いを挑むべきだという声が上がった
源平合戦の始まりだ
しかし、頼朝はすぐに亡命から戻ったわけではない、彼はその頃関東で北条氏から人質としてとらわれていたのだ
頼朝は北条氏の信頼を勝ち取り、共に平家に対して戦いを挑むことにする
その後勢力は拡大し、頼朝は平家だけでなく源氏内部でも彼にたてつく勢力に対して戦いを仕掛ける
源平合戦は、壇ノ浦の戦いにおける源氏の勝利で幕を下ろす
頼朝は日本一の武将となった
日本の安定を確保するためには、侍を頂点とする社会システムの構築が必要であった
彼は最初の将軍制度を確立する
ここで、勢力が天皇から将軍に移ることになった
頼朝のお陰で、侍が天下を取るという基盤が出来上がり、その後の7世紀もの長期にわたる侍主導の時代を作る礎となったのだ


海外「奥が深い…」肥やしが日本経済を発展させた!江戸時代の究極のエコシステムに海外興味津々(海外反応)

海外「奥が深い…」肥やしが日本経済を発展させた!江戸時代の究極のエコシステムに海外興味津々(海外反応)

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肥しが日本経済を発展させた

今日は、江戸時代の日本でいかに肥しが重要視されて都市の発展に貢献したかを紹介するよ
江戸時代、日本にはヨーロッパの都市よりもうんと大きな都市が存在してた
江戸(今の東京)は、中国の北京と並ぶ世界中で一番大きな都市のひとつだった
1700年のロンドンの人口は575,000人だったけど、江戸では100万人が暮らしてたんだ
ヨーロッパの都市の汚さは酷いものだったよ
ゴミは家の前に放り出したまま
街を歩いてる馬たちはどこでも糞をし放題だったし。。。。
日本の都市はそれより大きかったから、さぞ汚かっただろう、って思うだろ?
海外からの使者はいつでも、日本のきれいさにビックリしてたよ
道をきれいにしておくようにって言うお触れがあったし、う〇こはすごく貴重なものだったんだ、売買されてたんだよ!
食べ物の質が良くなると、下から出てくるものの質も良くなってきて、それがますます食材の質を上げていくって仕組み



さあ、う〇この話に戻ろうか
う〇こ、夜の土、お尻の恵み。。。。
ヨーロッパ人がう〇こを全くの無用の長物だって考えたのとは違って、日本ではう〇こを誰かにお金を払って始末してもらうものじゃなくて、逆に誰かがお金を払って買いに来るものだったんだ
う〇こは肥料としてすごく優れてるんだよ
日本の神道では厠(トイレ)の神様何て言うのまでいるくらいだから
豊作を願ってお祈りするんだって
う〇こは捨てちゃうんじゃなくて、溜めておいて肥料として使ってた
ヨーロッパでもう〇こはある程度は肥料として使われてたらしいけど、日本ほど熱心じゃなかったみたい
これにはいろいろな理由があるよ
当時の江戸の人口は爆発的に増えてた、僕のYouTubeチャネルの登録者数とは全然違うよね。。。。。
そのおかげで、食糧需要はうなぎのぼりだった
人口が増えるにつれて、肥料としてのう〇この量も増えて行った
神様は日本人に農業に適した平地を十分には与えてくれなかったけど、狭い土地から効率的に作物を育てる手段を与えてくれた
おまけに当時日本には家畜なんてほとんどいなかったから、それに代わって肥料を調達しなきゃならなかったし
それで、道端の土を芳醇なものにする代わりに、農地で活用することにしたんだ
ヨーロッパでは道端に肥溜めを作って、そこにう〇こを捨ておいてたんだけど、日本では法律があって道を汚すことは許されなかった
日本の道路はヨーロッパよりうんときれいで臭いもしなかったよ

大阪ではう〇こ経済が花開いてた
江戸時代以前でも、大阪ではう〇こをやり取りの対象にしてたんだ
そのおかげで、大阪の周辺の土地はすごく豊かになったよ
その後大阪はう〇この輸出も始める。。。。
う〇こを船に積んで、川沿いの村に売って歩いてたんだ
この交易があまりに拡大したから、皆との近くの住民から文句が出たりしたらしい
う〇こもその他の商品も一つの船に混載してたからね
地方政府も、う〇こがあまりに重要だったから、住民に我慢しろって言ったんだってさ
政府はどうやってう〇こを保存しておくか、っていう指示書まで出してた
高貴な家から出たう〇こは、貧しい家からのものより高く買われていた
高級娼館から出たう〇こも高かったんだって
江戸城からのう〇こが最高値で取引されて、選ばれた者だけが江戸城の肥溜めからくみ出すことを許されてた
侍や金持ちは栄養価の高いものを食べてたから、下から出るものにも栄養価が残ってるだろうからね
子供や母乳を出してる母親のう〇こは価値が低かった
う〇この良し悪しを判断する職業まであったんだ
肥溜めを見ただけで、その家が金持ちかどうかを判断できるって、自慢話まである
彼がどうやって判断してたかって記述までは読む気にならなかったんだけど。。。。
江戸時代にこの肥しの値段は、天文学的に上がっていった
僕のYouTubeチャンネルは散々だけど。。。。。
最初はこの肥しは野菜との交換で商売になってた
肥しを運んだ船は、大阪に野菜や果物を持って帰ってきた
肥しが栄養となって育った野菜が大阪に戻ってきて、それを食べた人のう〇こがまた農村に戻っていくってシステム
昔の日本の作家は、コメが肥しを生み、それがまたコメを生む、って言ったものさ
でも100年後には、この肥しを扱ってる業者は、肥しを銀と交換することになる
コメの値段が上がっていくにしたがって、肥しの値段も上がっていった
誰も野菜と肥しの交換では満足しなくなって、銀を要求するようになってた
貧しい農家では、肥しなどとても買えなくなって、そういう農家は肥しを盗むようになっていく
肥しを盗むのは、恥ずかしいことだったけど、背に腹は代えられないからねぇ
喧嘩になったり公事で訴えたりするようになってきた
肥溜めさらい、は結構複雑なシステムで、農家は家々を回って肥溜めさらいをしていく
週に何回とか月に何回とか決めて、回数券みたいなシステムをとってたんだ
う〇ことおしっこでは、その値段に差があったよ
肥溜めは家ごとに設えてあったけど、借家の場合はう〇こは大家におしっこは店子に属していた
一年間で10人分のう〇こは、一人が半年暮らしていけるコメの値段に相当した
大家さんの収入はかなりのものだったってこと
店子の数が減った長屋では、大家の肥溜めからの収入が下がるから家賃が上がることさえあったみたいだ
大阪政府は、肥溜め会所を設けた
この会所は、各肥溜めの管理の仕方と値段の調整をしてたんだ
後には協会に発展して、値段の一律管理とかもやってたよ
どの会員がどこから肥しを買えるかって言う決まりも作ってたんだ
当然、会員間での利権をめぐる争いとかは起こったね
肥溜めをさらう業者はおしっこには目を向けなかった、それほど価値はないって思われてたからね
そうこうしてるうちに、おしっこを集める業者が出てきた
大阪では、わたなべ村がおしっこを回収する利権を手に入れた
おしっこ用の桶が街角には設えてあって、業者はそれを回収していくんだ
わたなべ村はそのうち、この分野での独占権を得る
このおしっこ桶がどんなものだったかは写真には残ってないけど、多分男女共同で、周りから見えないように囲みが作ってあったんだろうね
肥溜めさらいを生業にしてた人たちは、当時の社会の最下層の人々だった
でも、この事業はすごく儲かったから、そのうちに最下層の人々でも大金持ちになる人が出てきた
わたなべのライバルたちは、その牙城を崩そうと奮闘した
お上に訴えたり、街角のおしっこ桶に砂を混ぜたり、桶から黙っておしっこを盗んだりしたんだ
どれもうまくいかなくて、わたなべの繁栄は続いた
おしっこ桶を使ってる人たちは、その裏でどんな戦いが繰り広げられてたかなんて、想像もできなかっただろうね

首都の江戸でも肥溜めビジネスは繁盛してた
“江戸の人々は食事にありつけるお礼をお尻で返す”って言われたものだよ
肥しビジネスはすごく大きなもので、江戸に出入りする商船の4分の1は肥溜め事業の船だったって言われてるよ
船の水主たちは、どうやって船をきれいに保って、野菜も積めるようにしていたかってことを自慢しあったものさ
肥しに水やちり紙を混ぜて嵩を増して高く売ろうと企らんだ奴らもいるらしい
農村は農村で、肥溜めさらいができる街を確保しようと画策した
大名の中には、肥溜めさらいを許可する代わりに大きな大根150本、または中くらいの大根2000本か、2両を要求した所もあった
商機に長けた若者は、役所と掛け合って街角に自分のおしっこ桶を設置できるようにしようとした
これは、見た目と臭いの関係で許可されなかったんだけど。。。。
江戸は将軍のおひざ元だったから、どこでもここでもおしっこ桶があるのは避けたかったんだね
糞尿の収集ポイントを個別に作ったことの利点は、水のサプライポイントと糞尿を分けることができたこと
江戸の水は当時のロンドンや他のヨーロッパの国々より余程きれいだったよ
江戸は当時のヨーロッパの高度な浄水技術なしに、水をきれいに保つことに成功してたんだ
江戸では、汚水が飲み水を汚染したりすることはなかった
当時のロンドンでは、汚水はテムズ川に垂れ流しで、人々はその川からの水を飲んでたから水で中毒になる人がすごく沢山いた
それに加えて、肥溜めとかもきちんと管理されたなかったから、いたるところに汚物があふれ出して地下水に流れ込んだりもしてた
近代になってからは、この問題は解消されたんだけどね

この日本の肥溜めによる経済発展は、ヨーロッパの下水技術が確立された後で衰退を始める
日本ではたい肥はものすごく役に立つ代物だったから、当時下水処理技術を発展させる必要は全然なかったんだ
ヨーロッパの下水処理技術は1800年代後半から1900年ころにかけて発達した
その頃から、ヨーロッパ人の日本に対する評価は変化してくる
日本の水のきれいさを称賛したものから、肥溜めや街角のおしっこ桶の臭さを批判するものになったんだ
誰もが街角でおしっこしたり、肥溜めさらいの桶を担いだ人が通った後での悪臭に我慢ができなくなってきた
この話を聞かされた幕府は、近代化の必要性に気づかされた
お触れをだして、悪臭やトイレの環境を整備しようとした
それでも肥溜め産業は生き残り続けてた
ようやく、東京の人口が肥しの需要を超えるようになり、肥溜め業者が市民にお金を払うのではなく、住民が肥溜め業者にお金を払って肥溜めを浚えてもらわないといけないようになった
これが、日本が近代的なトイレと下水道に移行した時代の始まりだよ
1980年代になって、やっと日本の殆どの地域で下水道が引かれるようになったんだ
多分そこから、日本の衛生業者はすごく頑張ったんだと思う
だって、今じゃ日本のトイレは世界一だよ
あったかい便座やウォッシュレットなんて最高でしょ


韓国人「日本が守ってない」「なかったことに…」日本と国交を樹立した日韓基本条約に韓国議論(海外反応)

韓国人「日本が守ってない」「なかったことに…」日本と国交を樹立した日韓基本条約に韓国議論(海外反応)

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1965年の日韓合意についてどう思いますか?




海外「わずか6歳で…」源平合戦最後の戦い!『壇ノ浦の戦い』に海外興味津々(海外反応)

海外「わずか6歳で…」源平合戦最後の戦い!『壇ノ浦の戦い』に海外興味津々(海外反応)

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壇ノ浦の戦い



壇ノ浦の戦いは、源平合戦の最後の戦いだって広く伝わってる
平家は下関湾のあたりまで後退させられてた
壇ノ浦は海岸べりで、源氏と平家の海戦の舞台となったところ
平家は海戦に強かったから、この時まで源氏はできる限り海での戦いを避けてきたんだ
でもこの時、源義経は海での戦いを挑んだ
どうしてかって言うと、これまで源氏は数々の戦いに勝利を納めてきて、地方の統治者を味方につけてきていたからなんだ
地方の指導者たちは、源氏に船乗りと船を差し出してくれたんだ
結果、義経は国内最大の船と船乗りを抱えることになったんだ
きちんとした数は分かってないけど、700から840隻の船を持ってたらしい
これに対して平家が持ってたのは、500隻くらいだった
この数を頼みに、義経は平家に勝てる!って自信を持ったんだ

この戦いの詳細は平家物語で語られてるけど、まぁ、どれくらいがホントの事だったかはわからないよ。。。。
大事な戦いだった、ってことは確かだけどね
この戦いからは、数多くの英雄や伝説が生まれてる、セーラームーンなんかだよ
源氏が攻めてくるってことが分かって、平家も海戦の準備を怠りなく進める
三種の神器と安徳天皇も船に乗せたよ、彼はその時6歳だった。。。。
天皇が乗ってるってことが一目でわかるような旗艦もこしらえた、目くらましだよ
平宗盛っていう能力の低い奴が当時の平家のトップだったけど、戦艦を指揮してたのは別の人物だった、これで戦いに勝利するチャンスが少し上がったかな
この戦いに勝てれば、戦局を一気に挽回することができる
義経が壇ノ浦にたどり着いたとき、平家の大将はちょっとビビっちゃった
でも、潮の流れが源氏側に向かって行った時に、平家は源氏に攻撃を仕掛けた
船隊の間をくぐり抜けようともくろんだんだ
所で、今回使ってる船っていう表現は、一般的なものだからね
そんなに大きなものじゃなくて、ほとんどが小舟だった
その頃にはまだガンダムも誕生してなかったから、装備や武器にしても大砲なんてもっての外だったよ
弓を射るか、相手の船に乗って戦うかが主流だった
源氏は騎馬戦に優れてたけど、ここではそれは役に立たない。。。。
最初はお互いに矢を射かけてたけど、すぐに船同士が入り乱れての戦いになった
平家物語は、スタッフィングをした七面鳥のローストみたいなものさ
一皿に肉やマッシュポテト、野菜にグレービーがてんこ盛り、ってこと
平教経を例にとってみよう
教経は義経の船に近づくことに成功した
でも、接近戦を避けたかった義経は隣の船に飛び移る
源氏の兵士に囲まれちゃったけど教経はそのうちの一人を船から蹴落として、別の二人を両脇に抱えて海に飛び込む。。。。
自分は死んじゃったけど、敵二人も一緒に道連れにしたんだ
潮の流れが変わった時に、兵士の船も引き戻されることになる
そもそも数で押されてた平家は、ちょっとまずい状況に陥った

平家軍の武将の一人は、これを裏切りの絶好のチャンスだととらえたよ
この武将の名前は田口重能
彼は自分の部下に平氏に対して戦いを仕掛けるように指示する
戦いの初期の段階で重能の息子は既に降参してて、父親に向けて平家を裏切るようにっていう手紙を書いてるんだ
でも平宗盛はすでにこの裏切りの事を、重能の事を疑ってた他の武将から知らされてた
にもかかわらず平宗盛は重能を成敗せず、逆に重能に戦いに参加させちゃったから、重能は源氏にどの船に安徳天皇が乗ってるかまで教えちゃうんだ。。。。

源義経は、自分の兵士に立派な飾りをつけた平家の旗艦を攻撃するのを止めさせ、安徳天皇が実際に乗ってる船を攻撃させた
平家の望みは完全に断たれちゃったかに見えた、って実際そうだったんだけど。。。。
安徳天皇の船には天皇のおばあちゃんも乗ってた
絶体絶命のピンチにおばあちゃんは何をしたんだろう?
彼女は三種の神器の内剣と勾玉、そして安徳天皇を抱えて海に飛び込んだんだ
二人ともおぼれちゃったんだけど。。。。

鏡を抱えた侍女もおばあちゃんに続いて海に飛び込もうとしたんだけど、飛んできた矢が着物の裾を船の床に張り付けちゃう
彼女が抱えた箱に興味をもった源氏の兵士が箱を開けると、あら不思議目が真っ黒になって鼻血も出てきた
誰かが「これが秘蔵の鏡だ!不浄な目でこの鏡をのぞいてはいけない!」って叫んだ
平家物語によれば、勾玉はあとから海で見つかったけど、剣は出てこなかったらしい
これが本当だったら、今の剣はレプリカかな? もっと言っちゃうと、最初からそんなものなかったのかも
この後で海に飛び込んで命を絶つ、っていうのがトレンドになった。。。。
平家の多くの武将が海に飛び込んで命を絶ったんだ
ただ飛び込むだけじゃなくて、錨を身体に巻き付けて浮いてこないようにした剛の者までいたよ
船隊の大将平知盛は、誇りを守るために、錨だけじゃなくて余分な鎧もつけて身体を重くして、絶対浮いてこないようにして海に飛び込んだんだ。。。。
死んで恥辱をすすぐ、って奴だね

平宗盛は船に留まって、どうしたものかなぁ、って考えてた
自分が死んで何が解決するかな、って迷ってたんだ
でも平家の兵士がぶつかってきて、彼諸共海に落ちてその思考は中断される
平宗盛の息子も彼の後を追って海に飛び込んだ
でも、源氏の兵士が海から引き揚げてくれたから、おぼれて死ぬことはなかった
結局後から処刑されちゃったんだけど
この平家の大量の投身自殺が、のちに平家蟹の伝説のもとになった
この蟹の殻が何となく、平家の武士の顔みたいに見えるからね
地元の人たちは、平家の武士の魂が蟹に宿った、って言うんだ
壇ノ浦の戦いは、平家に壊滅的な打撃を与えた
義経は伝説のヒーローになった
でもこの大活躍を、彼のお兄さんは実は全然喜ばなかったんだけどね


海外「手遅れになる前に…」中国の経済的奴隷となってしまったニュージーランドに海外議論(海外反応)

海外「手遅れになる前に…」中国の経済的奴隷となってしまったニュージーランドに海外議論(海外反応)

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近代中国を理解するためには100年ほどさかのぼり歴史を少し勉強する必要があります
 注:中国と言った場合国としての中国であり中国人を指したものではありません
ヨーロッパ人が入ってくるまで中国は基本的に鎖国状態であり皇帝が国を治めていました 
日本は中国の皇帝に恭順していました 中国はプライドをもって他の国とは一線を画していました
1800年代 中国には長い間大麻がありました 彼らは医療目的で使っていました
大麻は珍しい物でありだんだんと違法な物になってきました
しかし東インド会社が中国の物を買いあさり金や銀などが中国に入り始めました
中国が輸出したのはシルクやお茶などでした
東インド会社は金や銀を取り戻そうと大麻を密輸し始めそれは帝国に中毒者をたくさん作りました
1839年 中国は大麻を没収し始めそれはやがて戦争になり中国は負けました
これが中国共産党の台頭の動機になりました
アヘン戦争のあと中国は一方的な貿易協定に合意するしかありませんでした
ヨーロッパ勢は法律を変え会社の損害を補償させ小さな島(香港)はイギリス領になりました
抑圧された中国人は外国人を攻撃し始めたので15〜20年後 アヘン戦争が再び起こりました

おなじころ中国の社会は混乱していました
人口増加、自然災害、経済問題などが起こった上に欧米におしつけられた条件によって苦しんでいました
1820年から30年の間に中国で使用された大麻は10倍にもなっていたと推測されています
太平天国の乱 といわれる反乱はキリストの生まれ変わりだと主張する紅秀泉に率いられこの内乱は2000万人の犠牲をだし中国の国力を弱めました
その数十年後日本が中国に進出してきました 1895年の日清戦争で日本が勝利 これは中国のプライドを傷つけました 歴史上これまでは中国はこの地域の支配国だったんですから 
日本は戦利品として台湾を手に入れました
19世紀初頭 国民党の党首 孫文による反乱があり1949年中華民国が成立しました
欧米は国民党を支持しソ連は共産党を支持しました

共産党が勝ち国民党は台湾に避難 第2次世界大戦後 台湾を日本から取り戻しました
1950年の朝鮮戦争ではアメリカは台湾を共産党から守るためにたくさんの人を派遣しました
台湾は1970年代までその籍が中国に与えられるまでは国連のメンバーでした
1072年 冷戦のため毛沢東とニクソン大統領が接近した事により中国がメンバーになりました
世界は1つの中国を推奨したので台湾はいまでも中国の一部です
この40年ほどの間鄧小平による改革からはじまり中国は人民を貧困から救いました
今では世界で2番目の規模の経済をもち人口は一位 核兵器をもち200万人規模の軍隊があります 
軍事費はアメリカに次いで2位
貿易量も2018年は5兆ドルになっています(世界の貿易の12〜13%)
1970年代終わり頃から始まった中国の経済成長は比較的平和的にすすんだので国際的な標準にあうだろうと思ったのですがそれは間違いでした

中国の政府は1党独占です
基本的な人権を圧迫し政治的異義を唱える事を禁止し反対派を処刑しました 
冷戦当時アメリカやヨーロッパ諸国は敵と見なされていました 
中国はさらに外交政策において断定的にまた積極的になっていきました
それは中国が大国へと成長していったからです
しかしリーダーになろうとはせず絶対に付け入られないようにきをつけていました
中国は大部分で欧米よりも経済的にも技術的にも遅れていました 
しかしこの40年で対抗出来るか試してみるところにまで成長したのです
ソフトなバワーとしては文化、歴史 政治的・経済的価値観の共有 外交など
ハードパワーはもっと強制的な影響があるものの事をいい 政治/経済のことなど
中国は主に海外の孔子学院をつかって文化や歴史を広めローンをアフリカの最貧国に組み発展によって貧困かラ抜け出すようにセットしてきた
しかし世界の孔子学院が閉まっていきました(NZにはいまでもある)
それhこの期間が中国の文部科学省の指揮下にありホスト国の教育の自由を弱体化させているのではないかと危惧されたからです
中国のローンに関してもこれはソフトパワーではなく相手国が借金外交に陥っていく事がわかってきました
返しきれないほどのお金を貸していきそれを材料に重要な戦略を押し付けるようになったのです
スリランカでは中国は港湾の指揮を手に入れました
さらに中国はハードパワーを使って小さな国を圧迫し始めました

例えばニュージーランドです
ニュージーランドと中国の貿易は300億ドルですがこれはニュージーランドのGDPの10%を占めています これを利用して中国はダライラマがニュージーランドを訪問した時に要人に圧力をかけたのです
オーストラリアでは貿易の30%を中国がしめていて大きな影響があります
昔ながらの力押しの政治が見られます
中国は国際関係の基準を変えようとしています 
これからの10年で中国との貿易はさらに増えていくと予想されますがこのままではニュージーランドの独立が攻撃をうけてしまうのです
大学ではすでにその動きが見られます

ではWHのもとコロナなどはニュージーランドに取ってどんな意味があるのでしょう
今まで最大級の不況にみまわれています 補助金がなくなったらどうなるのでしょうか?
今すぐに私たちは中国との関わりをへらすためにとりくむこと

a)ニュージーランドで自給出来る物は自給して供給のラインを取り戻す
b)中国だけにたよらず他の国とも関係を持ち貿易をする

どの国との貿易もX%以上にはしないというやり方をするべきです x%を越えそうになったら他の国にするように監視するシステムが必要です 1国に集中しないようにすぐに変更出来るようにしておかないといけないのです
経済と国家の安全は複雑にからみあっています
いま私たちの国家の安全は経済的な状況のために危機的な状況です
個人としては投票が購買意欲などで必要な行動を見せる事ができます
中国は成長するにつれさらに積極的に断定的になっていくでしょう
私たちニュージーランド人はいま中国に経済的に依存していますがここから抜けるために今出来る事をすぐにしないといけません 手遅れになるまえに


海外「これが反日の原点?」豊臣秀吉が侵攻した朝鮮出兵に海外興味津々(海外反応)

海外「これが反日の原点?」豊臣秀吉が侵攻した朝鮮出兵に海外興味津々(海外反応)

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朝鮮出兵

戦国時代の終焉と共に、日本国内での武将同士の戦いは終わりを迎えた
勝者にとって明らかだったのは、あぶれてしまった武士に活路を与えるために、日本は新たな侵略のターゲットが必要だということだ
豊臣秀吉は、百年近くの間で初めて国を統一することに成功した
優れた武将をまとめることに成功した秀吉は、朝鮮への大掛かりな攻撃を開始する

豊臣秀吉の悲願であった日本統一は形を成そうとしていた
秀吉は1582年、自らが仕えていた織田信長を裏切ることで本州をほぼ制覇
1585年には四国を制覇し、九州は1587年これに続いた
信長と同様に、秀吉もまた自らの実権はこの小さな島国を超えて実現するべきだと考えており、覇権を広げることを自らの使命ととらえていた
秀吉と戦いを繰り広げていた大名の中で、彼への従属を誓ったものに対してはその領土を奪うことはしなかったのみならず、さらなる領地の拡大を約束することで、日本統一へと一歩一歩近づいて行った
この領地拡大の約束が、問題の根幹となって行った
日本には既に戦って奪うべき土地はなく、諸大名は秀吉に対する謀反を画策するようになる
この事実を受け止めた秀吉は、1580年代終わり頃から挑戦を次の標的とした
その後には、中国の明王朝も視野に入れていた
秀吉の連合軍がその頃新たに手に入れた領土は対馬海峡の中ほどに位置していた対馬
元々この島を支配してた宗氏は、その頃までには秀吉の配下となっており、この宗氏が秀吉の手紙を挑戦に届ける役目を負った
この書簡は朝鮮へ攻め込むことを示唆するもので、使者であった宗氏の立場を難しいものとした
古くから朝鮮と良い関係を保っていた宗氏は、使者として適任だった
しかしこの火種は、日朝の交易に影響をもたらすもので、朝鮮の交易で高い利益を得ていた宗氏を脅かすものであった
ダメージコントロールの為に、宗義調は秀吉のメッセージを改ざんした
書簡は、朝鮮の日本に対する敬いを示すために、ただ単に朝鮮から使者を日本に送る様にというものになっていた
この書簡を宗氏は、配下の剛の者柚谷康広を使者として朝鮮に届けさせる
康広は自らと朝鮮の槍の長さの違いを揶揄して、朝鮮政府に対して見下した態度をとった
これに屈辱を与えられた朝鮮側は、“日本の統一は長くは続かないだろう”と逆に脅しをかけた“しっかりとした規範もなく、どうすれば長期にわたって国を統治できるのか?”
使者の無作法な振る舞いと、到底受け入れることのできない秀吉からの要求は、朝鮮政府からの拒否しか引き出すことができなかった
これに腹を立てた秀吉は、康広を含むすべての使者の殺害を命じた
宗氏自身はそこまでの罰は受けず、対馬を追われ秀吉がより信を置いていた養子の義智が対馬を修めることとなった

その後数年の間、日朝両方からの使者の交換が続いた
朝鮮からの1590年の京都訪問の機会において、朝鮮側は秀吉の軍隊がいかに強力かという情報収集に失敗し、朝鮮は秀吉の軍事力を過小評価するに至る
更に、朝鮮国内ではソウルのどこに主要府を設置するかという、内部での不合意が発生していた
西府の中には日本の脅威に気が付いた者もいたが、日本の襲撃に備えようとする動きは、東府のメンバーによりことごとく反対された
1591年には、秀吉による九州での拠点設置を受けて、日本は朝鮮出兵への準備を重ねた
その拠点では33万5千の兵を擁し、そのうち15万8千が朝鮮へ打って出る計画となっていた
諸国の大名はその規模に合わせて、兵を拠出することが求められた(軍役)
しかし規則で定められた以外の要因、例えばどれほど秀吉に近い存在であるかなども、大名ごとの派兵数に影響を与えた
15万8千の兵の内、8万2200は九州から派遣され57,000が本州から、そして19,600が四国から派遣された
この兵の大半を占めたのは、騎馬の侍ではなく、足軽と呼ばれる歩兵だった
足軽は、刀・槍・弓で武装していた
当時の最新兵器であった軽量の火縄銃も用いられたが、これをどれほど装備していたかは明らかではない
元々の戦術は、ドミノ倒しのようにアジアに攻め込んでいく、というものだった
朝鮮を支配下に入れた後には、朝鮮の兵力を利用して中国に攻め込むというものだ
同様に、北京を抑え込んだのちはそこの兵力を活用して、更にアジア内部に攻め込んでいく

派兵には700の船が用いられたが、これらの船は船員と共に国内での戦いで敗れた大名から取り上げたものだ
船の殆どが商業船を目的に合わせて作り替えたものだった
元々秀吉は多くの戦闘要員を抱えてはいたが、それに加えての地上戦力や海軍力が、この戦いにおいて後々秀吉を苦しめることとなる
朝鮮側には2つの利点があった
優れた造船能力と大砲の技術だ
秀吉が採用したヨーロッパ式の火器の技術への理解不足に加え、政府内部の不正が朝鮮における軍隊のネグレクトに繋がった
軍隊は訓練不足で、敵を迎え撃つには全く準備が足りていなかったが、この戦いの勝敗を決定づける大きな出来事があった
46歳の職業軍人李舜臣が全羅道の軍を任されたことだ
任命を受けてすぐ、李は彼の任地が侵攻経路になることをすぐさま理解する
この重要性に気づいた李は、一年かけて海軍戦略を学び配下の兵の訓練にも気を配り、インフラ整備にも努めた
何度かの遅れはあったものの、5月22日には日本軍は準備を整え、5月23日には小西行長と宗義智に率いられた18,700の兵が釜山に向けて出兵した
兵を乗せた船を守る軍艦が到着していなかったため、この輸送船は全く無防備な状態に置かれていた
水平線からは大型の商業船団にしか見えなかったが、釜山の前線部隊はすぐにこれらが商業船ではないということに気づいた
優れた軍艦を利用し敵を駆逐するることも可能だったが、これを実行するには至らなかった
23日の夜までには400隻ほどの輸送船が釜山港を埋め尽くした
この船団は、一切攻撃を受けることはなかった
日本が中国に侵攻することを認めるようにという最後通告が拒否されたことを受け、兵の上陸が開始された
5月24日早朝4時に、宗義智に率いられた5000の兵が上陸を開始し、小西行長率いる7000の兵がこれに続いた
最終的に、朝鮮側からの攻撃を受けることなく、すべての日本兵が朝鮮に上陸を果たした
2度の攻撃により、釜山の要塞は陥落し、この事実が周辺に拠点を置く軍部の中枢に混乱をもたらした
能力の低い朝鮮海軍の将軍は、自軍の武器の破壊を始めできるだけ早く北部に撤退する道を選んだ
釜山の陥落の後、過剰な自信を持った行長は兵を整えるようにという指示を無視し、26日に朝鮮半島の中央部分を北上し始める
彼の行動の理由は明らかではない、功を焦ったのかはたまた敵の攻撃を恐れたのか
行長の兵は無人の梁山に到達し、その後密陽に向かい28日に大邱に到着した
敵を抑え込まなければならないと気づいた慶尚の知事は、軍を率いて南に下り日本軍と対峙しようとした
しかし、彼はDongnaeが陥落したと行くことを知るや否や、刃を交えることなく撤退した
日本軍の侵攻のニュースは5月25日には全羅道の李舜臣に届いていた
李は、地上戦では日本軍が優勢であったにも関わらず、海上戦では日本を打ち破ることができると自信を持っていた
李は時間稼ぎをしていた
その頃、5月28日には加藤清正に率いられた第2軍が釜山に上陸していた
第2軍には、恐れ知らずの22,800の兵が含まれていた
行長が自分を待たずに進軍していることに気分を害した清正は、彼に追いつこうと進軍速度を速めた
清正は東側のルートをとり、蔚山・広域などを経てソウルを目指し、行長に先んじて首都に到達した

南部では黒田長政に率いられた第3軍が5月29日にアングルポに到着した
この軍は11,000の兵を含み、西部を通って首都を目指した
金海を制覇して、この3軍はそれぞれソウルに向かったが、そこに至るまでに抵抗が全くなかったわけではない
朝鮮軍の将軍Sin Ripは、首都から100キロほど離れた忠州で8,000の抵抗軍を構え、日本軍に対峙しようと計画していた
南部と北部から逃れてきた軍を活用し、日本軍を抑え込もうと考えたのだ
しかしながら、南部と北部からの兵士たちは既に敗れ去っており、Sinは忠州の開けた場所での戦闘を選ぶ
1592年6月6日、Choryong高原から降りてきた日本軍に対し、Sin将軍は高原のすそ野の平野でTangumdaeを横にSouth Han川を後ろにして日本軍を迎え撃つ
これは、中国軍が長年にわたって採用していた戦略であり、勝利は約束されていた
行長の軍が高原から降りてきたその時、清正の軍も東側から現れた
清正は行長が手柄を独り占めしようとしたことに腹を立てており、ここからは自軍がリードをとると主張していた
行長はこの申し出を却下する
清正は忠州で彼のライバルを出し抜くことを決心する
行長は、ライバルに先んじていることを願いながらソウルへの行軍を南から始める
Sin将軍の軍はようやく視野に敵軍を見ることになる
6月6日午後2時、行長は自軍を三手に分け、自分の下には1万の兵を置き、松浦重信を先陣とした
宗義智の下には5,000の兵が置かれ左翼を守った
残りの3,700は有馬・大村・後藤の指揮のもと右翼に配置された
火縄銃部隊が最前列に配置され、足軽部隊がその後ろに続いた
日本軍は、火縄銃を一斉に発射して戦いを開始した
Sin将軍の部隊は、これに全く対抗することができず、即座に壊滅的な被害を被った
寄せ集めの兵士は逃亡を始めたが、Sin将軍の直属の兵は守りを固めた
しかし火縄銃は彼らにさらなる打撃を与え、騎馬部隊は破壊され、接近戦を迎える前に軍として機能しなくなっていた
Sin将軍の8,000の部隊は散り散りになり、逃げた兵士も足軽からの執拗な追跡を受けた
Sin将軍自身も滝に身を投げ、自らの命を絶った

日本軍は、わずかひと月余りの間に100キロ以上の侵攻に成功した
目立った敵は見られず、唯一の抵抗もあっけなく撃破された
一見すると朝鮮王朝は崩壊したように見える
しかし、戦いはまだ始まったばかりだ


海外「現役世代は嫌ってる」「占領期が一番安定していた」日本人は太平洋戦争後のアメリカ軍の占領をどう思っていたのか?海外議論(海外反応)

海外「現役世代は嫌ってる」「占領期が一番安定していた」日本人は太平洋戦争後のアメリカ軍の占領をどう思っていたのか?海外議論(海外反応)

投稿者
日本人は太平洋戦争後のアメリカ軍の占拠をどう思ってるのかな

皆も知ってると思うけど、日本は第2次大戦敗戦後の数年間、アメリカ軍によって占拠されてたよね
この間に起きたアメリカの影響で、日本は大きな変化を遂げたよ
憲法や天皇の象徴化、アメリカ式を基本とした議会制度の在り方とか
普通の日本人や政治家は、この変化にどんなリアクションをとったんだろう?
変化を歓迎したのかな?それとも嫌々従ってたのかな?


海外「今まで知らなかった…」最初は直刀だった?日本の刀の進化の歴史に海外興味津々(海外反応)

海外「今まで知らなかった…」最初は直刀だった?日本の刀の進化の歴史に海外興味津々(海外反応)

投稿者
侍の刀はどう進化したのか



侍は武将・大名の元に使える武官を指して、中世ヨーロッパの騎士と比べられることが多い
侍は両手で扱う片刃で少し反りが入った剣、「刀」を帯同していた
侍という身分が生まれたのに従って、刀もまた生を受けたんだ
戦いの場でも、老いた侍が死を迎える床でも刀は常に侍とともにあり
甲冑をつけている時でも、普段着の着物を着ている時でも、侍は常に刀を所持していた
どこの歴史を調べても、刀ほどその持ち主の身近に常に置かれていた武器はなかったよ
刀は侍の身分と特権の象徴でもあったんだ
侍の刀は多くの研究者から、最も完成された剣だと認識されている
刀はもともと、誰か優れた発明家が発明したものじゃなくて、時を経て段々と完成されてきたものなんだ

最初の刀は、直刀って呼ばれるもので3世紀から10世紀くらいの間使われていた
直刀のデザインや鋳物の技術は、その当時の中国や朝鮮半島で使われていた剣の影響を受けていたらしい
片手で扱う剣で、切り裂いたり刺したりするのに優れていたんだ
両刃のものもあったらしいけど、ほとんどがその後の刀と同じように片刃の剣だった
9世紀に入ると、日本は大きな変革の時を迎えるよ
首都が奈良から京都に移されたし、812年から14年の天然痘の蔓延で、人口の半分が亡くなったって言われてる
天皇の権威が失墜し、地方の武将が力をつけてきた
武将は広大な領地を治め、私兵を抱えるようになったんだ
この私兵が、初期の侍のすがた
この時期、刀も大きな変化を迎える
片手で扱う直刀は、両手で扱う太刀へとその姿を進化させた
これは、今一般に知られている刀よりも刃の部分が長いものだった
鋳物の技術の進化のお陰で、以前は硬くて戦場で簡単に折れてしまうものか、柔らかすぎてすぐに刃こぼれしてしまうものだった剣が、硬い芯を持ち刃に反りを持たせることで、相手の刀の力を吸収し攻撃にも防御にも役立つ刀となったんだ
初期の頃の刀は大きな反りを持っていたんだけど、その後反りの具合は緩やかなものになっていった
太刀から刀への進化そのものも、緩やかなものだったらしい
そんな中で最も顕著な変化は、その鋳造でもデザインでもなくて、刀をどのように携帯するかっていうところに現れた
太刀のように甲冑の腰に水平で反身を上にしてにささげるのでなく、刃を上にして指し落とすようになったんだ
ここで伝えておきたいことは、そもそも刀は戦場で使われる武器の中でも、サブ的な役割を果たすものだった、ってこと
元々侍の戦闘様式は、騎馬戦で、長い槍や薙刀などを使って戦うことが多かった
刀は馬から落ちたり槍が折れたりして、最終的に他に戦う手段がなくなった時の最後の頼みだった
こんな状況の時に、太刀では実際に刃を交わすまでに二手間かかるけど、刀であれば鞘から抜いたらすぐに切りつけることができるよね
戦いに明け暮れた戦国時代を生きる中で、侍はトライアル・アンド・エラーを重ねて、大ぶりな太刀から小回りの利く刀にたどり着き、それは城内の廊下などでの狭い場所でも有効だということも証明された
それでも、太刀と刀は両方とも、何世紀にもわたって実戦で使用されてきた
でも15世紀頃になると、太刀は段々刀に取って代わられるようになったよ
太刀なのか刀なのか見わけがつかないようなものもあるけど、その差はどこに刀工の銘が刻まれているかで判断されるんだ
刀に加えて、侍はもう一本短めの剣も帯同していた
これは、短刀だったり刃に反りが入った脇差だったり
この2本の刀をセットにして、“大小”って呼ばれてた
野太刀や大太刀と呼ばれる大ぶりの太刀を好む侍もいたよ
これらの大太刀は背負って運ばれることが一般的で、騎馬や室内で使われることはなかった
熟練した大太刀使いにかかると、一太刀で武士と馬を諸共切ることができたって言われている、ちょっと眉唾物ではあるけれど。。。。



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