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海外「近親婚…」日本の皇室がどうやって血統主義を守ってきたのか外国人の主張に海外興味津々(海外反応)

海外「近親婚…」日本の皇室がどうやって血統主義を守ってきたのか外国人の主張に海外興味津々(海外反応)

投稿者
どうやって日本の皇室は血統主義を守ってるの?

皆に質問だよ?
昔々に天皇が崩御したら、いったい誰が後を継いだんだろう?
天皇の長男って答えた君
いい線いってるけど、答えはバツさ

それはともかくとして、昔は天皇が崩御しても長男がそのまま天皇の位についたわけじゃない
日本は近代になるまで、後継に関して決まった規則がなかったんだよ
天皇は自由に後継者となる皇太子を任命できたんだ
皇族のだれからでも後継者を選ぶことができたよ
息子でも孫でも、兄弟でも誰でもよかった
決まった規則がないってことは、天皇の死後にものすごい混乱を引きおこしたものさ
天皇の長男が後を継ぐ、って言うちゃんとした規則があったらよかったんだけど。。。
勿論、たまには長男暗殺!みたいなことがなかったわけじゃない
でも日本じゃ、候補者がすごく沢山いたから、権力闘争はそりゃすごかったよ
日本はこの問題に気が付かなかったわけじゃないけど、後継者の規則を決める代わりに、それぞれの時代に色々な方法でこの問題に対処してたんだ

奈良時代には天武天皇の時代で、天武天皇の子孫が代々天皇の位についてたんだ
天武天皇以前の時代には、後継皇太子の候補者の数を減らしたよ
数が少なきゃそれだけ後継者争いも少なくなるからね
どうやってたかって?
血統主義をとったんだ
ってことは、近親婚だよね



義兄弟じゃなくて、血のつながった兄弟のことだよ
連れ子同士には血のつながりがないけど、同じ両親から生まれた子供たちは血がつながってるからね
これから、ダブルロイヤルティーについて説明するよ
兎に角、酔っぱらってないことを確かめてから、これからスクリーンに出てくることをちゃんと覚えてね
ボブのぶ天皇がいて、何人も愛妾がいたとするよね
普通は一人正室がいるもんだけど。。。
この正室が一番重要で、この女性から生まれた男の子が皇太子になる
この子を仮に、ジョンむ、って呼ぼうか
で、ジョンむ、にも正室が必要になるんだけど、これをどうやって選ぶかだよね

ここで、どうやって皇室に影響力を持つかって言う政治的な駆け引きが重要になってくるんだ
暗殺とか!有力な皇族が自分の娘をボブながに側室として差し出したりとか。。。
皆が何を言いたいかはわかってるよ
この時代には女性の地位!とか権利!とかはまだそんなに意識されてなかったんだよ。。。
で、この側室とボブながとの間にできた娘をジョンむの正室に据えるんだ
この二人の間に生まれた男の子が次の天皇、マックスむね、にしとこうか、になるんだ
これがダブルロイヤルティー
半分天皇の血が入った二人が結婚するからね

これは、法律じゃないって言うのは前に説明したよね、でもこれが不文律になってたんだ
こうやって、皇室に外部からの影響が入ることを防いでたんだ
何故って?だってこの側室は次の天皇の子供を宿すことはないんだから
彼女ができることは、良くて皇太子の正室になる女の子を生むことだよ
飛鳥時代には蘇我氏が日本の皇室を仕切ってたよ
この時代には、この方法を踏襲したてた
このやり方は、未来の天皇を蘇我氏が生み出したわけじゃなかったけど、兎に角女の子を皇室に送り込み続けて、影響力を強めていたんだ

高貴な家系にとっては、女性は貴重な存在だったんだね
正室になるってことは、皇族に関して目となり耳となるってことだから
ここで問題になるのは、天皇と正室の間に男の子が生まれなかったらどうするか?
皇太子候補を送り込もうとして、大騒ぎが始まるよ
天武天皇が天皇になったら、この仕組みは放り出されたんだ
天武天皇は大友皇子との間に起こした、壬申の乱を通して皇位を自分のものにしたんだ
天武天皇は、天智天皇の兄弟だったから、昔のしきたりじゃ天皇にはなれなかったからね
大友皇子にしても、このシステムじゃあんまり得はしてなかったんだけど。。。
大友皇子は天智天皇の息子だったけど、母親は正室じゃなかったからね
天武天皇が実権を握ると、藤原氏はこのシステムがあんまり自分たちの利益にならないって考えたんだ
藤原氏は当時勢力を伸ばし始めてたんだけど、勢力の中心に座りたがっていたんだ
皇室保護の風潮って言うのも気に食わなかったし


海外「なぜ日中韓の仲が悪いのか分かった…」日本の大和朝廷を巻き込んだ高句麗戦争の歴史に海外興味津々(海外反応)

海外「なぜ日中韓の仲が悪いのか分かった…」日本の大和朝廷を巻き込んだ高句麗戦争の歴史に海外興味津々(海外反応)

※前回の記事はこちら
海外「面白かった!」日本の大和朝廷を巻き込んだ高句麗戦争の歴史に海外興味津々(海外反応)

投稿者
598年 隋の皇帝は問題を抱えていた 東側の国境を接する隣国が略奪を繰り返していたからである 隣国は小国ながら強気で、隋の属国になることを拒み、平等な交易を求めていた 隋の皇帝は武力を見せつけるチャンスだと考えた
隣国とは高句麗 隋は598年に最初の侵略を行った 少々の損失はあったが、価値を治めることはできた 高句麗の王は隋への朝貢を受け入れ、属国となった



時は流れ、隋の皇帝も変わった そして新たに高句麗との対立が始まる 高句麗の王は力をつけており、そのことが周辺国との不和を生むのではないかと隋の皇帝は恐れていた 先帝と同様、皇帝は高句麗への侵攻を開始 3年間に合計3回の侵略があった 1度目はボロ負け 隋は99%の兵を失って帰国した 2度目も負け 3度目はまあ、勝った…といえるのか 大きな戦いを数度繰り返したところで、高句麗の王が「わかったわかった、もうやめよう、忠誠を誓うよ、約束するって」と言うので、隋の皇帝は兵を引いた だがその後高句麗の王は忠誠を見せるために隋にやってくることはなく、皇帝は怒った 再び侵攻するかに思われたが、最後に笑ったのは高句麗だった 侵攻にはかなりの費用が掛かるため、隋には内乱が多発 その結果隋は没落した 618年内乱を治め、新しい王朝唐が建国

一連の流れでわかることは、高句麗の武力がかなり強かったこと 強大な隋の軍勢に立ち向かえるほどだったほどだ
唐はかつての栄光を取り戻そうと考えていた それはつまり、朝鮮半島北部まで支配することである 隋なら「もういじめっ子をつつくのはやめろよ」というところだろう

朝鮮の各王国は唐に友好的であった 3国ともすぐに唐への朝貢を決めている 日本ものちに朝貢に加わった 唐と日本は新たな友達になり、絆を深めていった 互いに親書をやり取りしていたほどである 聖徳太子が唐に学生を送り文化や行政を学ばせた 聖徳太子の改革は唐をモデルにしていたという

しばらく平和な時代が続き、唐の文化は朝鮮半島や日本にも広まった だがそのうち、朝鮮3国は衝突を起こすようになった 唐はすでに高句麗を信用しておらず、攻撃的だとみなしていた あるとき、高句麗は侵略で死んだ隋の兵の慰霊碑を作った 隋の皇帝はそれを中国に対する侮辱と受け取り、軍を送って慰霊碑を破壊し、兵士の遺骨を持ち帰らせた 高句麗は「ああ、またクマをつついてしまった」と考え、唐の侵略に備えた そしてすぐさま数多くの砦を作り、百済と同盟を結んだ また高句麗と百済は日本へ親書を送り、唐が攻めてきた場合には援軍を送ってほしいと頼んだ 百済は王家のものを日本に人質として送った
誰もがもうすぐ戦争が始まると思っていた その戦争が朝鮮半島を変えてしまうこともわかっていた 643年、唐の皇帝は百済と高句麗に新羅への攻撃をやめよと命令 だが645年、高句麗箱の命令を無視し攻撃した
ちなみに、この645年は日本で蘇我氏が討たれ、大化の改新が始まった年でもある

隋と同様、唐は高句麗がかなり強いことを思い知った 食料が底をつき、冬が近づいたことで唐は撤退せざるを得なかった 650年までに新羅は2つの隣国からの攻撃でぼろぼろになっていた そこで新羅は唐に援助を依頼 唐と新羅の同盟が成立した それを聞いたときに百済、高句麗、日本のリーダーが水を飲んでいたら、きっと全部噴き出したに違いない これで唐が朝鮮半島をすべて支配するつもりであることが分かったからだ 日本は百済と友好関係にあり、負けてほしくはなかった 百済が落ちれば、唐は日本にまで手を伸ばすのではないかという懸念もあった だが朝鮮半島に味方がいない新羅にとって、唐と手を組むことは当然の成り行きであった

655年、唐と新羅は高句麗への攻撃を開始 そのときのことが日本の歴史書に記録されているが、唐は朝鮮半島の政治にをよく理解していた 
日本はその後中国に外交官を送る 首都で唐の皇帝は親書を喜んで受け取ったが、日本の外交官を拘束 開放はしたが首都から出ることを禁じた 軟禁は約1年に及んだ 親書は日本に返還され、これは日本の宮廷に大きな衝撃を与えた なぜ唐は親書に返信してこない? 実はその年の初めに起こったことを日本に知らせたくなかったのだ 唐は、それを知れば日本が百済に援軍を送るとわかっていた その年の初め、唐と新羅は協力して侵略を始めていたのだ その相手は高句麗ではなく百済 首都を侵攻した連合軍は百済の王家を虐殺 百済は独立王国ではなくなっていた
  
その後どの国が勝ったか、ぜひ予想をコメントしてくれ 結果を知ってる人は、シーッ お楽しみを台無しにしないように!


海外「まさに戦国時代!」織田信長を狙撃した伝説の忍者に海外興味津々(海外反応)

海外「まさに戦国時代!」織田信長を狙撃した伝説の忍者に海外興味津々(海外反応)

織田信長を狙撃した杉谷善住坊が海外で話題になっていました

杉谷善住坊
杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう、生年不詳 - 天正元年9月10日(1573年10月5日))は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。



投稿者
信長と侍(パート2)/忍者の神話



将軍の目の前には炎や叫び声などが広がっていました
寝殿に松明をもった敵勢が迫ってきていました
裏切り者がきていたのです
付き人が戦い続けていました
敵の誰かが胸元を切り裂きました
その身を引きずって、メッセージ・ポエムを書きました
その後切腹をしました
足利義輝がいました
13代の足利将軍でした
彼も夜討にあいました

彼以降14代とそれに続き同じように討ち取られています
その弟にあたる足利義昭は逃げて、復讐に備えたのです
身をかくまうように懇願しましたが断られました
義明は若い大名の織田信長に身を寄せることになりました
足利義昭は戦の中で名を馳せていきます
信長はそういったことは気にかけませんでした
信長は日本統一を目指し、義明もそれをサポートすることになります
1568年、足利13代将軍が死んでから3年後のことです
信長は京都に趣き、義明への将軍の称号を求めます
信長は京都にまたがる近江の場所に問題がありました

大名の浅井長政と六角承禎です
浅井長政は義兄であり、攻撃はできません
六角承禎はその時の将軍のサポートを宣言し、信長の通過を許しませんでした
そのため信長は6万の軍勢で落城させ、目的地である京都を目指したのです
その年に病気で将軍は亡くなりました
それから京都で信長は反抗する者たちを討ち取っていきました
その後義明は15代足利将軍となったのです
その後六角承禎は古賀に逃げていき、体勢を整えていました
甲賀と伊賀は六角承禎に応え軍を近江南部に送ります
信長にとっては大きな敵となりました

南部は戦略的に重要な場所でもあったからです
彼は東に抜けて京都に行く必要がありました
甲賀や伊賀の人はゲリラ戦に長けていました
忍者の里が栄えていることでも有名でした
六角承禎の命で狙撃手が山の中で信長が通過するのを待っていました
二発の銃弾が飛んでいきました
当時の銃は1発ずつしか発砲できなかったので簡単ではありませんでした
2本用意していたのです
兜によってその弾は遮られてしまいました
そのため逃げ帰ったのです

結局捕まりましたが処刑の仕方がよくありませんでした
甲賀と伊賀の軍勢との戦では780人を信長軍が倒したとしています
数は元々少なかったので伊賀と甲賀にとっては大打撃でした
その後彼らの名前を聞いたのは3年後にもなりました
それでも六角承禎は信長への対抗を止めませんでした
浅井長政も敵に回り、信長は一向一揆にも向かっていきました
信長からの停戦協定を六角承禎は受け入れました
また対抗するために受け入れたようなものです
3年後また戦を起こしたのです


海外「勉強になった!」自らを神格化した天武天皇に海外興味津々(海外反応)

海外「勉強になった!」自らを神格化した天武天皇に海外興味津々(海外反応)

投稿者
神となった天武天皇/日本の歴史 24

もし力を手に入れたら何をしますか?
天武天皇は神になりました



大友皇子を壬申の乱で打ち負かしました
天武天皇は大和朝廷から認められ、天皇となりました
天武天皇は前政権の人たちを処刑したり、島流しにしました
そうして周りを同胞で固めたのです
皇后とその子どもたちで皇族を固めました
天武天皇は八色の姓(やくさのかばね)のシステムを再構築しました
臣と連は下のくらいに下げました
上位は戦の間にサポートをした部族などが入ったのです

そんなことしたら怒りを買うと思いますよね
でも長きに渡って存在していた臣と連はそのまま残したのです
クラスのボスのようなものです
天武天皇はもっと力をつけるために、神のようになるように決めました
聖徳太子や天智天皇が作った政治を更に改造しました
軍で都を守るようにしたのです
そうすることで外部との戦いに備えたのです

天武天皇はなぜ自分を神格化しようと考えたのでしょうか
宗教では生まれ変わる迷信があります
伊勢神宮に天照大御神がおりその直系だとしました
どの神よりも大きな存在だとしたのです
彼と皇后であった持統が日本書紀と古事記を作りました
そこにはうまいプロパガンダが記載されています
しっかりと天皇家が天照大御神に通じると書いてあるのです
それに壬申の乱でも英雄のような扱いにしています

悪い人とは言いませんが、一方的な見解になっているのです
彼の死後は皇后であった持統が天皇になります
そうして天皇の神格化が続いていったのです
天皇という言葉も彼が使い始めました
王よりも上のくらいになる表現です
天より命を授かり、不死身で世を収める人のような存在となったのです
中国の皇帝も同じようなものでした

日本人は「へぇ、そうなんだ、でも神じゃないよ」というでしょう
それに「天照大御神の子孫でもあるんだ」と話しますよ

天武天皇
天武天皇(てんむてんのう、? - 686年10月1日(朱鳥元年9月9日))は、7世紀後半の日本の第40代天皇(在位:673年3月20日(天武天皇2年2月27日) - 686年10月1日(朱鳥元年9月9日))。




海外「面白かった!」日本の大和朝廷を巻き込んだ高句麗戦争の歴史に海外興味津々(海外反応)

海外「面白かった!」日本の大和朝廷を巻き込んだ高句麗戦争の歴史に海外興味津々(海外反応)

投稿者
韓国のカオス

それは300年前に始まった 
当時朝鮮半島には高句麗、新羅、百済という国があった
高句麗が一番強くほかの2国を属国のように扱いたがった
高句麗は新羅を手を組んで百済を攻撃したので百済は大和朝廷に助けを求めた
自分の誠実さをアピールするため自分の子供を日本に人質として差し出したのだ



大和朝廷は百済を助けるために軍を送って新羅を攻めた
400年代になると百済を新羅は高句麗に対抗するため協定を結んだ
また高句麗と百済の間に戦争が勃発した
百済の王様は今度は人質として自分の母をおくって日本にヘルプを求めた
義理の母ならともかく自分の母を送ってくるとはよいサインだとは思えないと
大和朝廷は警戒した

高句麗のわがままな行動はそのうち半島に大きな影響を与えるだろう
地理的に日本列島は鉱石資源が少ない
なので鉄を輸入するために日本は朝鮮半島といい関係を維持していた
大和の天皇雄略はもう一度百済を助けることにして高句麗を攻めようとしたが病に倒れなくなってしまった
そして朝廷はほかの事にいそがしいまま
時代は500年代に入っていく 
百済と新羅は強くなっていた

新羅は伽耶を侵略しだしたほど力をつけてきた
大和は新羅に対して軍隊を派遣して守ろうとしたが失敗
それ以降軍事的にはかかわらないこととして数十年が維持された
もちろんちょっとした軍事的なちょっかいはぼちぼちあったけど小規模なものばかりだった
この世紀の中頃まで百済にとってはいい時間が過ぎていった

北を見れが高句麗からの常習的な攻撃があり、東からは新羅が伽耶をねらっている
百済はずっと新羅との同盟を維持していはいたが高句麗と新羅が手を組むのを恐れていた
なので大和朝廷をなかよくするべく仏教と文字を日本に持ち込んだ
が、どういうわけか今回は人質は送らなかった

この読みがあたり553年新羅は同盟を破って百済に攻め込んだ
そして大和は百済の国境を守るために軍隊を派遣した
562年新羅は伽耶を飲み込み、百済は日本との一番の友達になった
ところで高句麗がずっと隋にちょっかいを出していたのを覚えてる?
ちょっとやりすぎてやり返されちゃったんだ

倭・高句麗戦争
倭・高句麗戦争[1](わ・こうくりせんそう)は、4世紀終わりから5世紀に掛けて朝鮮半島で行われた倭、百済、伽耶諸国の連合軍と高句麗、新羅連合軍の間での戦争。日本書紀、三国史記、好太王碑などに記録されている。




海外「天皇同士の争い…」古代日本最大の内乱『壬申の乱』に海外興味津々(海外反応)

海外「天皇同士の争い…」古代日本最大の内乱『壬申の乱』に海外興味津々(海外反応)

投稿者
壬申の乱/日本の歴史 23



成功とともにいつもうまく行きません
蘇我一族もそれを何年も前から分かっていました
この動画も例外ではありません
中大兄は蘇我一族で661年に天智天皇になった人です
天智天皇は機知に富んだ人で、成功に興味はありませんでした
664年に弟を後継者に指名しています
日本書紀の作成に携わりました

天智天皇はミスを犯しましたが、後継者選びではありません
気が変わってしまったのです
天智天皇はお気に入りのの大友皇子を跡継ぎにしたいと噂が広がったのです
それを弟は気分よく感じませんでした
日本書紀にはその記述があります
大海人皇子が怒りのあまり床に槍を突き刺したというものです
中臣鎌足は蘇我一族を補佐していました
天智天皇とその弟との仲介役を買って出たと言われています
そのため中臣鎌足が亡くなったときから、物事が悪化していったのです

天智天皇は671年に大友皇子に太政大臣の役職を与えました
新しい役職のようなものです
天智天皇は息子にガミガミいっていました
しかしすぐに病気になったのです
死期が近くなり病床に大海人皇子を呼び、次の天皇になるように話したのです
大海人皇子はそれを拒否します
大友皇子がその座になるべきだとしたのです
その後大海人皇子は山にこもり、仏教に傾倒し身を引いたのです
ここでおかしなことに気づきますよね
天智天皇は大友皇子に跡継ぎになってほしかったはずです
大海人皇子には皇太子になってもらうつもりだったはずです
それではなぜ、大海人皇子はそれを断ったのでしょうか
それに政治の世界から身を引いたのでしょう?

大海人皇子は天皇を任されるのは罠だと話されていたのです
もし、それを受け入れれば忠誠心がないとみなされ殺されると言われていたのです
そのため身を引いたのです
大海人皇子によって日本書紀が監修され、その同胞によって書かれました
そのため大海人皇子の視点や偏見から書かれていると言えます
本当に天智天皇は大海人皇子に天皇の地位を譲ろうとしたのでしょうか?
あの病床での面会はあったのでしょうか?
政治的な争いに負けて身を引いただけかもしれませんよね
何にしろ大海人皇子は山に身を潜めたのです
672年大海人皇子は都が陰謀を企てているニュースを聞きます
そのため隠れる場所がなくなったのです
それが壬申の乱です

天智天皇の兄弟と天智天皇の息子による争いです
都には軍がありませんでした
そのため一族は日本中からかき集めました
大海人皇子は伊勢・伊賀から求めました
大海人皇子は軍を管理するのに長けていました
一方で大友皇子はうまくやっていませんでした
東と北は大海人皇子に防がれたので西と南に助けを求めたのです
主に吉備・筑紫です
しかし拒否されたのです

その方面は朝鮮半島の侵略に目が向いていたのです
そのため防御網を弱めたくなかったのです
そのため残された策は、自害しかありませんでした
大海人皇子は大友皇子の同胞を処刑しそのほかを追放しました
その後天武天皇となったのです
そしてそれまでの天皇よりも力を持ったのです

壬申の乱
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。

天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。




海外「歴史を学ぶ機会が…」「気分が悪い」ある高校で韓国系生徒の抗議で撤去された旭日旗問題に海外議論(海外反応)

海外「歴史を学ぶ機会が…」「気分が悪い」ある高校で韓国系生徒の抗議で撤去された旭日旗問題に海外議論(海外反応)

@Lauren_Southern

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私が卒業した高校には、すごく信頼できる歴史の先生がいるんだけど、残念ながら韓国系の生徒が抗議したから教室から旭日旗を取り外さなきゃならなくなっちゃったの
こんなことしてたら、早晩どこの国の旗も飾れなくなっちゃうわ



海外「おっかない…」天皇の実権が強くなった大改革『大化の改新』に海外興味津々(海外反応)

海外「おっかない…」天皇の実権が強くなった大改革『大化の改新』に海外興味津々(海外反応)

投稿者
大化の改新

蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏の勢いを削いだ後、討伐派は聖徳太子の持つ天皇家による日本の統治という野望を推し進めたんだ
古いボスを放り出したら、自分が新しいボスの座に座りたいよね
新たな天皇になった孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子、自分の右腕、にしたよ
クーデターの首謀者だった中臣鎌足は、新しくできた中央庁の大臣となり、皇室のアドバイザーで皇太子の次の位に収まったんだ
全く時間を無駄にしてないだろう



アイディアに溢れて、次の時代を担う子供たちを育てようとしてる、新卒の学校の先生みたいだよ
こういう人たちに限って、モンスター・キッズに一発でやられちゃうんだけどね。。。
兎に角、彼らは改革を進めて、天皇の実権を強化しようとしたんだ
唐朝を手本にして、孔子のアイディアを自分たちの計画に盛り込んでいったんだ
これが大化の改新って呼ばれる動き

大化って言うのはその時代の呼び名で『大きな変化』って言う意味なんだ
改革は、土地の所有権と土地に対する税金で大きな変更を実行したよ
その他には、恒久的な首都を設定しようと奔走する、個人所有の武器を政府の保管庫に回収する、部族の支配下に置かれていた職業ギルドの『部』のシステムを廃止する、なんてこともやってのけたんだ
これで『部』の人たちは、同じ土地に住み続けて税金は払うけど、もっと自由を手に入れた
後は、全部の土地を公共のものにしたんだ

でも『公共』って言うのは、天皇のモノっていう意味なんだけどね
部族が所有してた土地を献上しろって言うのは、ちょっとタカビーすぎるよ
反対はすごかったと思う

手本を見せるために中大兄皇子は、自分の土地を献上して見せたんだ
「国の未来の為に」、とか言っちゃってね
まぁ、彼は結局天皇になったから、一旦献上した土地も自分のところに戻って来たんだけど。。。。
僕だったら、絶対自分の土地をあきらめるなんてしないよ!
部族は、最終的には土地を献上したんだけど、それによってそんなに不利益を被ったってわけでもなかったよ
土地改革は、部族の力を弱めるのが目的だったんだけど、これは達成できなかったんだ
国を治めるって難しいよねぇ

朝廷は国をいくつかの行政区に分割したんだ、県や郡や村、そんな感じでね
行政の長官がそれぞれのレベルで任命されたよ
この長官の使命のひとつが、税金を徴収すること
中央から任命された長官がいるってことは、部族の長や地主の権限を制限する、って思うだろ?
でも、実際はそうはならなかったんだ
部族の長や地主は、行政長官の下に来るんだけど、実際のところ行政長官に任命されたのは、部族の長や地主だったんだ
結局、権力を持ち続けったってわけさ

大化の改新の推進者たちは、“例外”を認めることで、もっと間抜けなことをやってるよ
有力な部族長は、その地位に応じて、私有地を持つことが許されたんだ
私有地には税金を払う必要がなかったよ
天皇はその他にも、自分の気に入った人に私有地の保有を許可してたんだ
新しい政府の役職には、土地がついてきたんだけど、その人が亡くなると土地は天皇に戻る仕組みだったんだ
この仕組みをとることで、この私有地が代々同じ家族に所有されることを防いだんだね
残念ながら、実際にはそうは問屋が卸さなかったよ

政府の重職は、代々同じ家が継いでいくのが殆どだったんだ
お父さんが亡くなっても息子がその役職を引き継ぐから、私有地はそのままだよね
公共の土地は、いろんな人に分割されてみんなが土地を手に入れた
男性は女性より大きな土地をもらって、奴隷にはそれより小さな土地が与えられたよ
でも、もらった土地を好きにしていいわけじゃなくて、土地の長官がコントロールしてたんだ
皆の土地だけど、管理してたのは行政長官で、その土地から税金を徴収してたんだ
このシステムは、庶民に適用されたんだけど、貴族はもっと大きな土地を所有してたよ
6年ごとに国勢調査を実施して、土地がちゃんと公平に分割されてるかチェックしたんだ
じゃ、税金の話に移ろうか

庶民は、税金をモノで納めたよ、米や反物、その土地で作ったものだね
それ以外にも、毎年何日か天皇家の為に労働を提供する、っていう税もあったよ
2か月もそれをしなきゃいけないこともあったみたいだね
変な所じゃ、一定の役職以上についてる男性は、自分の女の兄弟や娘を皇室に差し出さなきゃいけない、なんてのもあったよ、侍女として仕えるんだ

かわいい子じゃなきゃダメだった、って書いてあったよ
当然、税金払わなくてもいい人たちってのがいて、神社仏閣は税金が免除されてたんだ
政府の役人も税金は免除されてて、おまけにサラリーまでもらってたよ
この改革を見ると、なんか中途半端だな、って思うよね

部族の影響力を減らそうと思ってやったのに、結局例外や特例が多すぎて目標達成の障害にしかならなかったよ
部族長は、結局新しい政府のどのレベルにもいて、この人たちは国の税金以外にも、自分の土地から税金を徴収したし、犯罪逃れなんてことも横行してたよ

それに加えて、結局重職は世襲制になってたしね
有力な家系はますます強力になって、庶民との差は開く一方だった。。。
改革派は、もっと最初の案に固執して例外や特例を作るべきじゃなかった
でも、どうしてこんな風になっちゃったの??
先ず、ひとつには大きな改革を実行するのはすごく大変だ、ってことがあるよね
何十年もかかるし

中大兄皇子や中臣鎌足は、クーデターを通して実権を手に入れただろう
周りの人たちからすれば、ちょっとうさん臭くなるよね
だから、改革派は慎重に事を進める必要があったんだ、じゃなきゃ今度は自分たちがクーデーターで追い落とされちゃうよ
それを避けるために、派手にちゃぶ台返しをするんじゃなくて、ある程度の権力を認めざるを得なかったんだね
でも、大化の改新の改革派をほめてあげなきゃだめだよ
これは、中央政府の下で国を一つにまとめる大きなステップだったよ
そんなに流血も起きなかったしね

その後の改革は、ほとんど流血バトルだったよ


海外「勝ち目がない…」圧倒的生産力…なぜ日本は第二次大戦でアメリカに勝てなかったのか?物量に海外興味津々(海外反応)

海外「勝ち目がない…」圧倒的生産力…なぜ日本は第二次大戦でアメリカに勝てなかったのか?物量に海外興味津々(海外反応)

投稿者
なぜ日本はWW2で勝てないか
戦争を起こしたのは帝国日本海軍だったとはいえ、明らかにアメリカのほうが強い状況では長期的に見ても日本に勝ち目はなかった



 今回は1941年12月から1945年9月まで、日米で製造された戦艦を年代別にリストアップしてみよう それによって戦況も理解しやすいだろう 当時米海軍は2つの海戦を戦っていたことは理解している 太平洋戦線にはいくつもの艦隊が出撃していたし、ヨーロッパ戦線にも出ていた 歴史上、小規模の軍が大規模の軍を倒した例がいくつもあることも承知している

太平洋戦線まではものすごい距離と、膨大な資源が必要だった ベルリンからモスクワまで歩くことは可能だが、真珠湾から東京まで及ぶことは不可能である事からもわかるだろうが、太平洋戦線の軍に物資を輸送することはかなりの労力を要した 自分のクラスの教授もよく言うが、海軍の戦術はとても難しい

今回の動画は戦艦の流れを見るためのものなので視聴速度を変えても楽しめる 1300隻を目安にしているが、多少の誤差はあるかもしれない 艦影はぼくが描いた 結構時間がかかるので大型のものしか描けなかったけど あと日本の潜水艦についてはちょうどいい資料がなかったので、艦影はカットだ

参考資料より 「1944年だけでもアメリカは連合国軍の寄せ集め海軍に匹敵するほどの戦艦を出航させた 仮に真珠湾攻撃ですべての戦艦が沈没していたとしても、それを埋めて余りあるほど工業力があったと言える」
海軍に興味がある人はまた見てね


海外「キリスト教が入らなければ…」昔は女性のほうが強かった?日本の古墳時代の女性観に海外興味津々(海外反応)

海外「キリスト教が入らなければ…」昔は女性のほうが強かった?日本の古墳時代の女性観に海外興味津々(海外反応)

投稿者
古墳時代のデートと結婚、女性について

今の時代に、デートするのって大変だなぁ、って思ってるなら、日本の古墳時代がどんな風だったか想像してみて
現代にはネットの出会い系のサイトもあるし、大都会だったら人もいっぱいいるけど、古墳時代にはそんなの何にもなかったよ
古墳時代の人たちはどうしてたのかな?
結婚はどんな感じだったんだろう?
性に関してはどんな風に考えてたんだろう?
社会で売春って言うのはどんな役割を持ってたんだろう?



古墳時代は今よりもっと母系社会だった、っていう証拠がいっぱいあるよ
後の時代よりももっと女性主義だったんだ
女性の地位は男性と同等だったらしいよ
6世紀まで部族のリーダーが女性だったっていう記録もある
日本の神様の代表、天照大神も女性だったしね
神様の意思を伝える巫女も女性だったね
弥生時代の卑弥呼は巫女だったよ、覚えてる?
8世紀の終わりまでは何人かの女性の天皇もいたんだ
初期のころの日本じゃ、男性と女性の天皇が二人で国を治めてた時代もあるよ
この二人がもし結婚してなかったら、大体は女性のほうが年上だったらしいよ
女性の執政者が通常宗教を管理して、男性が世俗の出来事を治めていたんだ
この形態は至る所で見られたみたい

例えば、神道ではイザナミとイザナギが日本を作っただろう、この二人は兄弟であり夫婦でもあったんだ
アマテラスは太陽の神で、彼女と対のツキヨミは月の神
卑弥呼には兄弟がいて、のちの皇后には男性の親族(夫、兄弟や従兄なんか)がいて、役割の一部を助けてたよ
歴史家の中には、この日本の仕組みは大陸から渡って来た、って言う人もいるよ
朝鮮の新羅王朝でも、この男性と女性が同時に治世をしていたらしい
朝鮮半島でも王様と女王様が一緒に埋葬されたお墓が見つかったんだけど、王冠をかぶって宝石を身に着けていたのは、女王様のほうだったんだ
中国の遼王朝でも、王族の血は男性でも女性でも継いでたみたいだよ
この女系社会の考えは近代にも受け継がれていて、ふさわしい男系の後継者がない場合には、女性が後を継ぐこともあるそうだね

日本でのこの慣習は、明治になってすたれたんだ、女性の天皇がなくなったのはそれからだよ
他にも女系社会の証拠はあるよ
結婚した後でも、女性は両親の家に住み続けるんだ
夫は、たまに訪ねてくるか、苦難を覚悟で女性の両親の家に引っ越してくるかしかないよ
初期のころは、相続は女系を通じて行われてる
皇宮で仕事を探そうと志す男性は、首都に出て行って奥さんの実家から援助をしてもらってた、それで後々奥さんの法廷での事案を取り扱ったりしてたんだ

旦那さんが首都に行ってる間、奥さんは実家に居て、彼女とその親族が子供たちの面倒を見てたよ
時代が進んで、日本がもっと男性中心になってくると、男性は首都で自分の家を持てるように主張するようになって、そこで妻の家族とは離れて妻や子供と一緒に住むようになったんだ
男性がもっと自立してきた、って思うだろ?
でも、実は彼らは妻の実家に首都で済む経費を要求したんだよ。。。
その当時は血統の近い同士の結婚が普通だったんだ
これは、家族関係を強固なものに保とうという意図があったみたい
重婚は珍しいことじゃなくて、沢山奥さんがいる男性とか逆とかがあったんだ
後々には、男性だけがたくさん奥さんを持つことを許せれるようになったよ
金持ちの女性の中には、旦那さん以外に男性と関係を持つ人もいたけど、そんな場合でも旦那さんを複数持つことははしたないって思われてたよ

じゃ、皆が待ち望んでるセックスと売春の話をしよう!
売春は合法で、交易で栄えた場所ではとくに盛んだったんだ
この業界で働いてた女性は、ほとんど自分の借金を返そうとしてか、借金のかたに両親から売られたりしてたんだよ
でも、少数だけど、自分でこの業界に飛び込んだ高級娼婦もいたらしい
売春してても特に不具合をこうむることはなくて、相続できるし、後々普通の生活に戻ったり、他の職業にもついたりしてたらしいよ
当時売春にかかわってた女性は、その後のキャリアのチャンスがかなり豊富にあったみたい
アメリカの議員なんて、いざ職を追われたら、ロビーグループで働くぐらいしか選択がないのにね
当時の性業界にいた女性って、どうやってSTDを防いでたんだろうね?
コンドームはなかったみたいだけど、何の情報もないんだ。。。
貞操帯なんてのもなかったみたいだね

若年や結婚前のセックスも一般的だったみたいだよ
『夜這い』、って言葉があって、夜中に若い男性が若い女性の枕元に忍んでいくんだ
家の人に気づかれることなく、彼女と関係を結ぼうとするんだけど、もし彼女がNoって言ったらそれまでだよ
でも、彼女がOKって言ったら最後まで行っちゃうんだけど、夜が明ける前に部屋を出ることはお約束
もし家族が気がついても、見て見ぬふりをしてたらしいよ
これは、交際の過程では普通のことだって思われてたんだ
ちゃんとした結婚式とかは当時はなくて、同じ男性が何度か夜這いを成功させたら、次は朝ごはんを家族と一緒に食べて、これが正式に結婚したって言う証だったみたい

地方によって慣習はちょっとずつ違ってて、歳とっても夜這いができたり、女性のほうが忍んでいくこともあったらしい
楽しそうって言えば楽しそうだけど、問題もあるよ
女性のNoってどれくらい簡単に言えることだったんだろう?
何回も嫌って言われても、通い続けることもあったの?
農家じゃ季節労働者とかもたくさんいたけど、家に娘がいたら夜這いで大変だったんじゃない?
同性愛とか、自分で処理しちゃうとかも全然OKだったみたい
男性同士の性的な付き合いって、よくあることで、だから女々しいとは思われなかったみたいだよ
中世まで、武士同士の性的付き合いって言うのもよくあったらしいよ
女性同士の性的付き合いも全然問題なかったって

処女かどうかってのも、そんなに問題にならなかったみたい
日本のこの平等性は、中国の影響が入ってきてから変わったんだ、特に孔子の影響が大きいね
孔子は規律や秩序を重んじたから、兎に角堅苦しかった。。。
孔子は純血主義でもっと男系思想だったんだ
男系の思想って言うのは、日本に定着したけど、性的な慎みっていうのは定着しなかったみたい
唯一日本が採用したのが、天皇は男系に限るってところだけだよ
男性の後継ぎがいる限りは、その子がどこからどうやって出てきたか、っていうのは問題にならなかったみたい



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