- Date: Mon 06 12 2021
- Category: 歴史
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海外「天皇陛下の下では最強…!」海外に積極的に進出して戦う日本帝国の歴史に海外興味津々(海外反応)
海外「天皇陛下の下では最強…!」海外に積極的に進出して戦う日本帝国の歴史に海外興味津々(海外反応)
投稿者
日本の天皇がいかに強力だったか?
政治的な不安定さから起きた戦が何年も続き
織田信長が生まれ、天下統一を目指しました
しかし、その夢半ばで暗殺されることになりました
その後、徳川家康が現れ、その地位を確固たるものにしたのです
徳川幕府をひらいたのです
幕府のなかでも天皇は存在していました
しかし操り人形のようなものでした
将軍が全ての頂点に立っていました
宗教などを規制もしていたほどです
長崎だけにおいてオランダと貿易を許可していました
1853年に全てが変わる出来事がありました
ペリーの来航があったのです
開国するか戦争をするかの2択を迫ったのです
当時は経済的などに問題を抱えていたのです
そのため半ば強制的に開国させられ、不利な条約を結ぶことになります
その後、天皇による国家統制が図られるようになります
明治維新がはじまります
西洋の国会のような制度が導入され本格的な政治が始まります
日本は欧米化が進みました
軍事強化も進みました
侍や将軍の時代もこのときに終わったのです
日本帝国というものの始まりを意味します
朝鮮半島は中国からの文化が流入する道となっていました
しかしながら日本は朝鮮半島を日本の一部にしようという方針に変えます
中国や西洋からの影響がなくなるようにしたのです
中国との戦争を始めました
海上と地上でもしっかりと戦えました
日本は勝利をしましたがロシアとの対立も始まります
当時ロシアは鉄道の建設を検討していました
中国への欧米の影響を恐れ、そのまま侵略に進みます
1902年に日本はイギリスと同盟を結びます
1904年にロシアが軍を撤退させないことにしびれを切らし戦争に発展します
ロシアは人口が多く大きな軍を擁していました
驚くことに日本は海をうまく制圧して勝利を収めます
中国における地上戦でもロシアを圧倒しました
アーサー港も手中に収めたのでした
ヨーロッパの戦術で鍛えられた日本兵は強さを示したのです
ロシアはイギリスの近海で漁船を魚雷の船と間違えて攻撃します
バルト海から大西洋まで周り、日本までたどり着きましたが
しっかりと訓練を受けた兵ではなかったのです
そのため海上で大敗します
ロシアは3000人の兵を失った一方で日本は116人で済みました
日露戦争の勝利によって日本は世界的に力を示すようになります
第一次世界大戦中は日本はイギリスやフランス、オランダと同盟を結びます
その結果、ドイツの支配権のある島を手中に収めたのです
戦後日本はベルサイユ条約の調印式に招かれました
戦後の平安を制定することに繋がったのです
その後日本は国内の経済が大きく悪化します
大地震や、政治の介入などによります
日本は1931年、満州の鉄道を手中に収めようとしました
中国は国際的な支援を求めましたが長年にわたりそれは届きませんでした
そしてマルコポーロ橋で戦闘が勃発するのです
そして日本の内閣が中国侵略を宣言し戦争に発展しました
そして1941年アメリカが原油の日本への禁輸をしました
そうすることで資源の不足に陥ったのです
アメリカとは生産的な戦争はできませんでした
しかし、魂は誰にも負けない気持ちを持っていたのです
1941年、日本はパールハーバーを奇襲します
4000人ものアメリカ人が亡くなり、降伏させようと目論みました
そのままヨーロッパの植民地や東南アジアに侵略を進めました
マレーシアや香港、シンガポールなどを制圧していきます
1942年にはそこを日本国としていました
アメリカはそこで領土の奪還のための戦略を練っていました
1944年にはミッドウェーなどで戦闘が始まり
日本は苦境に立たされ、神風を始めます
その後、原爆投下によって降伏にいたります
ロシアなどからの宣戦布告も迫っていましたが、日本はアメリカに降伏したのです
それから新しい憲法を受け入れたのです
日本の帝国軍の栄光は日本人の深くに眠っています
それは忘れてはいけないことです
日本は軍を放棄することに決めたのです
豊かな国の実現のためです
ご覧いただきありがとうございました
投稿者
日本の天皇がいかに強力だったか?
政治的な不安定さから起きた戦が何年も続き
織田信長が生まれ、天下統一を目指しました
しかし、その夢半ばで暗殺されることになりました
その後、徳川家康が現れ、その地位を確固たるものにしたのです
徳川幕府をひらいたのです
幕府のなかでも天皇は存在していました
しかし操り人形のようなものでした
将軍が全ての頂点に立っていました
宗教などを規制もしていたほどです
長崎だけにおいてオランダと貿易を許可していました
1853年に全てが変わる出来事がありました
ペリーの来航があったのです
開国するか戦争をするかの2択を迫ったのです
当時は経済的などに問題を抱えていたのです
そのため半ば強制的に開国させられ、不利な条約を結ぶことになります
その後、天皇による国家統制が図られるようになります
明治維新がはじまります
西洋の国会のような制度が導入され本格的な政治が始まります
日本は欧米化が進みました
軍事強化も進みました
侍や将軍の時代もこのときに終わったのです
日本帝国というものの始まりを意味します
朝鮮半島は中国からの文化が流入する道となっていました
しかしながら日本は朝鮮半島を日本の一部にしようという方針に変えます
中国や西洋からの影響がなくなるようにしたのです
中国との戦争を始めました
海上と地上でもしっかりと戦えました
日本は勝利をしましたがロシアとの対立も始まります
当時ロシアは鉄道の建設を検討していました
中国への欧米の影響を恐れ、そのまま侵略に進みます
1902年に日本はイギリスと同盟を結びます
1904年にロシアが軍を撤退させないことにしびれを切らし戦争に発展します
ロシアは人口が多く大きな軍を擁していました
驚くことに日本は海をうまく制圧して勝利を収めます
中国における地上戦でもロシアを圧倒しました
アーサー港も手中に収めたのでした
ヨーロッパの戦術で鍛えられた日本兵は強さを示したのです
ロシアはイギリスの近海で漁船を魚雷の船と間違えて攻撃します
バルト海から大西洋まで周り、日本までたどり着きましたが
しっかりと訓練を受けた兵ではなかったのです
そのため海上で大敗します
ロシアは3000人の兵を失った一方で日本は116人で済みました
日露戦争の勝利によって日本は世界的に力を示すようになります
第一次世界大戦中は日本はイギリスやフランス、オランダと同盟を結びます
その結果、ドイツの支配権のある島を手中に収めたのです
戦後日本はベルサイユ条約の調印式に招かれました
戦後の平安を制定することに繋がったのです
その後日本は国内の経済が大きく悪化します
大地震や、政治の介入などによります
日本は1931年、満州の鉄道を手中に収めようとしました
中国は国際的な支援を求めましたが長年にわたりそれは届きませんでした
そしてマルコポーロ橋で戦闘が勃発するのです
そして日本の内閣が中国侵略を宣言し戦争に発展しました
そして1941年アメリカが原油の日本への禁輸をしました
そうすることで資源の不足に陥ったのです
アメリカとは生産的な戦争はできませんでした
しかし、魂は誰にも負けない気持ちを持っていたのです
1941年、日本はパールハーバーを奇襲します
4000人ものアメリカ人が亡くなり、降伏させようと目論みました
そのままヨーロッパの植民地や東南アジアに侵略を進めました
マレーシアや香港、シンガポールなどを制圧していきます
1942年にはそこを日本国としていました
アメリカはそこで領土の奪還のための戦略を練っていました
1944年にはミッドウェーなどで戦闘が始まり
日本は苦境に立たされ、神風を始めます
その後、原爆投下によって降伏にいたります
ロシアなどからの宣戦布告も迫っていましたが、日本はアメリカに降伏したのです
それから新しい憲法を受け入れたのです
日本の帝国軍の栄光は日本人の深くに眠っています
それは忘れてはいけないことです
日本は軍を放棄することに決めたのです
豊かな国の実現のためです
ご覧いただきありがとうございました
- Date: Fri 03 12 2021
- Category: 歴史
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韓国人「これが日本と中国の影響を受けた韓国の鎧だよ」(海外反応)
韓国人「これが日本と中国の影響を受けた韓国の鎧だよ」(海外反応)
海外の巨大掲示板redditの韓国板で日中から影響を受けてると言われる韓国の鎧が韓国人の間で話題になっていました
投稿者
左・日本の歴史家による伽耶時代の復元鎧

右・韓国・アンドンの百済文化博物館の百済の復元鎧
韓国は古くから中国からも日本からも文化的な影響を受けてきた事が分かる 百済や伽耶といった古代王国は日本との交易も密で、武器の作り方も影響を受けていた
これらの鎧は日本の歩兵の鎧を進化させたものと考えられている 大して高句麗は中国の影響を強く受けていた 多くのひとがテレビで目にする李氏朝鮮時代の鎧とは全く違う
個人的には、三国時代のデザインが好きだな あまり歴史ドラマにはならないけどね
海外の巨大掲示板redditの韓国板で日中から影響を受けてると言われる韓国の鎧が韓国人の間で話題になっていました
投稿者
左・日本の歴史家による伽耶時代の復元鎧

右・韓国・アンドンの百済文化博物館の百済の復元鎧
韓国は古くから中国からも日本からも文化的な影響を受けてきた事が分かる 百済や伽耶といった古代王国は日本との交易も密で、武器の作り方も影響を受けていた
これらの鎧は日本の歩兵の鎧を進化させたものと考えられている 大して高句麗は中国の影響を強く受けていた 多くのひとがテレビで目にする李氏朝鮮時代の鎧とは全く違う
個人的には、三国時代のデザインが好きだな あまり歴史ドラマにはならないけどね
- Date: Thu 03 06 2021
- Category: 歴史
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海外「よりによって戦勝国が…?」第二次大戦を歴史でほとんど教えないアメリカに海外議論(海外反応)
海外「よりによって戦勝国が…?」第二次大戦を歴史でほとんど教えないアメリカに海外議論(海外反応)
投稿者
アメリカも日本同様、第二次大戦のことを知らない
およそ2年前にアメリカに引っ越した日本人です
第二次世界大戦についてもっと知ることになりました
学校でアメリカが戦争の多くの部分を省き
複雑に見えない戦争として扱っていることに気づきました
彼らは日本が攻撃的であるかのように表現しています
確かにそれは真実とされるものでした
しかし彼らがそうしたようになった大きな理由は無視されていました
日本が中国に進出しようとした理由について私はほとんど誰にも話しません
加えて通商禁止はしばしば無視されます
しかし私はこれがより頻繁に話されることを知っています
アメリカ人とヨーロッパ人は同盟国によって犯された戦争犯罪がさらに無視されるとき
日本がすべての戦争犯罪の元凶のような扱いをします
個人的に私が間違っていることを望みますが
双方が戦争のすべての真実について本当のことを知らないのです
投稿者
アメリカも日本同様、第二次大戦のことを知らない
およそ2年前にアメリカに引っ越した日本人です
第二次世界大戦についてもっと知ることになりました
学校でアメリカが戦争の多くの部分を省き
複雑に見えない戦争として扱っていることに気づきました
彼らは日本が攻撃的であるかのように表現しています
確かにそれは真実とされるものでした
しかし彼らがそうしたようになった大きな理由は無視されていました
日本が中国に進出しようとした理由について私はほとんど誰にも話しません
加えて通商禁止はしばしば無視されます
しかし私はこれがより頻繁に話されることを知っています
アメリカ人とヨーロッパ人は同盟国によって犯された戦争犯罪がさらに無視されるとき
日本がすべての戦争犯罪の元凶のような扱いをします
個人的に私が間違っていることを望みますが
双方が戦争のすべての真実について本当のことを知らないのです
- Date: Sun 30 05 2021
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海外「素晴らしい発展だな…」日本の侍の鎧の歴史や種類に海外興味津々(海外反応)
海外「素晴らしい発展だな…」日本の侍の鎧の歴史や種類に海外興味津々(海外反応)
投稿者
今回も侍についての話もしていきます
今日は侍の鎧です
なぜ侍が盾を使っていなかったのかも分かると思います
それではいきましょう
日本の侍の鎧は韓国や中国のものと似ています
4世紀にはじめてみられた鎧で短甲です
5世紀には短甲よりも戦闘がしやすい鎧ができました
それが挂甲です
これは韓国が発祥のものです
より動きやすくなった鎧です
奈良時代には武士が多くなり
平安時代には確立され、ほかの国の兵とは変わっていきました
馬に乗って弓を射る形が普及したため大鎧が生まれました
皮が使われ、背中の部分にはシルクが編んであります
金属と皮が使われているのが重要な部分です
これによって騎乗でも動きやすく戦いやすくなりました
大鎧はその後、歩兵のために発展していきます
源平合戦のときからさらに進化していきます
モンゴル侵攻のときも大きく変化しました
変化が続いていくことによってほかとは大きな差別化がされたのです
足軽も生まれ多くのデザインができました
腹巻きと腹当てがその例です
ラミナーアーマーとして世界にも存在しますが
より防御力などが高い質を擁していました
大鎧から胴丸に通常の鎧が変わっていきました
鎖鎧も生まれ、1800年代には鎧だけみられるようになりました
1400年には当世具足が使われ、応仁の乱でその名が知られました
それでは典型的な戦国の鎧を紹介していきます
まずは銅です、鎧の中で一番変化のあったものだとされています
次に兜で、様々な種類があります、階級などを示す意味もあります
伊達政宗や本多忠勝などのものが有名です
頬当てはフェイスマスクで悪魔のようなデザインになっています
小手があり手を守るもので鎖が使われることが多いです
それをカバーするのがやぐけです
うわ帯がベルトにあてり、佩盾がもも当てのようなものです
ほかにも鎧の着用方法も決まっています
正しく適切に守るためにしなければなりません
ビデオゲームなどでみられるような侍の鎧とは違い
色々な色のものがあり、個性が表れています
徳川家康はブラウンのものを使っていました
西洋の銃が入ってきてからはマスケットの火に耐えられるように
より重いアイアンとスチールプレートが使われるようになったのです
これは試し具足と言われています
一枚のプレートよりも重ね合わせたものが生まれました
戦国時代が終わって江戸時代に入ると国家統一が行われたため
鎧の進化などが止まりました
武士の鎧は薩摩の戊辰戦争のときに再び多くみられるようになります
それでは侍が盾を使わなかった理由を解説して終わりたいと思います
いろいろな説がありますがまずは侍にとって盾を使うことは不名誉であるという考えです
しかしそれが全てに当てはまるわけではありません
大きな盾を使う場合もみられたからです
実際は騎乗した状態で使えないかったというものもあります
肩のガードが鎧の役割もあったといえます
歩兵にあたる侍は弓とともに使用していました
前に進むためにつかったケースもありました
手盾というものです
あとは銃を防ぐためのものも作られました
江戸時代でも盾はみられました
手を防ぐための小さなものがあったのです
存在はしていましたが、西洋のように常に使われるものではなかっただけです
ではご覧いただきありがとうございました
投稿者
今回も侍についての話もしていきます
今日は侍の鎧です
なぜ侍が盾を使っていなかったのかも分かると思います
それではいきましょう
日本の侍の鎧は韓国や中国のものと似ています
4世紀にはじめてみられた鎧で短甲です
5世紀には短甲よりも戦闘がしやすい鎧ができました
それが挂甲です
これは韓国が発祥のものです
より動きやすくなった鎧です
奈良時代には武士が多くなり
平安時代には確立され、ほかの国の兵とは変わっていきました
馬に乗って弓を射る形が普及したため大鎧が生まれました
皮が使われ、背中の部分にはシルクが編んであります
金属と皮が使われているのが重要な部分です
これによって騎乗でも動きやすく戦いやすくなりました
大鎧はその後、歩兵のために発展していきます
源平合戦のときからさらに進化していきます
モンゴル侵攻のときも大きく変化しました
変化が続いていくことによってほかとは大きな差別化がされたのです
足軽も生まれ多くのデザインができました
腹巻きと腹当てがその例です
ラミナーアーマーとして世界にも存在しますが
より防御力などが高い質を擁していました
大鎧から胴丸に通常の鎧が変わっていきました
鎖鎧も生まれ、1800年代には鎧だけみられるようになりました
1400年には当世具足が使われ、応仁の乱でその名が知られました
それでは典型的な戦国の鎧を紹介していきます
まずは銅です、鎧の中で一番変化のあったものだとされています
次に兜で、様々な種類があります、階級などを示す意味もあります
伊達政宗や本多忠勝などのものが有名です
頬当てはフェイスマスクで悪魔のようなデザインになっています
小手があり手を守るもので鎖が使われることが多いです
それをカバーするのがやぐけです
うわ帯がベルトにあてり、佩盾がもも当てのようなものです
ほかにも鎧の着用方法も決まっています
正しく適切に守るためにしなければなりません
ビデオゲームなどでみられるような侍の鎧とは違い
色々な色のものがあり、個性が表れています
徳川家康はブラウンのものを使っていました
西洋の銃が入ってきてからはマスケットの火に耐えられるように
より重いアイアンとスチールプレートが使われるようになったのです
これは試し具足と言われています
一枚のプレートよりも重ね合わせたものが生まれました
戦国時代が終わって江戸時代に入ると国家統一が行われたため
鎧の進化などが止まりました
武士の鎧は薩摩の戊辰戦争のときに再び多くみられるようになります
それでは侍が盾を使わなかった理由を解説して終わりたいと思います
いろいろな説がありますがまずは侍にとって盾を使うことは不名誉であるという考えです
しかしそれが全てに当てはまるわけではありません
大きな盾を使う場合もみられたからです
実際は騎乗した状態で使えないかったというものもあります
肩のガードが鎧の役割もあったといえます
歩兵にあたる侍は弓とともに使用していました
前に進むためにつかったケースもありました
手盾というものです
あとは銃を防ぐためのものも作られました
江戸時代でも盾はみられました
手を防ぐための小さなものがあったのです
存在はしていましたが、西洋のように常に使われるものではなかっただけです
ではご覧いただきありがとうございました
- Date: Sat 24 04 2021
- Category: 歴史
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海外「知らなかった…」火縄銃に大砲!刀だけではない中世日本の火器の歴史に海外興味津々(海外反応)
海外「知らなかった…」火縄銃に大砲!刀だけではない中世日本の火器の歴史に海外興味津々(海外反応)
投稿者
中世日本の火器の紹介
戦国時代の日本ではユニークな武器が発明されました
太刀 槍 薙刀 弓 などが日本古来の武道と共につかわれました
さらに特徴的なのは欧米人から持ち込まれた火縄銃です
火縄銃が持ち込まれたのは戦国時代(1477〜1615)
火縄銃は最初に持ち込まれた島の名前をとって 種子島といわれました
だんだんと日本全体に広がって行き大量生産されるようになると
鉄砲とか火縄銃と呼ばれるようになってきました
しかしそのポテンシャルを生かしきれずにいましたが 織田の無ながによって長篠の戦い(1575)でついにその能力を発揮しました
主に足軽によって使われていましたが侍にも好まれました
銃と武術を組み合われたものを砲術と呼びます
松本には火縄銃の実演をする松本城鉄砲隊があります
ここから松本城鉄砲隊の こはら また さんに解説してもらいましょう
松本城鉄砲隊は博物館に200ある火縄銃やよろいの実演やメインテナンスなどをしています
1543ねん火縄銃が日本には行ってくると戦争のスタイルがばらっとかわりました
松本城は鉄砲を使うことを前提に作られています
戦闘がはじまると鉄砲隊はおおきな戦力としてつかわれていました
火縄銃は慣れた人でも次に使えるようになるまでに30秒かかるので個人として使うよりも鉄砲隊として使われました
準備した状態で敵が来るのを待ち足を止めることに使われました
また何列かになり後ろの隊が準備して順番にうつこともありました
順番に撃つことで火縄銃があつくなりすぎ使えなくなることも防ぎました
1列目がうつと後ろに下がり2列目3列目が準備してうつというかたちです
短筒はピストルです 短距離しかとばず準備に時間がかかるのであまり効率的ではありませんでしたが ステータスシンボルとしてもたれていました
足軽は大量生産された番筒といわれる鉄砲をもっていました
ざまづつは城の防御のためにつかわれました
大筒は携帯出来る大砲で門や陣形などを崩すためにつかわれました
この武器のメインテナンスにはとても時間がかかり当時の兵士達もこの武器の手入れに時間をかけていたと思われます
火縄銃の部品をみていきましょう (日本語のインタビュー)
日本の銃の歴史や松本城鉄砲隊のように現在もこれを使いまた維持している人達の存在をみんなに知ってもらうことはとても有意義だと思っています
投稿者
中世日本の火器の紹介
戦国時代の日本ではユニークな武器が発明されました
太刀 槍 薙刀 弓 などが日本古来の武道と共につかわれました
さらに特徴的なのは欧米人から持ち込まれた火縄銃です
火縄銃が持ち込まれたのは戦国時代(1477〜1615)
火縄銃は最初に持ち込まれた島の名前をとって 種子島といわれました
だんだんと日本全体に広がって行き大量生産されるようになると
鉄砲とか火縄銃と呼ばれるようになってきました
しかしそのポテンシャルを生かしきれずにいましたが 織田の無ながによって長篠の戦い(1575)でついにその能力を発揮しました
主に足軽によって使われていましたが侍にも好まれました
銃と武術を組み合われたものを砲術と呼びます
松本には火縄銃の実演をする松本城鉄砲隊があります
ここから松本城鉄砲隊の こはら また さんに解説してもらいましょう
松本城鉄砲隊は博物館に200ある火縄銃やよろいの実演やメインテナンスなどをしています
1543ねん火縄銃が日本には行ってくると戦争のスタイルがばらっとかわりました
松本城は鉄砲を使うことを前提に作られています
戦闘がはじまると鉄砲隊はおおきな戦力としてつかわれていました
火縄銃は慣れた人でも次に使えるようになるまでに30秒かかるので個人として使うよりも鉄砲隊として使われました
準備した状態で敵が来るのを待ち足を止めることに使われました
また何列かになり後ろの隊が準備して順番にうつこともありました
順番に撃つことで火縄銃があつくなりすぎ使えなくなることも防ぎました
1列目がうつと後ろに下がり2列目3列目が準備してうつというかたちです
短筒はピストルです 短距離しかとばず準備に時間がかかるのであまり効率的ではありませんでしたが ステータスシンボルとしてもたれていました
足軽は大量生産された番筒といわれる鉄砲をもっていました
ざまづつは城の防御のためにつかわれました
大筒は携帯出来る大砲で門や陣形などを崩すためにつかわれました
この武器のメインテナンスにはとても時間がかかり当時の兵士達もこの武器の手入れに時間をかけていたと思われます
火縄銃の部品をみていきましょう (日本語のインタビュー)
日本の銃の歴史や松本城鉄砲隊のように現在もこれを使いまた維持している人達の存在をみんなに知ってもらうことはとても有意義だと思っています
- Date: Mon 29 03 2021
- Category: 歴史
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海外「日本は不思議な国だ…」男同士で…中世日本の『衆道』に海外興味津々(海外反応)
海外「日本は不思議な国だ…」男同士で…中世日本の『衆道』に海外興味津々(海外反応)
今日も今日とて寝室の話だよ
今日は昔の日本の伝統『衆道』について、まぁ若者好きってやつかな
これは、若い男の子を愛するってこと、兎に角すごく若い男の子
昔の日本の男性間の付き合いは、主に大人の男と少年の間の出来事だった
みんなに人気の侍も衆道で知られたりしてる、これは後で紹介するね
男性間の性交は『男色』って呼ばれてた
真言宗仏教の開祖である空海が、806年に中国からこの男色を持ち込んだって言われてる
空海が中国に行った時偶々男同士が仲良くしちゃってるのを見て、「これはいける!」って思ったのかな?
嘘ぴょん! 男色は中国から渡って来たのでもなければ、仏教の僧侶にも関係ない
Yayoiのアニメも関係ない。。。。
どんな文化でも、男性同士が一緒に寝ちゃうってある程度はあるよね
どうしてか、仏教と男色は強く結びついちゃったんだ
仏教と男色なんて関係ないよ!って思ってるそこのあなた! 準備は良い??
僧侶は寺院で禁欲な生活を送らなくちゃいけない
兎に角欲望を抑え込むことが大好きな仏教の教えは、僧侶に男性とも女性とも肉体関係を持つことを禁じてる
でも、この場合男性相手・女性相手の罪の深さは同等じゃないんだ
どっちがより罪深いと思う??
これ間違ったら、YouTubeの僕のビデオに“いいね”ボタンを押さなきゃだめだよ!
男性相手の方が罪深いって思ったあなた、間違ってるよ、ちゃんと“いいね”ボタン押してね
ヨーロッパ式の考え方だろうね
覚えてる? ここは日本だよ
女性と肉体関係を持つ方が、よっぽど危険なんだ
女犯の罪を犯した僧侶には厳しい罰が下された
斬首刑になっちゃう地方もあったらしいよ。。。。。
でも、男性と肉体関係を持ってもほとんど罰せられることはなかったんだ
だったら、当然罪が軽い方を選ぶよね
寺の中は、肉体的に満たされない僧侶で溢れかえってたってわけ
男性と関係を持つって言うのはルール違反ではあったんだけど、混んでるバスを降りる時に出入り口でもたもたしてる老人を脇によけるみたいなもんだよね
悪いって分かってて、急いでるからやっちゃうみたいな。。。。
男色は自分の満たされない欲求を解消する場だ、って考えられてた
その結果、男色は寺院の中で爆発的なブームになっちゃった
でも寺院の中で起こってたのは、大人の男性同士の出来事じゃなかった
僧侶が興味を持ったのは、寺でお経を学んだりちょっとした仕事をしてる少年たち
僧侶たちは男色家として知られていた
当時の戯れ言で、「僧侶は毎日芳町に赴く」って言うのがある
芳町って言うのは、当時の男性専門の歓楽街の事だよ
僧侶がここに行く時は、変装する必要もなかったんだ
寺院に住んでたわけじゃない山伏も、少年好きでは有名だったんだ
「山の神より美少年」みたいな戯れ言もあったくらいだよ
男色は寺院から戦場の侍の間に広がっていった
侍の家では、息子を教育するために寺院に送ることがよくあったからね
自然と覚えちゃった、ってことかな
侍の間での衆道の「道」っていうのは、哲学・芸術みたいなもの、武士道とかね
肉体関係を芸術の域にまで高めたって言えるのかな??
大人の武士の相手になるのは、若衆と呼ばれる少年たち
基本的に、この子たちのライフサイクルは蝶々みたいなもの
毛虫からさなぎをへて蝶々になるみたいに、少年は若衆を経て大人になるんだ
若衆の年齢層は11歳から20代半ばころまで
彼らは少年だとは考えられなくて、少年の後の世代って考えられてたよ
衆道の世界では、大人の男はメンターだって考えられてた
最悪な会社でインターンシップをやってる見習い、ってところかな
有名な武将もお気に入りの若衆をもってたよ
織田信長と森蘭丸、豊臣秀吉や宮本武蔵だって若衆が傍にちゃんといたんだ
有名どころの武将には、みんなお気に入りの若衆がいたみたい、流行りだったんだね
武田信玄は、2人の若衆と三角関係になって大変だったみたいだよ
信玄はお気に入りの若衆の前で、「もう一人とは絶対に寝ない」って誓って、「誓いを破ったら神罰を受ける」って大きなことを言っちゃった
多分、嘘だったと思うけどね。。。。。
江戸時代は、衆道が最も盛んになった時代
衆道は一般人の間にも広がったんだ
訳アリの話を、オブラードに包んで書き記すことも多くなってた
衆道の理念や、どうやって振る舞うべきか、寝室でのマナーなんて本まで出版された
男性同士の肉体関係に、見た目の良い着物を着せたってわけ
衆道の関係は一方通行で、大人の男が若衆を見初めるのが決まりで、その逆はなかった
まぁ、それがどれくらい守られてたかって言うのは別の話だよね
若衆の方から誘いをかける、ってこともあったみたいだよ
若衆まげっていうヘアスタイルは、当時の作家から大人気だった
若衆は、独特の振袖も着てたんだって
15-17歳までが、若衆が一番花開く時だって考えられてた
この時期を過ぎると、花が散るって言われて、盛りは過ぎたって考えられてたんだ。。。
男性は身だしなみを整え、毎日歯を磨くのを奨励されてた、口臭は絶対ダメ
自尊心の高い若衆は、口臭がある男には絶対になびかないよ
マナー本の著者の中には、若衆におしろいをはたくことを薦めてる人もいた
衆道の関係を持ってるカップルは、色んな方法で愛を確かめてた
近いの文を着物に縫い付けたり、もっと真剣なものになるとタトゥ―を入れたり髪を切ってお互いに渡したりしていた
肌に傷をつけたり、爪をはがしたり。。。。。究極の愛情表現は指を詰めること。。。。
性交のやり方も決まってて、大人が常に上に乗ってて、その逆はあり得なかった
若衆は性交は嫌いだってふりをして、相手を受け入れるのは苦痛だって思われてた
相手が好きだから我慢する、ってこと
だからって言って、若衆が無理やり衆道の関係を強要されてたわけじゃない
相手の誘いを断ることもできたし、逆に自ら進んでベッドを共にすることもできた
最後の一線を超えちゃうことも、快楽のためだけじゃなく、義務感や憐憫の情から起きることもあった
お互いが真剣だったからこそ、心中なんてことが起きることもあった
でもすごく若い若衆は、自分が何やってるのか本当に分かってたのかな?
セックスコーチ、なんて職業もあった
コーチたちはいざという時に備えて、プラムを半分に切ったものを常備してるようアドバイスしてたんだ。。。。。何のためにって?? そりゃぁ。。。。
体位に関する本の内容は、ここではとても紹介できないよ。。。。
絶対言わないからね! でも“濡れてないのに無理やり”っていうのと“あそこを破っちゃう”っていうことくらいは教えてあげようかな
健康問題の提起もされてたけど、これは分かりにくいかも。。。。
痔になりやすいって問題はあったみたいだね
キスをするって言うのは、ものすごくエロチックな事だって考えられてた
普通は性交の前にキスなんてしなかったんだ
クライマックスを迎える時にやっとキスするんだ
衆道の関係を描いた春画が江戸中に溢れてたけど、こういう書物や絵画は男性をターゲットにしたものだった、ってことは覚えておいて
ファンタジーが殆どで、実際にどれくらい衆道の関係にはまり込んでた人がいるかって言うのは、実際には分かってない
ポルノ見ながら、もしかして義姉がベッドの下に隠れてるかも、って想像するのと同じようなものだよね
大名や旗本の中には、大勢の若衆を太刀持ちや下足番として侍らせているのを誇示している者もいた
変わったポケモンカードを持ってるのを自慢してる、みたいなもんだよね
下足番がそのまま草履を抱えて殿様の寝所までやって来る、ってこともよくあったみたい
5代将軍、徳川綱吉は100人以上の若衆と寝所を共にしたんだって
カワイイ若衆を探してくる、って言うのが役目の家来までいたらしい
将軍に使えようと思って頑張って働いてきたのに、巡って来た仕事が美少年探し、ってうかばれないよね。。。。
将軍の寝所の近くに大勢の若衆を囲っておいて、将軍のその日の気分に合わせて若衆を送り込んでたんだ
河童みたいな変な奴の事はずいぶん勉強したつもりだったけど、河童は男性の身体に潜り込んで男色好きにしちゃうこともできたんだってさ
衆道作家の勢いはとどまるところを知らなかった
日本の天皇家には菊の紋章があるだろ、衆道作家はこれを衆道のシンボルに使っちゃったんだ。。。。お尻の穴に見えなくもないかな。。。。。。
ここで重要な疑問は、彼らはゲイだったのかな?それともバイセクシャル???
この質問受けるたびに1ドルもらえるなら、大金持ちになれるかな?
でも実際のところは、こんな質問自体をすることが間違ってるんだよ
たいていの人は、肉体関係って言うと男女間のものの事を考えるよね
異性に惹かれるのがヘテロセクシャルで、同性に惹かれるのがホモセクシャル
まぁ、両方に惹かれるって言うのも楽しそうだけど
このモデルは、江戸時代の肉体関係には当てはまらない
江戸時代の男は女性に惹かれる、うん普通の事だね
で、その男は若衆も好きだ、え、だったらバイセクシャル??
でもこの男は男性が好きだってわけじゃないんだ、若衆は好きだけど年齢を重ねるごとに若衆への興味は薄れていく
なんだか分かりにくいなぁ。。。。
江戸時代には、男性・女性・若衆っていう3つの性別があったんだ
それぞれが社会の中と寝室で果たす役割、が異なってたんだ
若衆を第3の性て呼ぶ歴史家もいるね
大人の男が若衆と寝所を共にするときは、その関係は一方通行
男は女性とも寝所を共にして、一人の女性パートナーだけと一生添い遂げるっていうわけでもなかった
お妾さんを囲ったりしたけど、奥さんとの関係は両方向だった
この場合、男性は他の大人の男性と体の関係を持ったりはしなかったよ
まだまだ分かりにくいね。。。。
これに娼婦とかもからんでくるから、ますます分かりにくいよ
若衆は女性の代替品という見方はされてなかった
若衆の美しさって言うのは、女性の持つ美しさとはまた別のものだった
衆道で重視されたのが、男らしさってところ
女性も、独身の時には男性とも若衆とも関係を持つことができたけど、結婚したら旦那さんとしか関係を持つことは許されなかった
独身の女性が他の女性と体の関係を持つことはタブーだった
若衆は、女性とも他の若衆とも関係を持つことはできたよ
衆道の関係が一人のパートナーに操を立ててたのかどうか、って言うのは専門家の間でも意見が分かれるところだ
まぁ、一人のパートナーに操を立ててても、こっそり浮気するってのはあり得るからねぇ
若衆が他の男性と関係を持ったり、男性が他の若衆に手を出したりすると、浮気だって言われたけど、じゃあ若衆が他の女性に手を出したらどうなるのか?って言うのははっきりしないよ
大人の男が若いうちは若衆に興味を持ってるけど、年齢を重ねるにしたがって女性に興味を持つようになる、ってトレンドもあった
結婚すると、女性にしか興味はなくなるみたい
30歳を過ぎても若衆を追いかけてると、「大丈夫かあいつ??」って言われるようになる
歳とっても若衆追いかけても悪いわけじゃないけど、成長してないって思われちゃう
ホモからバイになって、最後はストレートに落ち着く、ってところかな
現代社会じゃ、セクシャリティは固有のもので簡単に変わったりしない、って考えられてるけど、江戸時代は全然違ったんだね
当時の日本人は性の嗜好がアイデンティティだなんて思ってなかったよ
たとえ女性が他の女性と関係を持ったからと言って、レズビアンだってレッテルを貼られることもなかった
マタマタ現代に当てはめると、若い頃は変態だったのに、歳を取ったらまともなポルノを見るようになった、みたいなところだね
どんなものにも終わりがあるように、江戸中期以降には衆道はすたれていった
明治時代になったら、まったく死に絶えちゃったよ
西洋風の髪型や服装が流行り始めたから、若衆まげなんて結えなくなっちゃった
無理やり髷を切って、西洋風の髪型にするよう強制までしたんだ
明治政府の元では、結婚した男女間の性交のみが認められ、同性同士の性交や法律違反とみなされるようになった
今日も今日とて寝室の話だよ
今日は昔の日本の伝統『衆道』について、まぁ若者好きってやつかな
これは、若い男の子を愛するってこと、兎に角すごく若い男の子
昔の日本の男性間の付き合いは、主に大人の男と少年の間の出来事だった
みんなに人気の侍も衆道で知られたりしてる、これは後で紹介するね
男性間の性交は『男色』って呼ばれてた
真言宗仏教の開祖である空海が、806年に中国からこの男色を持ち込んだって言われてる
空海が中国に行った時偶々男同士が仲良くしちゃってるのを見て、「これはいける!」って思ったのかな?
嘘ぴょん! 男色は中国から渡って来たのでもなければ、仏教の僧侶にも関係ない
Yayoiのアニメも関係ない。。。。
どんな文化でも、男性同士が一緒に寝ちゃうってある程度はあるよね
どうしてか、仏教と男色は強く結びついちゃったんだ
仏教と男色なんて関係ないよ!って思ってるそこのあなた! 準備は良い??
僧侶は寺院で禁欲な生活を送らなくちゃいけない
兎に角欲望を抑え込むことが大好きな仏教の教えは、僧侶に男性とも女性とも肉体関係を持つことを禁じてる
でも、この場合男性相手・女性相手の罪の深さは同等じゃないんだ
どっちがより罪深いと思う??
これ間違ったら、YouTubeの僕のビデオに“いいね”ボタンを押さなきゃだめだよ!
男性相手の方が罪深いって思ったあなた、間違ってるよ、ちゃんと“いいね”ボタン押してね
ヨーロッパ式の考え方だろうね
覚えてる? ここは日本だよ
女性と肉体関係を持つ方が、よっぽど危険なんだ
女犯の罪を犯した僧侶には厳しい罰が下された
斬首刑になっちゃう地方もあったらしいよ。。。。。
でも、男性と肉体関係を持ってもほとんど罰せられることはなかったんだ
だったら、当然罪が軽い方を選ぶよね
寺の中は、肉体的に満たされない僧侶で溢れかえってたってわけ
男性と関係を持つって言うのはルール違反ではあったんだけど、混んでるバスを降りる時に出入り口でもたもたしてる老人を脇によけるみたいなもんだよね
悪いって分かってて、急いでるからやっちゃうみたいな。。。。
男色は自分の満たされない欲求を解消する場だ、って考えられてた
その結果、男色は寺院の中で爆発的なブームになっちゃった
でも寺院の中で起こってたのは、大人の男性同士の出来事じゃなかった
僧侶が興味を持ったのは、寺でお経を学んだりちょっとした仕事をしてる少年たち
僧侶たちは男色家として知られていた
当時の戯れ言で、「僧侶は毎日芳町に赴く」って言うのがある
芳町って言うのは、当時の男性専門の歓楽街の事だよ
僧侶がここに行く時は、変装する必要もなかったんだ
寺院に住んでたわけじゃない山伏も、少年好きでは有名だったんだ
「山の神より美少年」みたいな戯れ言もあったくらいだよ
男色は寺院から戦場の侍の間に広がっていった
侍の家では、息子を教育するために寺院に送ることがよくあったからね
自然と覚えちゃった、ってことかな
侍の間での衆道の「道」っていうのは、哲学・芸術みたいなもの、武士道とかね
肉体関係を芸術の域にまで高めたって言えるのかな??
大人の武士の相手になるのは、若衆と呼ばれる少年たち
基本的に、この子たちのライフサイクルは蝶々みたいなもの
毛虫からさなぎをへて蝶々になるみたいに、少年は若衆を経て大人になるんだ
若衆の年齢層は11歳から20代半ばころまで
彼らは少年だとは考えられなくて、少年の後の世代って考えられてたよ
衆道の世界では、大人の男はメンターだって考えられてた
最悪な会社でインターンシップをやってる見習い、ってところかな
有名な武将もお気に入りの若衆をもってたよ
織田信長と森蘭丸、豊臣秀吉や宮本武蔵だって若衆が傍にちゃんといたんだ
有名どころの武将には、みんなお気に入りの若衆がいたみたい、流行りだったんだね
武田信玄は、2人の若衆と三角関係になって大変だったみたいだよ
信玄はお気に入りの若衆の前で、「もう一人とは絶対に寝ない」って誓って、「誓いを破ったら神罰を受ける」って大きなことを言っちゃった
多分、嘘だったと思うけどね。。。。。
江戸時代は、衆道が最も盛んになった時代
衆道は一般人の間にも広がったんだ
訳アリの話を、オブラードに包んで書き記すことも多くなってた
衆道の理念や、どうやって振る舞うべきか、寝室でのマナーなんて本まで出版された
男性同士の肉体関係に、見た目の良い着物を着せたってわけ
衆道の関係は一方通行で、大人の男が若衆を見初めるのが決まりで、その逆はなかった
まぁ、それがどれくらい守られてたかって言うのは別の話だよね
若衆の方から誘いをかける、ってこともあったみたいだよ
若衆まげっていうヘアスタイルは、当時の作家から大人気だった
若衆は、独特の振袖も着てたんだって
15-17歳までが、若衆が一番花開く時だって考えられてた
この時期を過ぎると、花が散るって言われて、盛りは過ぎたって考えられてたんだ。。。
男性は身だしなみを整え、毎日歯を磨くのを奨励されてた、口臭は絶対ダメ
自尊心の高い若衆は、口臭がある男には絶対になびかないよ
マナー本の著者の中には、若衆におしろいをはたくことを薦めてる人もいた
衆道の関係を持ってるカップルは、色んな方法で愛を確かめてた
近いの文を着物に縫い付けたり、もっと真剣なものになるとタトゥ―を入れたり髪を切ってお互いに渡したりしていた
肌に傷をつけたり、爪をはがしたり。。。。。究極の愛情表現は指を詰めること。。。。
性交のやり方も決まってて、大人が常に上に乗ってて、その逆はあり得なかった
若衆は性交は嫌いだってふりをして、相手を受け入れるのは苦痛だって思われてた
相手が好きだから我慢する、ってこと
だからって言って、若衆が無理やり衆道の関係を強要されてたわけじゃない
相手の誘いを断ることもできたし、逆に自ら進んでベッドを共にすることもできた
最後の一線を超えちゃうことも、快楽のためだけじゃなく、義務感や憐憫の情から起きることもあった
お互いが真剣だったからこそ、心中なんてことが起きることもあった
でもすごく若い若衆は、自分が何やってるのか本当に分かってたのかな?
セックスコーチ、なんて職業もあった
コーチたちはいざという時に備えて、プラムを半分に切ったものを常備してるようアドバイスしてたんだ。。。。。何のためにって?? そりゃぁ。。。。
体位に関する本の内容は、ここではとても紹介できないよ。。。。
絶対言わないからね! でも“濡れてないのに無理やり”っていうのと“あそこを破っちゃう”っていうことくらいは教えてあげようかな
健康問題の提起もされてたけど、これは分かりにくいかも。。。。
痔になりやすいって問題はあったみたいだね
キスをするって言うのは、ものすごくエロチックな事だって考えられてた
普通は性交の前にキスなんてしなかったんだ
クライマックスを迎える時にやっとキスするんだ
衆道の関係を描いた春画が江戸中に溢れてたけど、こういう書物や絵画は男性をターゲットにしたものだった、ってことは覚えておいて
ファンタジーが殆どで、実際にどれくらい衆道の関係にはまり込んでた人がいるかって言うのは、実際には分かってない
ポルノ見ながら、もしかして義姉がベッドの下に隠れてるかも、って想像するのと同じようなものだよね
大名や旗本の中には、大勢の若衆を太刀持ちや下足番として侍らせているのを誇示している者もいた
変わったポケモンカードを持ってるのを自慢してる、みたいなもんだよね
下足番がそのまま草履を抱えて殿様の寝所までやって来る、ってこともよくあったみたい
5代将軍、徳川綱吉は100人以上の若衆と寝所を共にしたんだって
カワイイ若衆を探してくる、って言うのが役目の家来までいたらしい
将軍に使えようと思って頑張って働いてきたのに、巡って来た仕事が美少年探し、ってうかばれないよね。。。。
将軍の寝所の近くに大勢の若衆を囲っておいて、将軍のその日の気分に合わせて若衆を送り込んでたんだ
河童みたいな変な奴の事はずいぶん勉強したつもりだったけど、河童は男性の身体に潜り込んで男色好きにしちゃうこともできたんだってさ
衆道作家の勢いはとどまるところを知らなかった
日本の天皇家には菊の紋章があるだろ、衆道作家はこれを衆道のシンボルに使っちゃったんだ。。。。お尻の穴に見えなくもないかな。。。。。。
ここで重要な疑問は、彼らはゲイだったのかな?それともバイセクシャル???
この質問受けるたびに1ドルもらえるなら、大金持ちになれるかな?
でも実際のところは、こんな質問自体をすることが間違ってるんだよ
たいていの人は、肉体関係って言うと男女間のものの事を考えるよね
異性に惹かれるのがヘテロセクシャルで、同性に惹かれるのがホモセクシャル
まぁ、両方に惹かれるって言うのも楽しそうだけど
このモデルは、江戸時代の肉体関係には当てはまらない
江戸時代の男は女性に惹かれる、うん普通の事だね
で、その男は若衆も好きだ、え、だったらバイセクシャル??
でもこの男は男性が好きだってわけじゃないんだ、若衆は好きだけど年齢を重ねるごとに若衆への興味は薄れていく
なんだか分かりにくいなぁ。。。。
江戸時代には、男性・女性・若衆っていう3つの性別があったんだ
それぞれが社会の中と寝室で果たす役割、が異なってたんだ
若衆を第3の性て呼ぶ歴史家もいるね
大人の男が若衆と寝所を共にするときは、その関係は一方通行
男は女性とも寝所を共にして、一人の女性パートナーだけと一生添い遂げるっていうわけでもなかった
お妾さんを囲ったりしたけど、奥さんとの関係は両方向だった
この場合、男性は他の大人の男性と体の関係を持ったりはしなかったよ
まだまだ分かりにくいね。。。。
これに娼婦とかもからんでくるから、ますます分かりにくいよ
若衆は女性の代替品という見方はされてなかった
若衆の美しさって言うのは、女性の持つ美しさとはまた別のものだった
衆道で重視されたのが、男らしさってところ
女性も、独身の時には男性とも若衆とも関係を持つことができたけど、結婚したら旦那さんとしか関係を持つことは許されなかった
独身の女性が他の女性と体の関係を持つことはタブーだった
若衆は、女性とも他の若衆とも関係を持つことはできたよ
衆道の関係が一人のパートナーに操を立ててたのかどうか、って言うのは専門家の間でも意見が分かれるところだ
まぁ、一人のパートナーに操を立ててても、こっそり浮気するってのはあり得るからねぇ
若衆が他の男性と関係を持ったり、男性が他の若衆に手を出したりすると、浮気だって言われたけど、じゃあ若衆が他の女性に手を出したらどうなるのか?って言うのははっきりしないよ
大人の男が若いうちは若衆に興味を持ってるけど、年齢を重ねるにしたがって女性に興味を持つようになる、ってトレンドもあった
結婚すると、女性にしか興味はなくなるみたい
30歳を過ぎても若衆を追いかけてると、「大丈夫かあいつ??」って言われるようになる
歳とっても若衆追いかけても悪いわけじゃないけど、成長してないって思われちゃう
ホモからバイになって、最後はストレートに落ち着く、ってところかな
現代社会じゃ、セクシャリティは固有のもので簡単に変わったりしない、って考えられてるけど、江戸時代は全然違ったんだね
当時の日本人は性の嗜好がアイデンティティだなんて思ってなかったよ
たとえ女性が他の女性と関係を持ったからと言って、レズビアンだってレッテルを貼られることもなかった
マタマタ現代に当てはめると、若い頃は変態だったのに、歳を取ったらまともなポルノを見るようになった、みたいなところだね
どんなものにも終わりがあるように、江戸中期以降には衆道はすたれていった
明治時代になったら、まったく死に絶えちゃったよ
西洋風の髪型や服装が流行り始めたから、若衆まげなんて結えなくなっちゃった
無理やり髷を切って、西洋風の髪型にするよう強制までしたんだ
明治政府の元では、結婚した男女間の性交のみが認められ、同性同士の性交や法律違反とみなされるようになった
- Date: Tue 23 03 2021
- Category: 歴史
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外国人「何で豊臣秀吉って悪人として描かれてるの?」(海外反応)
外国人「何で豊臣秀吉って悪人として描かれてるの?」(海外反応)
投稿者
どうやったら秀吉が悪者になっちゃうの?
秀吉って1590‐98年の間に、いったい何をやったわけ?
そのせいで、秀吉は悪者、っていうレッテルを貼られちゃってるの?
何をどうしたら、徳川家康が天下の平定を願った正義で秀吉が悪者っていう図式が欠けちゃうんだろう?
だれか教えて! 場合によっちゃ、東軍ファンに鞍替えしようかって思ってるんだ
投稿者
どうやったら秀吉が悪者になっちゃうの?
秀吉って1590‐98年の間に、いったい何をやったわけ?
そのせいで、秀吉は悪者、っていうレッテルを貼られちゃってるの?
何をどうしたら、徳川家康が天下の平定を願った正義で秀吉が悪者っていう図式が欠けちゃうんだろう?
だれか教えて! 場合によっちゃ、東軍ファンに鞍替えしようかって思ってるんだ
- Date: Thu 25 02 2021
- Category: 歴史
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海外「攻撃は最大の防御…」日本人は盾を使わなかった?日本の盾の歴史に海外興味津々(海外反応)
海外「攻撃は最大の防御…」日本人は盾を使わなかった?日本の盾の歴史に海外興味津々(海外反応)
投稿者
日本の盾の歴史 なぜ日本人は盾を使わなかったのか?
古代の日本では盾を使っていました
中国には日本人が手持ちの盾を使っていたという記録があります
200年代から300年代 500年代と盾は頻繁に使われていたようです
だいたい縦長で幅の2〜3倍の高さがあるものでした
皮を漆で固めたものや時には鉄製のものもありました
奈良時代になると 日本人は中央集権の国としての体裁をもち始め軍隊ができてきました
このころになると日本人は手持ちの盾に興味を失い自立する動かせる壁のような盾をつかいはじめました
だいたい目の高さくらいのもので建てておくための棒がついていました
理想としては一枚板ですがだいたい2枚から3枚 時には4枚の板がつなげてありました
鎌倉時代になるとこの盾には家紋が入れられるようになってきました
持ち歩けるようになってきました
鉄砲が使われだすと木の盾では役に立たず濡れた藁を盾の前に並べたりしました
竹を束ねておく事もありました 竹で出来ない事なんてある?
800年代になるとメインの侍は騎乗で弓矢を使っていました モンゴル人のように
日本人の戦いは少人数での戦いが長く続き大きな軍隊としての戦争はあまりありませんでした
刀はあまり役に立たなかったのです
弓矢の次にやくにたったのは薙刀のようなものです
馬に乗っていると刀は短すぎるからですね
刀を使うとしたら馬からおりているという事なのであまりいい状況とはいえませんね
騎乗にいて盾をもつのはむりなので鎧が発達しました
大袖という弓を避けるための部品があったり穴があいた鉄板をつなげて鎧をつくりました
かなり何層にもなっていて動きやすく弓矢が使いやすくなっていました
歩兵も両手で使う武器を使う事が多かったので手持ちの盾はあまり使われませんでした
とはいえ全くなかったわけでもなく大袖くらいの大きさのものが使われる事もあったようです
江戸時代には刀をもる手をまもる小さな盾もあったようですがいずれにしても大ヒットというわけには行かなかったようです
戦国時代になるころには盾よりも鎧が発達していたし両手で使う武器がやはり人気だったので盾はあまり発展しませんでした
投稿者
日本の盾の歴史 なぜ日本人は盾を使わなかったのか?
古代の日本では盾を使っていました
中国には日本人が手持ちの盾を使っていたという記録があります
200年代から300年代 500年代と盾は頻繁に使われていたようです
だいたい縦長で幅の2〜3倍の高さがあるものでした
皮を漆で固めたものや時には鉄製のものもありました
奈良時代になると 日本人は中央集権の国としての体裁をもち始め軍隊ができてきました
このころになると日本人は手持ちの盾に興味を失い自立する動かせる壁のような盾をつかいはじめました
だいたい目の高さくらいのもので建てておくための棒がついていました
理想としては一枚板ですがだいたい2枚から3枚 時には4枚の板がつなげてありました
鎌倉時代になるとこの盾には家紋が入れられるようになってきました
持ち歩けるようになってきました
鉄砲が使われだすと木の盾では役に立たず濡れた藁を盾の前に並べたりしました
竹を束ねておく事もありました 竹で出来ない事なんてある?
800年代になるとメインの侍は騎乗で弓矢を使っていました モンゴル人のように
日本人の戦いは少人数での戦いが長く続き大きな軍隊としての戦争はあまりありませんでした
刀はあまり役に立たなかったのです
弓矢の次にやくにたったのは薙刀のようなものです
馬に乗っていると刀は短すぎるからですね
刀を使うとしたら馬からおりているという事なのであまりいい状況とはいえませんね
騎乗にいて盾をもつのはむりなので鎧が発達しました
大袖という弓を避けるための部品があったり穴があいた鉄板をつなげて鎧をつくりました
かなり何層にもなっていて動きやすく弓矢が使いやすくなっていました
歩兵も両手で使う武器を使う事が多かったので手持ちの盾はあまり使われませんでした
とはいえ全くなかったわけでもなく大袖くらいの大きさのものが使われる事もあったようです
江戸時代には刀をもる手をまもる小さな盾もあったようですがいずれにしても大ヒットというわけには行かなかったようです
戦国時代になるころには盾よりも鎧が発達していたし両手で使う武器がやはり人気だったので盾はあまり発展しませんでした
- Date: Sun 21 02 2021
- Category: 歴史
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海外「日本が軍事的専制政治を世界初で始めたのか…」鎌倉時代から始まった!日本の武士の誕生の歴史に海外興味津々(海外反応)
海外「日本が軍事的専制政治を世界初で始めたのか…」鎌倉時代から始まった!日本の武士の誕生の歴史に海外興味津々(海外反応)
投稿者
最初のサムライ政府は機能したのか (鎌倉時代)
日本の最初の軍事政権は1185年に出来ました 内乱の跡でした
戦いに勝ったのは源頼朝でした
サムライをつかって鎌倉に幕府を作り鎌倉時代を始めました
京都にある貴族たちはそのまま維持されていたので政府が2つある状態が続きました
頼朝はなぜ朝廷を残したのでしょうか
理由の一つは血統です
どの家系に生まれるかによって人生が決まっていたのです
幕府の支配は主に西に朝廷の支配は主に東に置かれていました
頼朝に力はありましたが実際の身分としてはただの将軍でした
つぎに将軍になったのは二人の息子でしたが彼らは幕府のエリートと力をつけて来た北条によって常に監視されていました
そもそも将軍という地位自体にはそれほど意味はなかったのですが頼朝の死後北条が
この地位を不動のものとし鎌倉幕府を支配しました
北条は血統が良くなかったので血統が良い子供を将軍職に据えて鎌倉幕府を支配しました
子供が大きくなり意思を持ち出すと役に立たないので別の子供に取り替えて行きました
主従関係が成立しており家臣が忠実でなければ主人は何かしらの罰を与えることもできましたし反対に主人に理不尽なあつかわれ方をしていると思えば家臣が去ることもできました
ある種対等な関係だったと言えるでしょう
将軍は3つの部門の長だと考えられます
一番大事なのは政所で政府が政策を周知したりそういう政府的なことをする部署です
2つ目は侍所といい軍事的 警察的な役割を担うところです
問注所は裁判所であり様々な争いを解決するところでした
北条はこの3つの期間の上に北条衆という部門を作りました
3つの分権が成立しているようですが割と曖昧であったようです
鎌倉幕府は土地を管理するのに守護と地頭というシステムを採用していました
守護は軍事的な役割を果たしており当時朝廷からも同じ役職があったのが混乱するところでした
地頭は土地を管理し年貢を集めました
ただ土地の持ち主は地頭ではなく地頭はその土地を管理しているのですがだれがどんな権利を持っているのかははっきりしていませんでした
地頭は理不尽なルールを作ってそれにかんして罰金を科したりいろいろな問題を引き起こすことになりました
投稿者
最初のサムライ政府は機能したのか (鎌倉時代)
日本の最初の軍事政権は1185年に出来ました 内乱の跡でした
戦いに勝ったのは源頼朝でした
サムライをつかって鎌倉に幕府を作り鎌倉時代を始めました
京都にある貴族たちはそのまま維持されていたので政府が2つある状態が続きました
頼朝はなぜ朝廷を残したのでしょうか
理由の一つは血統です
どの家系に生まれるかによって人生が決まっていたのです
幕府の支配は主に西に朝廷の支配は主に東に置かれていました
頼朝に力はありましたが実際の身分としてはただの将軍でした
つぎに将軍になったのは二人の息子でしたが彼らは幕府のエリートと力をつけて来た北条によって常に監視されていました
そもそも将軍という地位自体にはそれほど意味はなかったのですが頼朝の死後北条が
この地位を不動のものとし鎌倉幕府を支配しました
北条は血統が良くなかったので血統が良い子供を将軍職に据えて鎌倉幕府を支配しました
子供が大きくなり意思を持ち出すと役に立たないので別の子供に取り替えて行きました
主従関係が成立しており家臣が忠実でなければ主人は何かしらの罰を与えることもできましたし反対に主人に理不尽なあつかわれ方をしていると思えば家臣が去ることもできました
ある種対等な関係だったと言えるでしょう
将軍は3つの部門の長だと考えられます
一番大事なのは政所で政府が政策を周知したりそういう政府的なことをする部署です
2つ目は侍所といい軍事的 警察的な役割を担うところです
問注所は裁判所であり様々な争いを解決するところでした
北条はこの3つの期間の上に北条衆という部門を作りました
3つの分権が成立しているようですが割と曖昧であったようです
鎌倉幕府は土地を管理するのに守護と地頭というシステムを採用していました
守護は軍事的な役割を果たしており当時朝廷からも同じ役職があったのが混乱するところでした
地頭は土地を管理し年貢を集めました
ただ土地の持ち主は地頭ではなく地頭はその土地を管理しているのですがだれがどんな権利を持っているのかははっきりしていませんでした
地頭は理不尽なルールを作ってそれにかんして罰金を科したりいろいろな問題を引き起こすことになりました
- Date: Tue 02 02 2021
- Category: 歴史
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