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海外「なんて美しい勇姿!」当時世界一の船!日本の戦艦大和に海外ファン羨望(海外反応)

海外「なんて美しい勇姿!」当時世界一の船!日本の戦艦大和に海外ファン羨望(海外反応)

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戦艦大和は世界一大きな戦艦であり日本海軍で一番有名な船です 悲しい事に227機の米軍機と戦って負けてしまいました 巨大な日本の戦艦が負けた事によって日本の希望が砕かれたのでした



※日本語字幕になっていない場合は設定→字幕→日本語に
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秘密裏に作られ膨大な費用を欠けて戦艦の歴史に残る最大の船になりました
敵を恐怖に陥るために建造され現代の貨幣価値で8兆ドルもかかりました 海軍史のターニングポイントとされた戦いとされています 戦闘機を使った海の戦いには非常に強かったのですが戦いのための装備が良くなかったため攻撃する事が出来なかったのです 大和ほど海軍ファンの興味をそそるものはありません 


海外「実在していたとは…」日本の戦国武将『伊達政宗』の生涯に海外興味津々(海外反応)

海外「実在していたとは…」日本の戦国武将『伊達政宗』の生涯に海外興味津々(海外反応)

投稿者
織田信長の死後2つの大きな戦いが発生した
最初の戦いが、徳川・上杉・北条・真田による関東の領土をめぐるものだった
2つ目は、更に大きな意味を持つ、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いだ
この戦いの結果、秀吉が織田の跡目を継承することになった



ここで中部地方で繰り広げられていた勢力争いから、北日本に目を転じてみよう
伊達家が歴史舞台に現れたんだ
戦国時代 - 伊達政宗と東北地方での戦い
これまでこのシリーズでは、東北地方の事を取り上げていないのは皆に知られてる
その理由の一つが、東北地方での衝突は中部・関東にはそれほど影響を与えていなかった事
戦国時代の気風は東北にも大きく広がっていたが、戦国時代のメジャーイベントに影響を与えるようなものではなかった
でもこれは、東北地方で生まれた一人の武将によって変えられようとしている
彼の名前は日本中に知られることになる
僕が東北地方に触れなかったもう一つの理由は、東北地方は大混乱だったからだ
東北地方には様々な勢力があった、南部・津軽・最上・芦名・相馬、そして伊達
これが東北地方を席巻していた大きな勢力の一部だ
しかし歴史は、これらの内の一つが歴史に名を遺すに値する者だとした、それが伊達家

伊達家の始まりは12世紀にさかのぼる、藤原家に連なるものだと言われている
伊達家は何代にもわたって陸奥の大部分を支配下に置いてきた
戦国時代の始めまでには、東北地方に多大な影響力を持つに至っていたが、他の東北地方の武将たちに比べて特に優れているというわけではなかった
戦国時代の性格上、伊達が近隣の争いに巻き込まれることは良く起った
ある時には、6年にも及ぶかなり危険な内戦(天文の乱)に関わったこともある
1566年、伊達家の当主はまだ若い伊達輝宗、意志の強い武将で、天文の乱に自身の父、稙宗に対して勝利をおさめたことで知られる伊達晴宗を父に持つ
1566年秋、輝宗とその正室で最上から嫁いだ義姫は息子を得る、その子の名前は梵天丸
この子が後に政宗の名を持つことになる
かつて伊達家に栄光をもたらした先祖から名前を得たのだ
しかし政宗の子供時代は順調なものではなかった
幼児の頃かかった天然痘のせいで右目が腫れあがってしまい、小さなころからあまり自信のない子供だった
彼の気鬱に関しては、数々のエピソードが残っている
母の義姫も彼の振る舞いには気を病み、将来家を継ぐにはふさわしくないのではないかと語ることがあったと言われている
政宗はネグレクトのような状態に置かれた
普通であれば、ここで彼は歴史から忘れ去られていたことだろう

しかし、彼に多大の影響を与えた2人の人物がいた
最初が彼の乳母、片倉喜多、実の母親が与えなかった愛情を示し、軍記物語などから学ぶことを奨励し、政宗の中に武将の心と素質を植え付けたのだ
しかし彼女一人の尽力だけでは、彼の大成は叶わなかっただろう
彼に多大な影響を与えたもう一人が、喜多の異兄弟、片倉小十郎のちの景綱
政宗より少し年上だったが、小十郎は常に政宗と行動を共にし忠実な友であり続けた
この小十郎こそが自らの刃物で政宗の膿んだ右目を取り出し、彼の長年の気鬱の元を取り除いたのだ
小十郎と乳母喜多のお陰で、政宗は長年の劣等感を克服し、伊達家を継ぐにふさわしい素質を身に着けたのだ

1581年、齢14歳で政宗は父親に従って、相馬家を相手にした初の戦に繰り出した
しかし、この戦いで政宗は危うく殺されそうになる
父親から後継者だと認めてもらうには、まだまだ技量を磨かねばならなかった
3年後の1584年、彼は父親にその実力を見せつける機会を得た
政宗は、伊達家を継いでからそれほど長く安定した権力の座についていたわけではない
傘下の武将大内定綱が、敵である蘆名家側に寝返ったのだ
これに激怒した政宗は、自身の別の側面を見せつけた
これが彼の“独眼竜”という名の由来となった
政宗は蘆名と大内に対して戦いを宣言し、定綱の裏切りへの復讐を図る
当初の攻撃は、蘆名の徹底抗戦により難航したが、政宗はそれに気圧されることなく攻撃を続けた
数か月後、ようやく定綱の本拠地を打ち破ることに成功した
政宗は城を占拠し、城に残されていた800人を老若男女問わず虐殺した
定綱は後に小浜城に逃れたが、自らの城での虐殺の知らせを受けると、小浜城に火を放ち蘆名家の領土の奥深くへと身を隠した

政宗の激情型の性格は、戦時に適したものであった
しかし、対外外交政策には問題があることが早晩明らかになる
畠山家の子孫である二本松は、代々伊達家とはライバル関係にあった
この関係を改善しようと、二本松義継は何度も政宗に働きかけていたが、政宗はその一切を拒否していた
とうとう1585年、二本松義継は政宗の父輝宗に仲介を依頼する
当初、義継と輝宗の話し合いは上手くいっていたが、途中で暗雲が立ち込め輝宗は義継から人質に取られてしまう
義継としては、輝宗を懐柔することはできるかもしれないと考えたが、政宗が和平に応じる可能性は全くないと判断したのであろう
輝宗を人質とすることで、和平を達成しようと目論んだのだ
この知らせを聞いて、政宗は少数の武士を従えて父を救出する為に城を離れた
阿武隈川で義継の軍勢に対峙した政宗は、絶体絶命の局面に立たされる
政宗は、銃弾が誤って輝宗を殺してしまうかもしれないと恐れた
しかし輝宗は自らの命に頓着せず、銃を発するようにと叫ぶ、これは武将の指示だ
政宗はこの短い戦いに勝利をおさめることはできたが、結果として父を失った
一方義継は、何が起きたのかよく分かっていなかった
義継自身がこの戦いで命を落としたという説もあるが、彼は生き延びたという説もある
しかし、伊達と二本松の戦いは本格的なものへと発展した
その頃には政宗を頭に抱く伊達家は、安定を欠く東北地方で危険な存在だと捉えられていた
相馬や蘆名・佐竹は二本松の側についた
政宗の軍勢は数の上では劣勢だった
1586年、人取橋の戦いで政宗は大勢の敵軍に対峙すると、彼は手早く防御態勢を確立した
7千の伊達の軍勢が3万の敵軍に向かったのだ
伊達の軍勢は一つ一つ敵軍の前に倒されていき、本拠とした本宮まで後退を余儀なくされた
政宗や側近たちは、そこでの最後を覚悟する
しかし運命のいたずらが、政宗を救うことになる
自らがこの戦いに関わっている間に常陸の国に里見が攻め込んできた為、佐竹の軍勢が撤収を余儀なくされたのだ
軍勢の大半を失ったことで、相馬や蘆名・二本松は自陣は戦いを続けるには十分な戦力を備えていないと判断し、戦いを辞めることにしたのだ
政宗は命をつないだ
この戦いから、政宗は多くを学んだことだろう
こののち、政宗はもっと戦略的に物事を考えるようになる
年を重ねるごとに、彼の名前と戦果は日本中に知られるようになった

今日のビデオでカバーしたことは
東北地方は群雄割拠の状態で、日本の他の地方とそれほど違わなかった
しかし、この状況から頭一つ抜け出したのが伊達政宗だ
子供の頃は色々不幸だったが、成長するにしたがって自信を持ち、鉄拳を用いて伊達家を治めるようになった
伊達家を継いで一年目に大規模な戦いに参戦しが、彼の激情型の人格が災いして敗戦に直面したりもした
二本松を相手にした戦いでは多勢に無勢の状況を強いられたが、運を味方につけて切り抜け、その後彼の名は日本全国にとどろくことになる


海外「こんあにあるなんて知らなかった…」長巻に小太刀!日本の刀の種類に海外興味津々(海外反応)

海外「こんあにあるなんて知らなかった…」長巻に小太刀!日本の刀の種類に海外興味津々(海外反応)

投稿者
日本刀の種類について(歴史とどのようにつかわれたか)



直刀
 カーブがない刀で諸刃と片刃がありますが一般に片刃のものをいいます 両刃のものは剣か剣とよばれてるようです どちらも2フィート(60cm)程度です 腰につけます 侍が台頭するまえから使われていました 剣作りの技術は中国から伝えられ一番有名なものは「草薙の剣」で皇室の三種の神器になっています 500年には剣は作られなくなり直刀は900年終わりごろにはつくられなくなりました

蕨手刀
 300年頃から見られるようになりました これは最初の曲線がある刀です
これも1本で作られていて2フィートよりも短い事が多い このかたなは北方の蝦夷が作っていた刀です 最初のものはまっすぐで持ち手のみにカーブがついていましたがだんだんとそれが刃のほうにもカーブがつくようになりそして長く細くなっていきました
これが太刀に発達していったという歴史家がいます 確かにとても似ています
しかし太刀と長い蕨手刀は違い手法で作られています

太刀
大きな刀という意味の太刀は900年頃から見られるようになりました 刃全体がカーブしていて刃と持ち手が別れています 刃の部分は30インチ(75cm)くらいです 太刀は刃をしにして腰にさげられていました 太刀にひもを通す穴がつけられているものもありましたが太刀を吊るすためのアクセサリーもありました 
太刀が反っているのは刀はつくよりも引く事が多くその方がつかいやすかったからと言われていますがそれは間違いで刀を作る過程で刃を強くしなやかにするために曲がっていったと考えられます

小太刀
小太刀は小さな太刀っていみでちょっとおかしいけどね だいたい2フィートよりも短い

打刀
1100年頃でてきた刀で65センチほど 短いので刃を上にして持ち歩く事ができ安かったので最初は歩兵が持っていたのですがこの方が便利なのでだんだんと侍もこちらを好むようになりました 曲がっていて刃を上にしておける事で刀を抜いてそのまま使う事が出来るようになりました 

刀 
平安時代では刀の形はすべて同じで長さによって名前が変わっていた 長さの単位として使われたのは尺ですがこれは地域や時代によって長さが違ったのでとてもわかりにくかった
刀は反っている片刃のものはすべて刀ですが現代では彼方と言えば2〜3尺のものを表します
刀は実際の戦場ではあまり使われていませんでした 騎乗してつかうには短すぎたので弓矢かポールアーム的なものを使う事が多く刀は最後の手段でした
大太刀/野太刀
すごく大きな刀って意味です 鎌倉時代に人気があり刃の長さは3尺 これは騎乗で使うものでした 長かったので背中に背負う形で持ち歩きました すぐにあまり使われなくなったのですが見た目に格好がいいので儀式に使われる事がありました

長巻き
持ち手が長い刀をいいます 刀の場合刃と柄は別々なので大太刀の柄を変えて長巻きに 更に変えて薙刀にする事もできました 

脇差
脇差しの刀の略で脇差しは1〜2尺の刀です 脇差はだいたい刀とセットになっていました 江戸時代になるとこの刀のセットが侍のシンボルになっていきました 刀を持ち歩けるのは侍だけでしたが脇差しはだれでももつ事ができました 江戸時代には平和な時代だったので刀を使うような戦いはあまりなくて脇差しが短く使いやすいので決闘やケンカで使われていました

短刀
短い刀という意味ですが結局はナイフです 1尺よりも短いものは短刀です 武士が刀を使っていた頃には短刀がセットになっていました 女性はこの短刀を自衛のために持っていた事がしられています 


海外「代償が…」なぜ日本は終戦後に天皇制を維持できたのか?その理由に海外興味津々(海外反応)

海外「代償が…」なぜ日本は終戦後に天皇制を維持できたのか?その理由に海外興味津々(海外反応)

投稿者
太平洋戦争に敗れた日本が天皇制を維持できた理由

皆も知ってると思うけど、第2次大戦初期に枢軸国を束ねてたリーダーたちは終戦の頃にはその地位を追われてたよね
この唯一の例外が、日本の天皇裕仁
真珠湾奇襲に素晴らしいアイディアだってGOサインを出したこの天皇が、戦後もその生涯を閉じるまで天皇としての地位を維持してたんだ
一体どうして彼は地位をはく奪されたりしなかったんだろう?



一番わかりやすい理由は、戦後の日本を管理しやすくするため
他の枢軸国のリーダーたちとは違って、天皇はただのトップってわけじゃなかった
裕仁天皇は国民からあがめられてたってだけじゃなくて、同盟国側は彼を排除しようとする試みは大きな抵抗にあうって分かってたんだ
これに唯一何の注意も払ってなかったのがスターリン
日本が無条件降伏を宣言した後にも、彼は日本に対して戦力を拡大し続けた
この無条件降伏に含まれてたのが、天皇の地位をはく奪しないって言う事
当初アメリカ側はこの条件に賛成しなかった
だって、無条件降伏だからね
トルーマンは、日本に対して天皇制を維持することは認めない、とははっきり言わなかったんだ、ここが彼のずるがしこいところだ
日本国民が望む政府を作る、って言った
天皇が国民に人気がある、って言う事実を見て日本政府は、天皇はそのままだろうって思ってたんだ
でも、実際はそうじゃなかった。。。。
天皇が無条件降伏を受け入れた時、天皇の地位は確固たるものではなかった
アメリカでは、天皇を戦争犯罪者として裁判にかけるべきだ、っていう風潮が強かった
でも、アメリカのリーダーたちにとって、事はそれほど単純じゃなかったんだ
彼らには日本に進駐するに際して、色んなミッションがあった
まず最初は、できるだけ非暴力的に進駐を行う事
天皇を生かしておくことで、これはよりやりやすくなるだろうって考えた
次にアメリカが懸念してたのが、日本での共産主義の台頭
天皇制を継続することで、共産主義の台頭を抑え込めるだろうって考えたんだ
日本が占領されることになれば、ソビエトがやってくるのは火を見るよりも明らか
そうなれば、日本が東西ドイツみたいに分断される可能性もある
これは何としても避けたかった
第3が、天皇がいた方がその後の日本の占領もリフォームもよりやりやすいって事
法律の変更にしても、アメリカが押し付けたって思われるより、天皇の署名が入ってる方が受け入れられやすいからね
と言いながら、外国勢力だけが天皇制の廃止の圧力をかけてたわけでもないんだ
日本政府の中にも、もっとリベラルな考えを持っていた人もいた
日本には全く新しい制度と、新たな天皇が必要だって考えた
彼らは裕仁天皇の皇太子を新たな天皇として迎えようと提案していた
でも、これにはアメリカ側が強固に反対した
天皇を排除したって思われることは必至で、新たな天皇が傀儡だって思われるだろうから
日本を、長期的には反共産主義への同盟国に仕立て上げたかったアメリカとしては、これは上手くない
日本に武器を放棄させるときに一番難儀だったのが、じゃどうやって国を防衛するかってところ

最終的に裕仁天皇が裁判にかけられることはなく、天皇制は維持された
彼は天寿を全うするまで、天皇であり続けたんだ
彼が立場を失わなかった理由はとってもシンプルだったんだね
アメリカの指導者と裕仁天皇の間には、愛も友情もなかったけど、アメリカが冷戦に勝利するためには、裕仁天皇が在位してることが必要だったんだ


海外「恐ろしい…」日本の進軍を止めるために中国国民党が黄河を決壊させた『黄河決壊事件』に海外議論(海外反応)

海外「恐ろしい…」日本の進軍を止めるために中国国民党が黄河を決壊させた『黄河決壊事件』に海外議論(海外反応)

投稿者
1938年に中国国民党軍が日本の侵略を邪魔するために黄河の流れを変えて洪水を起こして80万人もの死者を出した

黄河決壊事件
黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)は、日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした黄河の氾濫である。事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国語では花园口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。軍事目的の環境破壊として史上最大とされる。




海外「福沢諭吉の頭の良さ…」鎖国中に海外視察…西欧に渡った日本人に海外興味津々(海外反応)

海外「福沢諭吉の頭の良さ…」鎖国中に海外視察…西欧に渡った日本人に海外興味津々(海外反応)

投稿者
鎖国の後で最初にヨーロッパに行った日本人

アメリカから戻って来た最初の年に、私(福沢諭吉)は英和辞典を発行した
これをきっかけに、私はその後数々の著作を発表する
次の2-3年の間は、英語学習と教鞭をとることに時間を取られていた
しかし、文京2年になると、政府が派遣した使節団の一員としてヨーロッパを訪れる機会が巡ってきた
私は400両の支度金を得たが、旅費のすべては政府が負担していたので、この400両はすべて自分のために使うことができた
自分自身の為にはそれほどお金は必要なかったので、これは別の事に使うことにした
故郷で暮らす自分の母親に100両送った
アメリカに行っている間、故郷の中津では私に対するうわさが広がっていたらしい
そのうちの一つは、私は異国で命を落とした、というものだ
外国嫌いが蔓延していたので、これは致し方ないことだったのかもしれない
母親には申し訳ないと思ったが、頭を低くしてやり過ごすしかなかった
送金することで自分の長期間の不在の埋め合わせができるとは思わないが、100両は私たちにとっては今まで目にしたことのない大した金額だった



我々は12月にイギリス海軍の船(HMS Odin)に乗船して出発した
使節団は全員で40人ほどだった
様々な役割を担う一般人に加え、サムライの名家から参加している者たちもいた
彼らは、召使いとして連れて行ってくれるようにこっそり頼み込んで、船に乗り込んでいた
我々は和服を着、両刀を手挟み、その格好でロンドンやフランスの街角を歩いた
人目を引いたことは間違いないだろう

パリ
パリに到着し、フランス政府から正式に挨拶を受けた後に我々が最初に要請したのは、使節団の団長の宿泊先の近くにできるだけ多くの団員を宿泊させてもらう事だった
我々の荷物は相当な量だったから
異国で団員たちが別々の場所で宿泊することに対する安全性への懸念で、団長はかなり神経質になっていた
招へい元はこれに理解を示し、使節団の人数を尋ねた
我々が40人だと答えると、相手は“たった40人か、我々のホテルではその10倍から20倍の宿泊客を泊めることができる”と逆に驚いたようだった
実際にホテルに到着すると、相手の言っていたことが本当だと驚かされた
我々の拠点となったホテル・ドゥ・ルーヴは、宮殿の向かいに建つ5階建ての巨大な施設だった
客室数は600以上で、従業員は500名を数え、一度に1000人以上の宿泊客に対応可能
ホテルの中で迷子になるのではないかという不安さえ覚えた
廊下や室内で光きらめくガス灯のお陰で、外が暗くなったのにも気付かないほどだった
ダイニングホールには山海の食物が並び、外国の食事を毛嫌いする団員達もその豊富な食物には驚かされた
日本からコメを持ち込んでいたが、ホテルのキッチンでコメを炊くことはなできかったし、日本の馬毛に灯す油ランプなど使うべくもなかった
これらの使い道など考えられなくなってしまった我々は、持ち込んだすべてのコメやランプをホストの中でも位の低いスタッフにタダであげてしまった
我々は西洋の習慣に疎かったので、戸惑うことも多かった
日本で士族がトイレに行く時は、家来が提灯を持って供をするのが一般的な習慣だ
供のものは、トイレの開け放したドアの先で主人の刀を抱えてしゃがみ込んで主人が事を終えるのを待っているものだった
同じことを忙しいホテルの廊下に設けられたトイレでもやって、廊下を通りかかる人たちを
赤面させたものだ
廊下はガス灯で煌々と照らされていたにも関わらずだ
通りかかった自分が静かにトイレの扉を閉め、西洋の仕来りを説いた事は、想像に難くない

私はロンドンとパリで出会った人たちから、当時の政治状況などをできるだけ学ぼうとした
しかし、当時の私はまだ西洋の歴史に詳しくなく諸々の事を正しく理解できないことも多かった
しかし、今当時の日記を読み返してみると、ナポレオン3世が当時ヨーロッパではとてもパワフルであったことが分かる
そしてその隣国であるプロシアが勢力を拡大していたのが理解できる
オーストリアとの戦争は、コンスタントに話題に上っていた

ロンドン
ロンドンでは議会の議員の一人から、彼の属する政党の名で議会に提案された法案のコピーを見せてもらう機会があった
これは、日本担当大臣オールコックの不遜な態度に反対するものであった
オールコックの当時の認識は、日本は軍事力に敗れた国だ、というものだ
法案の中で例として用いられたのが、オールコックが芝で騎馬のまま神聖な場所に立ち入ったということ
この法案に接して、私は胸のつかえが降りたような気がした
外人はすべてが悪人ではない、ということが分かったからだ
我々の政府の経験不足と国政関係への無知のせいで、諸外国に良いように扱われていると感じていたが、その大臣の母国を訪れることで温かい心を持った人たちがいるということを実感できた
この出来事の後で、更に“世界と自由に交流する”という自分の信条が強くなった

私は、選挙とはどのようなもので、議会とはどう機能するのかを訊ねた
彼は道理の分からない子供に対するように微笑みながら答えてくれたが、私には本当に理解するのが難しいことだったのだ
保守派やリベラルなど異なる政党が存在し、常に議会で争っていた
私には彼らが何について議論し、平時にどうして争う必要があるのかがよく分からなかった
あの二人は政敵だ、と教えられたが、彼らは同じテーブルにつき一緒に食べたり飲んだりしている
これを理解できるようになるまでには、かなりの時間が必要だった
この話を聞いてから、自分の腑に落ちるまで5-10日ほどもかかった

ヨーロッパ周遊において、我々を一番歓迎してくれたのがオランダだ
これは日本とオランダが温めてきた過去300年の友好関係を考えれば自然な事だろう
我々の使節団で外国語を一つでも話せる者は、皆オランダ語を学んでいた
言葉もある程度通じる、第二の故郷のように感じられた
オランダでは、ある重要な出来事があった
アムステルダムで商人と話す機会があった時、土地の売買は自由に行うことができるのか訊ねると、その答えはYesだった
外国人にも土地を売るのかという問いへの答えもYes
誰でも、その土地に対する対価を支払うことができるなら、土地の大きさに関係なく外国人にも土地を売る、という事だった
では、もし外国人が対価を払って土地を買い、そこに城壁を設けることもできるのか、という私の問いに対しては、オランダ人の商人は少し戸惑ったように見えた
彼は、「そんなことは考えたことはなかった」と言い、イギリスやフランスの商人がそんなことにお金を使うとはとても考えられない、と答えた
我々は、お互いの意図が理解できなかったし、それは通訳も同じだったようだ
我々の大使館の内の一つは、必要以上に外国に出かけたり外国人との交流は控えるべきだ、と主張していた
海外を旅している間ですら、封鎖主義を取ろうとしていたのだ

ここでは自分の弱みに言及しておかなくてはならない
私はいつでもおっちょこちょいで内弁慶なところがあるが、生き物を殺したり、怪我をしたものを見るのが恐ろしいという面も持っている
ロシアを訪れた時、外科手術を見学する機会があった
私の友人たちは医者だったので、この機会をすごく楽しみにしていた
彼らは私もそこに引き込んだ
病院の手術室で、レインコートのようなものを着込んだ執刀医は、まな板のようなところに寝かせられた患者にクロロフォルムを与えた
医師は光り輝くナイフを患者の側腹部に当て切り込み、そこから噴き出した大量の血が執刀医のガウンを濡らした
この手術は胆石を取り除くためのもので、腹部にペンチのようなものを差し込み石を取り出していた
このシーンを見た私は気を失ってしまい、友人が私を見学室から外に運び込み水をくれたことを覚えている

私たちがヨーロッパ訪問を始めたころから、日本での反外国のセンチメントは強くなってきて、我々へのプレッシャーも強くなってきた
ロシアでは、国境問題に関する交渉が行われた
私もその席に同席したが、ロシア側は我々の主張に全く取り合わなかった
我々の交渉担当者は日本の領土が青、ロシアの領土が赤に塗られた地図を取り出し、国境を示し、この一方に属するすべての土地は日本のものだと主張したのだ
ロシア側は、こんなに簡単に領土が決められるなら世界中を赤に塗ることもできる、と我々を揶揄した
交渉は難航し、最終的には日本側はあきらめざるを得なかった
交渉の場にいた私は、日本人がこれほど偏った誇りに凝り固まっていたら、日本の将来はどんなものになるのか、と暗澹たる気持ちになったものだ
諸外国は、“ギブアンドテイク”を基本に交渉事を行っているのに
外国排斥の機運が高まれば高まるほど、国としての崇高さを失っていくのだ
自国が特別だという考えに凝り固まることから生じる、将来への不安を禁じ得ない

ある日、招へい団の一員とプライベートで会話をする機会があった
彼は私を個室に招き入れ、私に個人的なことを質問した
私自身は、日本は野心を持った若者には適さない国、と言った印象を持っていた
日本は小さな国なので、大きなことをするのは無理だと感じていた
彼は、それならロシアにわたってはどうか?と聞いてきた
私は、自分は大使館の一員として働いているので、その地位を辞してロシアに留まることはできない、と正直に答えた
彼は「そんなことは簡単だ」と言い、自分の気持ちが決まったら何でもすることができる
必要なら自分がかくまってやろう、とまで言った
「ここには様々な職業や機会があり、富を築くことも容易だ」と語る
これは、小さな個室の中で真剣に語られたことで、とても冗談だとは思えなかった
この出来事は私の中にインパクトを残した
ロシアは他のヨーロッパの国々とは違う、ということは聞いていたが、このでき後を経て私はその意味が理解できたのだ
昨年アメリカを訪れた時や、今回のイギリスやフランス訪問の最中も、多くの人たちは“日本に行きたい”と語っていた
日本で仕事を見つける手助けをしてほしい、と頼んでくる人たちばかりで正直うんざりしていたのだ
自分にイギリスやフランスに留まるように示唆する人は誰もいなかった
しかし、ロシアでは私にロシアに留まるように熱心に説く人がいたのだ

我々はフランスに戻り、そこから日本に向けて帰国の途に就くことになっていた
そこで生麦事件の事を知らされた
突然、フランス政府の我々に対する態度が変わった
一般の人々の反応は知る由もないが、我々に対する公式の反応は冷淡なものだった
船に乗り込むときに、1.6キロほどにわたり騎馬兵が整列していたが、これは送別の意味で配置されているわけではないことは明らかだった
フランスの軍事力を静かに誇示するものだった
発砲されることはなかったが、この冷淡さは耐えられないほどのものだった
我々はポルトガルのリスボンで最後の公式行事を終え、地中海に入った
その後インド洋を航行し、最終的に無事日本に戻ることができたのだ

日本に戻ったころは、外国排斥の機運がピークに達していた時だった
日本中が外国排斥の機運に飲み込まれおり、これを止めるのは不可能に思えた
これまではこの外国排斥の動きは一部の社会層の中のみで起きていることで、人々の日常生活には無縁のものだったが、私たちがヨーロッパから戻ったころには幅広く見られるようになっていた
浪人どもが突然ヨーロッパと商売をする商人の店に現れ、それを恐れた店が扉を閉ざすこともあった
浪人は勝手気ままにふるまい、彼らが次にどんな振る舞いに至るのか予測することもできなかった


外国人「朝鮮戦争って世界ではどういう認識だったの?」(海外反応)

外国人「朝鮮戦争って世界ではどういう認識だったの?」(海外反応)

投稿者
1950年代の一般/政府の朝鮮戦争に対するリアクションはどんなものでしたか?
1950年代は冷戦の最中でした 韓国を廻ってはかなりの量のプロバガンダがされました


海外「あのゲームほとんどフィクションやぞ」ゴースト・オブ・ツシマで注目!元寇の史実に海外議論(海外反応)

海外「あのゲームほとんどフィクションやぞ」ゴースト・オブ・ツシマで注目!元寇の史実に海外議論(海外反応)

投稿者
日本へのモンゴル侵攻
ゴースト オフ ツシマ という素晴らしいゲームをやり終わったところです 最初の元寇がテーマになっており特に対馬への侵攻に焦点を当てています このゲームをやり始めてから僕は完全に封建時代の日本にはまってしまい黒澤明監督の映画をたくさん見ました ゲームも映画もフィクションなので実際の歴史を学ぼうと思い始めました この時代の事を全く知らない初心者がみたらいいソースを知っていたら教えてください かなりり漠然とした質問だとは思うのですが僕の好奇心を満たすものなら何でもいいです 今みてるのはWikipediaで関連のリンクを見ています
すでに史実をしっていてこのゲームをした人がいたらどれくらい歴史に基づいているのですか?


韓国人「戦争犯罪…」朝鮮出兵で大量に集められた日本の『耳塚』が韓国で話題に(海外反応)

韓国人「戦争犯罪…」朝鮮出兵で大量に集められた日本の『耳塚』が韓国で話題に(海外反応)

耳塚とは 朝鮮人からそぎ落とした耳や鼻を供養

長の役(1592年~1598年)の遺跡(京都市東山区)。塚上に巨大な五輪石塔が立つ。

 戦功のしるしとなる首級のかわりに秀吉の将兵が耳や鼻をそぎ持ち帰り埋めたと「淀川両岸一覧」は記す。鼻塚ともいわれる。秀吉軍は朝鮮人の鼻と耳を切り取り、戦勝の証として塩や酢に漬けて日本に送った。高さ約8メートルの耳塚は、これらの耳や鼻を埋めた跡に秀吉が築いた。

 全国統一を遂げた秀吉は中国大陸への侵攻を狙い、朝鮮半島に出兵した。1592年の第1次出兵時の兵力は約20万人の大軍で、4月に釜山、6月には平壌を陥れた。秀吉軍が本格的に朝鮮人の耳や鼻を切り落とす行為を始めたのは1597年からの第2次出兵からという。

 秀吉軍の武将本山安政が残した記録には「秀吉の命令なので男、女、赤子までなで切りにして鼻をそぎ、毎日毎日塩漬けにし…」と記されている。はじめは首を切り落として送っていたが後に耳や鼻になり、樽(たる)で塩や酢漬けにされ、九州・名護屋を経由して秀吉のもとに送られた。




海外「首がないと報酬もらえないのか…」封建日本の敵の首を討ち取る文化に海外興味津々(海外反応)

海外「首がないと報酬もらえないのか…」封建日本の敵の首を討ち取る文化に海外興味津々(海外反応)

投稿者
敵の首を取る

サムライの伝統ではあるんだけど、この件は今まであまり取り上げたことはなかった
この件って言うのは、“首を取る”ってことだ
今日は、サムライ文化の中で敵の首を取ってさらし者にすることの歴史と重要性について語ってみよう



アジアの文化の中での、敵の首を取るって言う伝統はかなり昔がその起源になってる
敵を斬首してそれを晒しものにするのは、紀元前200年ころの中国で既に見られていた
日本でも晒し首がよく見られるようになった背景には、中国の影響があるようだ
でもサムライ文化の中で、斬首と晒し首が出てきたのは900年ころからだ
当然、それ以前にも“敵の首を取る”って行為は行われていたんだろうけど
初期のサムライの戦いは、紳士的なものだった
戦場で敵同士が一対一の戦いを行う
勝った方が負けた物の首を取って、その首を自分の主人に見せて報酬を受け取る
首を主人に持って行くことが、仕事をした証になっていたんだ
多くの首を取った、って言うことが自分の武士としての名声を高める役にも立った
そんな武勇が多いサムライの首を取ることができれば、翻って自分の名声が上がる
初期のサムライで武名を馳せたのが、平将門
彼は940年に殺され、その首は当時の首都京都に持ち帰られ、天皇と朝廷の前に晒された
伝説によれば、彼の首はその後飛び立ち東に戻っていった、って言うことだけど

源平の戦いや鎌倉幕府の設立以前、サムライの家の主たちは自らの地位を高める機会があまり与えられていなかった
同時に土地を得て、そこを統治する能力にも欠けていた
しかし、1192年に将軍が登場すると、サムライが実質的に国を統治するようになった
将軍のもとで地方を統治していた軍将たちが、地位を高め出世する機会を得た
出世のために、主人に槍や刀剣の贈り物をするシステムもまだ存在していた
それに加えて、主人の役に立つことで出世や土地を下げ渡されるなどの機会も得る
いかに多くの敵の首を取るか、ということは手っ取り早く自分の手柄を示す手段でもあったのだ
主人に首を見せるということは、一種の儀式となっていった
この儀式は伝統となって、日本全体に広がっていく
15世紀から17世紀の戦国時代になって、これはサムライの一般的な行動規範となった
戦場でその日の戦いが終わると、大名のもとにサムライ達が集まり、その日に取った首を披露する
戦国時代のサムライの身分は、平民と同じようなものだったというのは、特筆に値する
このような状況で、足軽が敵の首を取ってそれを主人に捧げることができれば、この足軽はサムライの身分に取り立てられることもあった
この首を披露する儀式には、こまごまとした取り決めがあった
首は見た目が良い状態でなくてはならない
だから、サムライが戦いの場に臨むにあたって、斬首される場合に備えて髪形や身だしなみを整えるのはよくあることだった
斬首された後でも良い香りがするように、髪に香水をまとうこともあったらしい
傷跡やシミを隠すために、化粧する者もいたということだ
様々な理由があるにせよ、サムライは自分が死んで首を取られた後でも見た目が良いことに気を使った
それに加え、首を取ったものはその首を良い状態に保つことに責任があった
それには、切った首を洗い髪をすき、貴族の地位を示すためにお歯黒を施す、と言ったことも含まれていた
その後首は白い布で包まれ、木の板の上に安置され、その前には誰の首かという事と誰がその首を取ったのかということが記された
それ以外にも踏襲すべき事柄があった
もし首を取られたのが弓矢の射者であった場合は、その弓矢も展示された
戦いの真っ最中には、長々とした儀式を行っている暇がないこともあった
その場合には、儀式を端折る場合も当然でてきた

この儀式は、数々の問題も抱えていた
まず、サムライや足軽が嘘の申し立てをして報酬を得ようとする場合
敵の足軽の首を取って、それを位の高いサムライのもののように虚偽の申し立てをすることがあった
これが上手くいきまんまと褒美を手にする者もいたが、この粉飾が見つかる者もいた
誰かの首を取った後で報酬を確実に手にするために、戦場を離れてしまうサムライもいた
このようにズルをする者がいなかったとしても、問題は別に存在した
斬首は時間がかかる作業だ
敵の頭を押さえつけて、刀で首を切り取らなければならない
激しい戦いの場では、スピードが要求される
武将や大名の多くが、この斬首にかかる時間の無駄に気づき始めた
これら諸々の問題を鑑み、斬首を禁止する武将も現れたが、これは逆に自分の軍隊を怒らせてしまう結果に至ることもあった
戦場で報酬を受けたり、名声を高めるためには首を取るしかなかったからだ
斬首を禁じた最も有名な例が、1545年の川越の戦いだ
北条氏康は、より素早い攻撃のために斬首を禁じた

斬首の伝統はサムライの時代が終わってからも長い間続き、第2次大戦の間にも日本兵によって行われていた例もある



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