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外国人「第二次世界大戦の時って大日本帝国は特殊部隊とかいたの?」(海外反応)

外国人「第二次世界大戦の時って大日本帝国は特殊部隊とかいたの?」(海外反応)

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第2次世界大戦中 日本帝国にはどんな種類の特殊部隊がありましたか?
連合軍側やドイツの特殊部隊についてはいろんな事を聞きますが(SAS コマンドー レンジャーズ OSSなど)日本の特殊部隊についてはあまり知られていません とくに歩兵について もちろん特殊攻撃の部隊があったでしょうが他にはあまり聞きません 隠されていたのでしょうか? 歩兵部隊について気になっています


海外「義経には同情しかない…」蒙古襲来に権力争い…日本の鎌倉時代に海外興味津々(海外反応)

海外「義経には同情しかない…」蒙古襲来に権力争い…日本の鎌倉時代に海外興味津々(海外反応)

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鎌倉時代―最初の将軍と蒙古来襲

鎌倉時代って言うのは、最初の将軍が誕生して、蒙古来襲もあった時代だね
サムライも少年期を迎えて、物事がだんだん怪しげになってきたんだ
永遠に続くかと思ったけど、源平合戦が終わってようやく平安時代に幕が下りた



さぁ、いよいよ鎌倉時代
ちょっと駆け足で、まとめてみよう
戦は源頼朝をセンターステージに送り出した、彼が鎌倉を本拠とする軍勢の長となったんだ
頼朝が最初に着手したのが、敵をすべて倒すことだった
弟の義経を追い詰めた
義経は奥州の藤原氏によって殺されたんだけど、義経の首を頼朝に送った藤原氏は“僕らの事は殺さないでね”ってメモをつけてたらしい
義経の側室が子供を産んだ際には、頼朝はその子を殺害させている
頼朝は又別の弟である範頼も殺害してる、彼が寝返ったんじゃないかって邪推したんだ
これでは飽き足りなくて、娘婿まで殺してるよ。。。。
これだけ聞くと、頼朝は家族ばっかり殺した鬼畜のような奴だって思うだろ?
でも、実はそうじゃないんだ
家族以外にも奥州藤原氏も皆殺しさ、義経の事を葬ってもらったのにね

1192年、朝廷は頼朝に征夷大将軍の位を授けた
これで、頼朝は正式に将軍の位についた
朝廷が彼に勢力を与えたって言うよりも、頼朝が強力だったから位が後からついてきた、っていう所だね
征夷大将軍の位についたからって、何かが変わったわけじゃない
でも、この時期は頼朝にとっては幸せな時代だったよ
軍事政権が生まれた時だったんだ、これは幕府って呼ばれた
幕府は朝廷を蔑ろにしたんじゃなくて、日本中を手中に納めたわけでもない
この時代には、日本には二つの政府が存在してた
伝統的な政府は京都に本拠を構え、軍事政府が鎌倉にあったんだ
高名な武将たちは鎌倉地方に本拠地を置いていた
頼朝は、政策をまず京都の朝廷から承認されてから執行するようにしてた
有体に言えば、鎌倉幕府は関東を統括して、そのほかの地方は京都が統括してたって事
頼朝にとっての懸念は、彼の死後この軍事政権があっけなく倒れてしまう事だった
これを防ぐために、彼は色々策を施した
彼が1199年に死ぬと、将軍の地位は彼の息子頼家に受け継がれた
でも、彼の家系が権力の中枢にいた期間はそんなに長くなかった
頼朝の妻は北条政子
彼女の実家の北条家は、頼家が将軍の座に就くことを快く思ってなかった
北条家は頼家に辞職を促し、その弟を将軍の座につけ、頼家を暗殺しちゃった。。。。
新たに将軍となった実朝はまだ子供だったから、北条氏はあっさり彼の後見についちゃった
ここから北条氏のレガシーが始まるよ
将軍はお飾りになって、北条氏が政治の実権を握ったんだ
これは1333年に鎌倉時代が終焉を迎えるまで続いた
源頼朝の死後、北条政子は出家して、お祈りの合間に北条氏をがっちり支配下に置いて、彼女の兄弟と共に将軍家のフィクサーになった
彼女は尼将軍と呼ばれて、彼女の時代には色々とドロドロした政治ドラマが展開された
日本で政治の実権を握ったのが将軍で、天皇家はお飾りだったってことだよね
でも、頼朝の後で将軍それ自体もお飾りっぽくなってきた
鎌倉時代に実権を持っていた将軍は頼朝だけだったんだ

1221年、位を退いた後鳥羽天皇は問題を抱えていた
彼は将軍の勢力が強くなりすぎていると考えて、兵を集め将軍の勢力に対して戦いを挑んだ
これがお粗末な承久の戦いだ
この戦いの後で、将軍派は敗戦側の土地をすべて取り上げた
これで鎌倉側のパワーは京都のそれを上回るようになる
鎌倉側が、誰が天皇の位につくかに口をはさんでくることもあった

1274年、フビライハンが日本に攻め込んできた
モンゴルと日本は何度もやり取りをしていて、事態は「言う事を聞かないと攻め込むぞ!」ってところまで行ってた
日本側は、「来れるもんなら来てみろ、俺っちには神風が吹いてるんだ」って強気に構えてたらしい
モンゴル来襲は対馬から始まって、モンゴル軍は九州に向けて侵攻してたんだけど、結局は撤退せざるを得なかった
台風のせいだって言われてるけど、研究者の多くは台風なんて来なかったって思ってるよ
1281年、モンゴル軍は再び襲ってきた、今度は前の時より大勢の兵を率いていたんだ
でも今回は本物の台風に襲われて、散々な目に遭った。。。。。
モンゴル軍の大将は、“船の大きさじゃない、波の大きさだ”ってなことを詠った詩を残した
日本人は、この台風の事を“神風”って呼んだ
何とかモンゴル軍を押し返すことができたけど、これは将軍にとっては大きな頭痛の種となった
鎌倉幕府は、武勇を立てた武士に与える土地がなくなってきていたんだ
寺社勢力も、自分たちの祈りが神風を呼び覚ました、って主張して褒美を欲しがった
この戦いで活躍したサムライ達は、約束された土地が与えられないのに不満を持ち、将軍が約束をたがえていると考え始めた
朝廷の豪華な生活様式も、サムライの鼻につくようになった
領地が増えないから収入も頭打ちで、子供に領地を分け与えると、実入りが減ってしまった
こうなると、殺戮が一番都合のいいオプションに見えてくる
頼朝の時代に彼のために戦った武士たちは、とっくの昔に忠誠心など失っていた
さらなる領地を獲得することにあくせくして、将軍への忠誠心などどこかに置き忘れてきた
鎌倉政府は、土地は一人の息子にしか相続させることはできない、っていう策を講じた
他の家族やペットは彼の下に置かれることになった
女性も母方の土地を相続することはできたけど、時代が進むと女性が所有する土地はどんどん減っていった

この時期に仏教が盛んになってきた
仏教は中国から伝来した、ってことは男子の権利を尊重する孔子の教えが入って来たって事
彼によれば、女性は劣るものだと考えられていたんだ
女性は仏教の聖地、比叡山などに入山することも認められていなかったよ
平安時代には、仏教は貴族階級によって信仰されてた
でも、鎌倉時代になって仏教は一般市民にも広がったんだ
これは源平の戦いの後で、軍事勢力が力を増していた頃だった
世の中が安定してない時だったから、一般市民も心のよりどころが必要だったんだ
主なところは、浄土真宗・日蓮宗・禅宗なんかだね
浄土真宗は、大衆向けの信仰だった、大衆に浄土に続く道を説いたんだ
暮らしに希望が持てなかった人たち(当時のほとんどの人たちだけど。。。)に人気だった
阿弥陀様を信仰したんだ
阿弥陀様の名前を繰り返し唱えることで、極楽浄土に行けるって信じてた
“南無阿弥陀仏”って言うのはここから来てるんだ
中国でも似たような言葉を使ってるね
日蓮宗では蓮の祈りを捧げることを教えてる
日蓮は、物静かで親しみやすい僧侶だったらしいってことだけど、彼の銅像から察するに、真逆だったとしか思えないよ。。。。。
彼に従っていたのは、僧兵で国粋主義的な考えを持っている者が多かった
彼は、他の宗派はすべてクソで、自分の宗派だけが純粋な仏教を教えてるって主張してた
彼の宗派だけが日本で生まれた純粋な仏教だってことらしい。。。。
最後が禅宗、この宗派の目指したのはパラダイスじゃなくて、修業を通じて物事の摂理を説く、って言うものだった
頭で考えるのではなく、座禅を組むことで物事の真理に到達しようとした
言うのは簡単だけど、これを実践するのは中々難しいよ
禅はサムライに良く馴染んでいた
シンプルで、刹那的で、自律的なものだった
他社に救いを求めるのではなく、救いは自らの内にあるとされた
禅の教えは日本の文化全般に影響を与えてるね
茶道や日本庭園、刀工、絵画なんかにその影響が出てるのが分かるだろう?

この時代の終わり頃に、当時の天皇は将軍制度にほとほとうんざりしたんだ
これが後醍醐天皇だよ
彼を天皇に据えたのは将軍家なんだけど、天皇の位についたら後醍醐天皇はアンチ将軍派の動きを重用するようになる
後醍醐天皇は1333年に鎌倉幕府を追い出し、天皇家が日本を統治するシステムを再び始めた、まぁこれは3年くらいしか続かなかったんだけど。。。。


海外「まさにレジェンド…」義経に楠木正成…日本の歴代『伝説の侍』の一生に海外興味津々(海外反応)

海外「まさにレジェンド…」義経に楠木正成…日本の歴代『伝説の侍』の一生に海外興味津々(海外反応)

投稿者
伝説のサムライ

今日は、クールな伝説のサムライがテーマだよ
さぁ、誰が一番クールなサムライに選ばれるかな、こうご期待!



先ず最初は、義経と弁慶
これは日本で一番有名な兄弟愛を描いてるものだよ
源義経は有名な武将で、有名な武勇伝がいっぱいある
彼には西塔武蔵坊弁慶っていう右腕がいたけど、彼の名前は歴史には数回しか出てこない
弁慶は生まれる前から頑固者だったらしい
お母さんのお腹の中に18ヶ月も居座っていたんだって
弁慶は大柄で声の大きな奴だった
彼は僧侶だったんだけど、寺を飛び出して日本中を歩き回り、まぁ色々やってたんだ
この二人の出会った様子は有名な話だ
ある日弁慶は、刀を1000本奪い取ろうと決心した
何故かって? だって彼が周りを見回すと、金持ちで馬を1000頭持ってる人とかいるし、
弓を1000本持ってる人もいる
金持ちは何にせよ1000持ってる、って感じじゃん
自分が刀を1000本持ってたら、人は自分の事を金持ちだって思うかな、って考えたんだ
弁慶は夜の京都の町に繰り出し、出会う人々に果し合いを挑み勝つと刀を取り上げていった
すぐに京都の町には、10尺の大男が人々から刀を取り上げてるって噂が駆け回った
数か月で、弁慶は999本の刀を取り上げていた
彼は、1000本目にはそれにふさわしい刀が見つかるといいなぁ、って思いながら五条橋に差し掛かる
するとどこからともなく、美しい横笛の音色が聞こえてきた
夢見がちの少年が、女性のベールをつけてこちらにやってくるのが見て取れた
なよっとした感じの少年だったけど、弁慶は彼の腰の立派な刀に身が吸い寄せられた
これはちょろいと思った弁慶は、大音声で「その刀をこっちによこせ!」って叫ぶ
これが刀を奪っているやつに違いないと思った義経は、これを拒否する
両者の戦いが始まったけど、これは弁慶が考えていたようには進まなかった
義経は小柄な少年だったけど、すばしっこくて橋の上を飛び回ってた
弁慶が義経の前に立ちはだかった時には、2段蹴りをかましたりした
最後には義経が勝ったんだけど、弁慶の強さを認めた義経は自分の家来にならないか、と尋ねる
ここから後、有名な主従関係が築かれていき、弁慶は義経の一番の家来となる
弁慶の忠臣は最後まで揺らぐことがなかった
最後の戦いで負けを悟った義経は、切腹しようした
弁慶は敵が義経の切腹を邪魔しないように守りを固め、自らも弓や刀に傷つきながらも戦い続け、誰も義経に近寄らないようにしていた
敵陣は長い間義経に近づけずにいたが、しばらくして弁慶が立ったままで死んでいることに気が付いた、死んでも義経を守り続けていたのだ。。。。
このおかげで、義経は彼の家族と共に切腹をすることができた
義経と弁慶は、日本で最も気高い武士として知られている

ここで、これより優れていたと言われる武士を紹介しよう
戦いで武名を揚げただけではなく、一度も怪我を負うことがなかったサムライ
本多忠勝だ
彼の名前は、サムライに興味がある人なら良く知っていると思う
彼は三河の出身で、元々浄土宗の熱心な信者だった、これは一向一揆で有名になった一向宗に打ち負かされた宗教だ
当時まだ松平元康と名乗っていた後の徳川家康が三河に戻り、元々自分の領土であった土地を桶狭間の戦いの後で取り戻すと、忠勝は浄土宗を捨て徳川家康の側につくことにした
その後の生涯、忠勝は家康に忠誠を示し続け、数々の戦いで彼の右腕として戦った
姉川から三方ヶ原の戦いまで、そして長篠から小牧・長久手の戦い、小田原から関ヶ原、そしてもっと数多くの戦いで家康に付き従っていた
彼がいるということが、戦いに力を与えた
彼の武将としての能力だけでなく、彼のルックスも敵に恐れを抱かせる原因だった
名工村正の名の入った愛槍の蜻蛉切を抱え、敵ににらみを利かせていた
彼の名声は周りの尊敬を集めていたため、家康が豊臣秀吉との戦を行った際には、思いがけない効力をあげた
忠勝の名声を聞き及んでいた秀吉が、忠勝との戦いを避けたのだ
彼の経歴だけが、彼を優れた武将としているのではない
数々の戦いを無傷で切り抜けたことが、彼を優れた武将としているのだ
これは彼が1610年に畳の上で寿命を終えるまで続いた
彼は日本が生んだ最も優れた武将の一人と言うだけでなく、戦場での死を逃れた武将としてその名を後世に知らしめている
ふーん、一度も切られなかったんだ、紙でスパッと指を切るとかもなかったのかな?

さぁ、今度は自分の主人の為にすべてを捧げたサムライを紹介するよ
楠木正成だ
最初の幕府は1185年に打ち立てられた軍事政権
その後朝廷よりも力をつけてきちゃったから、後醍醐天皇は腹を立てて自分の軍勢を集め幕府転覆をはかるんだ
楠木正成は、この軍隊の忠臣
朝廷の時代は、その後足利尊氏が反乱を起こすまで2年半ほど続いた
尊氏はサムライの力を取り戻そうとして、朝廷軍よりも大きな軍を率いて首都まで攻め込んでくる
正成は、この軍勢と正面切って戦うことは得策ではないとして、一旦首都を離れゲリラ戦を展開するべきだと提案した
天皇はこの話に興味を示したが、他の家臣と相談してやはり敵陣と正面からぶつかることにしたんだ。。。。。
正成はこれは自殺行為だって分かってたけど、自分は逃げることなく敵に立ち向かうことにした
この戦いに臨むってことは、自らの死を意味する
戦場に赴く前に、正成は自身の11歳の息子に「何が起きても天皇に対する忠誠を忘れてはならない」と語った
これが湊川の戦
戦いは長引いたが、朝廷側にとっては厳しいもので、正成と彼の兄弟、そしてごくわずかの兵だけが残った
残った全員が、切腹することを決意した、当時は他に方法なんてなかったからね
ここで正成の兄弟が「7度生まれ変わっても、この国に忠誠を捧げる」っていう有名なセリフを残す
正成もこれに賛意を示し、彼らは全員切腹して果てる
この後、正成の息子も天皇の為に命を落とす
楠木一族が全員 “忠誠を尽くす” っていう生き方を世に示したんだね

正成が、彼の忠誠心で皆の心に残ってることは認めよう
今度は、その忠誠心が後の日本に何世代にもわたって影響を与えたサムライを紹介しよう
実は普段はあまり顧みられることがない人物なんだ
あまくに(天国)は刀鍛冶だった
後の刀のもととなる太刀を作り上げたものとして知られている
700年ころの大和の国、そこにはあまくにと呼ばれる刀鍛冶が暮らしていた
最初は、彼の仕事はそれほど抜きんでた物ではなかった
彼の作る刀はそれほど機能的なものではなかったが、いつの日か素晴らしい刀を作り有名になりたい、という夢だけは持ち続けていた
彼がその当時作っていた刀のデザインは、ほとんど中国や朝鮮など大陸から渡ってきたものを模したものだった
まっすぐな本身に、両刃か片刃が付いたものだった
何とか使うことはできたが、当時の日本での戦いの在り方にはマッチしていないものだった
初期の頃の日本での戦いで使われた刀の主な用途は切り裂くことで、中国で使われたいたように刺し殺すことには使われていなかった
そのような理由から、中国式の刀は無駄に酷使されることが多かった
刃こぼれやゆがみ、刃の割れなどは日常茶飯事だった
当時の鋳物技術力の低さも刀の性能の低さの原因の一つだった
武士が戦場から戻ると、あまくには刀をチェックするようになった
自分の刀に大きなダメージがあることを発見するたびに、彼はとことん悲しくなってしまう
性能を上げるために何ができるだろう?と悩んだ彼は、大胆な方法をとる
彼は息子と共に工房に籠り、神道の神に祈りを捧げ続けた
7日7晩祈り続け、やっと光明が見えてきた
その場で彼は刀づくりをはじめ、今までになかったような刀を作り始める
焼き入れをして、鉄を折り重ねていくことで不純なものを取り除き、鋼を鍛えていく
最初の太刀を作り上げた
強い反りをもった片刃の刀で、日本式の戦いにはより適している
当時の刀鍛冶は、このデザインに懐疑的だった
今まで何世紀にもわたって使い続けてきた刀よりも優れているのだろうか?
結果的に、彼の刀が優れていることは証明された
あまくにの刀を携えて戦場に臨んだ武士たちは、刃こぼれもしていない刀と共に国に戻り、その刀の素晴らしさを語り草にした
その後、太刀が日本での戦いの主な武器となった
時代が立つごとに、デザインはますます機能性を増し、更に洗練されたデザインも見られるようになってきた
野太刀、脇差、そしてもちろん刀など
これらの優れた武器も、あまくにがいなければ生まれることはなかっただろう

へぇー、でもこの人は刀作ってただけだよねぇ??
僕が刀を使いこなした名人を紹介するよ
彼の名前は宮本武蔵、刀の達人だって言われてる
60以上の決闘に臨んですべて勝った、って話だよ
伝説の決闘が、ライバル佐々木小次郎との戦い
小次郎は大きな男で、使ってた刀も大太刀だった
決闘の当日、小次郎や見物人が決闘場で待っていた時、武蔵は船の上で寝過ごしちゃった
わざと遅れたって言う人もいるけどね、小次郎をイライラさせるための戦術だ
武蔵は剣の達人ってだけじゃなくて、戦略家でもあった
自分が勝つために、使えるものは何でも使ったんだ
寝過ごした後で武蔵がやったのは、船のオールを刀みたいに削ったこと
この理由については諸説あるよ
一つは小次郎の刀に匹敵するよう(に見える)大きな刀を持ってる、って思わせたかった
別の説では、木刀の先がちょっと見えるように抱えて、小次郎をびっくりさせたかったって言うもの
ようやく武蔵が現れた時には、3時間も待たされていた小次郎はカンカンだった
武蔵が木刀を抱えてるって分かった時、小次郎の怒りは頂点に達したよ
武蔵がこの決闘を真剣に考えてない、って思ったんだ
小次郎は有名な燕返しを繰り出すと、武蔵も彼の木刀を繰り出す
小次郎の刀は武蔵の鉢巻きを切ったけど、武蔵の木刀は小次郎の頭をたたき割った
小次郎は命を落とし、武蔵の全勝記録は続いた


海外「すごい技術だ…」多種多様なデザイン!日本の鎧の秘密に海外興味津々(海外反応)

海外「すごい技術だ…」多種多様なデザイン!日本の鎧の秘密に海外興味津々(海外反応)

投稿者
サムライの鎧の秘密

ハーイ、みんな、ノームだよ
今日はロスアンジェルス・カウンティの博物館に来てるよ、こちらは学芸員のロバートさん
ここには、サムライの兜や鎧を展示しています、ほとんどが戦国時代後のもの
鎧甲冑は存在しましたが、それをつけて戦うことはなかった時代です
他のサムライに虚勢を張るためのコスチュームのような役割を果たしていたのです
その地方で一番腕のいい職人を使って絢爛豪華なもの作らせていました
僕らは歴史的な鎧甲冑にすごく興味があるんです
僕の友達のアダム・サベージも鎧甲冑を持ってるんですが、あれは撮影用の小道具。。。
本物を是非見てみたいと思って伺いました



先ず胸当てがあります
次に肩当て、これは槍が飛んできた時に身を守るのに有効です、勿論銃や刀に対しても
このスカートのように見える部分には網状の鉄を仕込んでいることもあります
そして、籠手、脛あてに靴
全部の装備で40ポンドくらいだから、そんなに重くはありません、西洋の甲冑は100ポンドくらいありますからね
西洋の甲冑では馬の乗り降りもひと騒動ですから、これはかなり柔軟性があります
それぞれの部分を身に着けて、紐で縛っていくのですから
ヘルメット部分はどうですか?
これは兜ですね、これはすごく重要な意味を持っています
例えば、この甲冑は14-15世紀のものですが、顔の面はリアルで胸当ての龍は素晴らしく精密に彫られていますね
面には鼻から下だけを隠すものや、顔全体を覆うものなどいろいろなデザインがあります
これは16-17世紀ごろのものです
これが甲冑の素晴らしさをすべて表現したものです
つばの部分は鳥で、頭には山伏の被っていた帽子を乗せています
この甲冑がユニークなのは、胸当てのところが6枚板になっているところです
肩当の部分にも筋肉が盛り上がっていますね、昔の人も鍛えていたんでしょうか?
このスカート部分の下には網状の鉄が仕込んであります、弓からも銃からも身を守る為です
すごく機能的ですねぇ
でも、これが作られた時代には実戦ではなくセレモニー用のものだったんですね
それぞれの甲冑が、色々な生き物を表しているように見えるのですが
うーん、説明するのが難しいのですが。。。
日本人と言うと商売に熱心という印象がありますが、このような最高級の甲冑を作る際には商売を抜きにして唯一無二のものを造ろうとしたようです
仏像などを使うことも多かったようです、守護の意味合いを持たせていたのでしょう
より生き生きしたデザインの甲冑が、位の高いサムライに所有されていたようです

これはとてもユニークな甲冑です
胸当てのところに銃弾が2発当たったようになっているのが分かりますか?
弓が貫通しなかったものや、刀の切り傷がついているものもあります
この甲冑の実用性が、刀鍛冶によって試されていたのは明らかです
銃弾からも弓矢・刀からも守られていたんですね
戦国時代でもなかったのに、そこまで緻密に作らていたというのが不思議です
この甲冑の素晴らしいところは、オリジナルの収納用の箱がついていることです
この箱は二人の従者によって運ばれていたのでしょう

今まで見たこともない甲冑に出会ったら、まずどんなところに目を向けますか?
博物館として興味を持っているのがスカルプチュアなので、まず兜のデザインに目が行きますね、変わった動物のデザインとか
この右側のものは、どちらかと言えばエレガントなデザインですね
この左側のものは、私たちには何なのかはっきりとはわからないのですが、イタリアからこの博物館を訪れていた研究者から、イタリアでよく食べられているヨーロッパ鰻に違いないと言われました
金歯をむき出しにした鰻です、逆立った毛をつけることでより恐ろしそうに見せています
側面は鉈のようになっています、結構鋭い刃面ですね
こちらのものは、まるで大きな耳がついているようです
当時は刀の切れ味を試すために、死刑になった囚人の身体を試し切りに使うこともあったようです
普通は竹を切って切れ味を試していたようですが
刀の根元の部分には、この刀は試し切りされているということが記録されています
試し切りをした死刑囚の数も記されています
この兜は私のお気に入りですが、まるで眉毛のような模様が入っています
まるで機嫌の悪い年寄りのような表情です
日本の言い伝えでは新年の初夢に “一富士二鷹三茄子” を見ると縁起がいいと言われています

こちらのものには、竹筒が両脇に2本立っています
背後に見えるのが、一般的な鎧甲冑のセットです
鳥の羽に見立てた物に色を付けた物が背面に飾り付けられています
戦場で最も重要な人物であるという象徴で、サムライ大将として、後方で指揮を執るのです
弓矢や刀・銃に耐えられるほどの重厚なつくりではありませんが、大将が弓矢に晒される言う機会はめったにないはずなので、自分は大物だと言いうことが分かることが大切だったのでしょう
こちらの鎧甲冑は、重装備のものです

その隣が100年以上前に西洋の宣教師が身に着けていた衣装です
これが乗馬用のサドル、そしてこちらが旅行中にかぶっていたヘルメット、鋼製ですがそれほど重くはありません
寒い時につけた上着です
こちらの甲冑の横には大きな弓がありますが、日本の弓は西洋のものに比べて極端に大きなものです
サムライは皆刀を2本差していました、大刀と小刀です
家から出る時には、常に刀を2本差していました
こちらが子供用の弓矢と刀

数百種類にも上る博物館のコレクションは素晴らしく、感動しました
何百年も前のもの達ですが、デザインだけでなく機能性も兼ねそろえていて、それにも感心しました
今日はありがとうございました


海外「なんて美しい勇姿!」当時世界一の船!日本の戦艦大和に海外ファン羨望(海外反応)

海外「なんて美しい勇姿!」当時世界一の船!日本の戦艦大和に海外ファン羨望(海外反応)

投稿者
戦艦大和は世界一大きな戦艦であり日本海軍で一番有名な船です 悲しい事に227機の米軍機と戦って負けてしまいました 巨大な日本の戦艦が負けた事によって日本の希望が砕かれたのでした



※日本語字幕になっていない場合は設定→字幕→日本語に
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秘密裏に作られ膨大な費用を欠けて戦艦の歴史に残る最大の船になりました
敵を恐怖に陥るために建造され現代の貨幣価値で8兆ドルもかかりました 海軍史のターニングポイントとされた戦いとされています 戦闘機を使った海の戦いには非常に強かったのですが戦いのための装備が良くなかったため攻撃する事が出来なかったのです 大和ほど海軍ファンの興味をそそるものはありません 


海外「実在していたとは…」日本の戦国武将『伊達政宗』の生涯に海外興味津々(海外反応)

海外「実在していたとは…」日本の戦国武将『伊達政宗』の生涯に海外興味津々(海外反応)

投稿者
織田信長の死後2つの大きな戦いが発生した
最初の戦いが、徳川・上杉・北条・真田による関東の領土をめぐるものだった
2つ目は、更に大きな意味を持つ、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いだ
この戦いの結果、秀吉が織田の跡目を継承することになった



ここで中部地方で繰り広げられていた勢力争いから、北日本に目を転じてみよう
伊達家が歴史舞台に現れたんだ
戦国時代 - 伊達政宗と東北地方での戦い
これまでこのシリーズでは、東北地方の事を取り上げていないのは皆に知られてる
その理由の一つが、東北地方での衝突は中部・関東にはそれほど影響を与えていなかった事
戦国時代の気風は東北にも大きく広がっていたが、戦国時代のメジャーイベントに影響を与えるようなものではなかった
でもこれは、東北地方で生まれた一人の武将によって変えられようとしている
彼の名前は日本中に知られることになる
僕が東北地方に触れなかったもう一つの理由は、東北地方は大混乱だったからだ
東北地方には様々な勢力があった、南部・津軽・最上・芦名・相馬、そして伊達
これが東北地方を席巻していた大きな勢力の一部だ
しかし歴史は、これらの内の一つが歴史に名を遺すに値する者だとした、それが伊達家

伊達家の始まりは12世紀にさかのぼる、藤原家に連なるものだと言われている
伊達家は何代にもわたって陸奥の大部分を支配下に置いてきた
戦国時代の始めまでには、東北地方に多大な影響力を持つに至っていたが、他の東北地方の武将たちに比べて特に優れているというわけではなかった
戦国時代の性格上、伊達が近隣の争いに巻き込まれることは良く起った
ある時には、6年にも及ぶかなり危険な内戦(天文の乱)に関わったこともある
1566年、伊達家の当主はまだ若い伊達輝宗、意志の強い武将で、天文の乱に自身の父、稙宗に対して勝利をおさめたことで知られる伊達晴宗を父に持つ
1566年秋、輝宗とその正室で最上から嫁いだ義姫は息子を得る、その子の名前は梵天丸
この子が後に政宗の名を持つことになる
かつて伊達家に栄光をもたらした先祖から名前を得たのだ
しかし政宗の子供時代は順調なものではなかった
幼児の頃かかった天然痘のせいで右目が腫れあがってしまい、小さなころからあまり自信のない子供だった
彼の気鬱に関しては、数々のエピソードが残っている
母の義姫も彼の振る舞いには気を病み、将来家を継ぐにはふさわしくないのではないかと語ることがあったと言われている
政宗はネグレクトのような状態に置かれた
普通であれば、ここで彼は歴史から忘れ去られていたことだろう

しかし、彼に多大の影響を与えた2人の人物がいた
最初が彼の乳母、片倉喜多、実の母親が与えなかった愛情を示し、軍記物語などから学ぶことを奨励し、政宗の中に武将の心と素質を植え付けたのだ
しかし彼女一人の尽力だけでは、彼の大成は叶わなかっただろう
彼に多大な影響を与えたもう一人が、喜多の異兄弟、片倉小十郎のちの景綱
政宗より少し年上だったが、小十郎は常に政宗と行動を共にし忠実な友であり続けた
この小十郎こそが自らの刃物で政宗の膿んだ右目を取り出し、彼の長年の気鬱の元を取り除いたのだ
小十郎と乳母喜多のお陰で、政宗は長年の劣等感を克服し、伊達家を継ぐにふさわしい素質を身に着けたのだ

1581年、齢14歳で政宗は父親に従って、相馬家を相手にした初の戦に繰り出した
しかし、この戦いで政宗は危うく殺されそうになる
父親から後継者だと認めてもらうには、まだまだ技量を磨かねばならなかった
3年後の1584年、彼は父親にその実力を見せつける機会を得た
政宗は、伊達家を継いでからそれほど長く安定した権力の座についていたわけではない
傘下の武将大内定綱が、敵である蘆名家側に寝返ったのだ
これに激怒した政宗は、自身の別の側面を見せつけた
これが彼の“独眼竜”という名の由来となった
政宗は蘆名と大内に対して戦いを宣言し、定綱の裏切りへの復讐を図る
当初の攻撃は、蘆名の徹底抗戦により難航したが、政宗はそれに気圧されることなく攻撃を続けた
数か月後、ようやく定綱の本拠地を打ち破ることに成功した
政宗は城を占拠し、城に残されていた800人を老若男女問わず虐殺した
定綱は後に小浜城に逃れたが、自らの城での虐殺の知らせを受けると、小浜城に火を放ち蘆名家の領土の奥深くへと身を隠した

政宗の激情型の性格は、戦時に適したものであった
しかし、対外外交政策には問題があることが早晩明らかになる
畠山家の子孫である二本松は、代々伊達家とはライバル関係にあった
この関係を改善しようと、二本松義継は何度も政宗に働きかけていたが、政宗はその一切を拒否していた
とうとう1585年、二本松義継は政宗の父輝宗に仲介を依頼する
当初、義継と輝宗の話し合いは上手くいっていたが、途中で暗雲が立ち込め輝宗は義継から人質に取られてしまう
義継としては、輝宗を懐柔することはできるかもしれないと考えたが、政宗が和平に応じる可能性は全くないと判断したのであろう
輝宗を人質とすることで、和平を達成しようと目論んだのだ
この知らせを聞いて、政宗は少数の武士を従えて父を救出する為に城を離れた
阿武隈川で義継の軍勢に対峙した政宗は、絶体絶命の局面に立たされる
政宗は、銃弾が誤って輝宗を殺してしまうかもしれないと恐れた
しかし輝宗は自らの命に頓着せず、銃を発するようにと叫ぶ、これは武将の指示だ
政宗はこの短い戦いに勝利をおさめることはできたが、結果として父を失った
一方義継は、何が起きたのかよく分かっていなかった
義継自身がこの戦いで命を落としたという説もあるが、彼は生き延びたという説もある
しかし、伊達と二本松の戦いは本格的なものへと発展した
その頃には政宗を頭に抱く伊達家は、安定を欠く東北地方で危険な存在だと捉えられていた
相馬や蘆名・佐竹は二本松の側についた
政宗の軍勢は数の上では劣勢だった
1586年、人取橋の戦いで政宗は大勢の敵軍に対峙すると、彼は手早く防御態勢を確立した
7千の伊達の軍勢が3万の敵軍に向かったのだ
伊達の軍勢は一つ一つ敵軍の前に倒されていき、本拠とした本宮まで後退を余儀なくされた
政宗や側近たちは、そこでの最後を覚悟する
しかし運命のいたずらが、政宗を救うことになる
自らがこの戦いに関わっている間に常陸の国に里見が攻め込んできた為、佐竹の軍勢が撤収を余儀なくされたのだ
軍勢の大半を失ったことで、相馬や蘆名・二本松は自陣は戦いを続けるには十分な戦力を備えていないと判断し、戦いを辞めることにしたのだ
政宗は命をつないだ
この戦いから、政宗は多くを学んだことだろう
こののち、政宗はもっと戦略的に物事を考えるようになる
年を重ねるごとに、彼の名前と戦果は日本中に知られるようになった

今日のビデオでカバーしたことは
東北地方は群雄割拠の状態で、日本の他の地方とそれほど違わなかった
しかし、この状況から頭一つ抜け出したのが伊達政宗だ
子供の頃は色々不幸だったが、成長するにしたがって自信を持ち、鉄拳を用いて伊達家を治めるようになった
伊達家を継いで一年目に大規模な戦いに参戦しが、彼の激情型の人格が災いして敗戦に直面したりもした
二本松を相手にした戦いでは多勢に無勢の状況を強いられたが、運を味方につけて切り抜け、その後彼の名は日本全国にとどろくことになる


海外「こんあにあるなんて知らなかった…」長巻に小太刀!日本の刀の種類に海外興味津々(海外反応)

海外「こんあにあるなんて知らなかった…」長巻に小太刀!日本の刀の種類に海外興味津々(海外反応)

投稿者
日本刀の種類について(歴史とどのようにつかわれたか)



直刀
 カーブがない刀で諸刃と片刃がありますが一般に片刃のものをいいます 両刃のものは剣か剣とよばれてるようです どちらも2フィート(60cm)程度です 腰につけます 侍が台頭するまえから使われていました 剣作りの技術は中国から伝えられ一番有名なものは「草薙の剣」で皇室の三種の神器になっています 500年には剣は作られなくなり直刀は900年終わりごろにはつくられなくなりました

蕨手刀
 300年頃から見られるようになりました これは最初の曲線がある刀です
これも1本で作られていて2フィートよりも短い事が多い このかたなは北方の蝦夷が作っていた刀です 最初のものはまっすぐで持ち手のみにカーブがついていましたがだんだんとそれが刃のほうにもカーブがつくようになりそして長く細くなっていきました
これが太刀に発達していったという歴史家がいます 確かにとても似ています
しかし太刀と長い蕨手刀は違い手法で作られています

太刀
大きな刀という意味の太刀は900年頃から見られるようになりました 刃全体がカーブしていて刃と持ち手が別れています 刃の部分は30インチ(75cm)くらいです 太刀は刃をしにして腰にさげられていました 太刀にひもを通す穴がつけられているものもありましたが太刀を吊るすためのアクセサリーもありました 
太刀が反っているのは刀はつくよりも引く事が多くその方がつかいやすかったからと言われていますがそれは間違いで刀を作る過程で刃を強くしなやかにするために曲がっていったと考えられます

小太刀
小太刀は小さな太刀っていみでちょっとおかしいけどね だいたい2フィートよりも短い

打刀
1100年頃でてきた刀で65センチほど 短いので刃を上にして持ち歩く事ができ安かったので最初は歩兵が持っていたのですがこの方が便利なのでだんだんと侍もこちらを好むようになりました 曲がっていて刃を上にしておける事で刀を抜いてそのまま使う事が出来るようになりました 

刀 
平安時代では刀の形はすべて同じで長さによって名前が変わっていた 長さの単位として使われたのは尺ですがこれは地域や時代によって長さが違ったのでとてもわかりにくかった
刀は反っている片刃のものはすべて刀ですが現代では彼方と言えば2〜3尺のものを表します
刀は実際の戦場ではあまり使われていませんでした 騎乗してつかうには短すぎたので弓矢かポールアーム的なものを使う事が多く刀は最後の手段でした
大太刀/野太刀
すごく大きな刀って意味です 鎌倉時代に人気があり刃の長さは3尺 これは騎乗で使うものでした 長かったので背中に背負う形で持ち歩きました すぐにあまり使われなくなったのですが見た目に格好がいいので儀式に使われる事がありました

長巻き
持ち手が長い刀をいいます 刀の場合刃と柄は別々なので大太刀の柄を変えて長巻きに 更に変えて薙刀にする事もできました 

脇差
脇差しの刀の略で脇差しは1〜2尺の刀です 脇差はだいたい刀とセットになっていました 江戸時代になるとこの刀のセットが侍のシンボルになっていきました 刀を持ち歩けるのは侍だけでしたが脇差しはだれでももつ事ができました 江戸時代には平和な時代だったので刀を使うような戦いはあまりなくて脇差しが短く使いやすいので決闘やケンカで使われていました

短刀
短い刀という意味ですが結局はナイフです 1尺よりも短いものは短刀です 武士が刀を使っていた頃には短刀がセットになっていました 女性はこの短刀を自衛のために持っていた事がしられています 


海外「代償が…」なぜ日本は終戦後に天皇制を維持できたのか?その理由に海外興味津々(海外反応)

海外「代償が…」なぜ日本は終戦後に天皇制を維持できたのか?その理由に海外興味津々(海外反応)

投稿者
太平洋戦争に敗れた日本が天皇制を維持できた理由

皆も知ってると思うけど、第2次大戦初期に枢軸国を束ねてたリーダーたちは終戦の頃にはその地位を追われてたよね
この唯一の例外が、日本の天皇裕仁
真珠湾奇襲に素晴らしいアイディアだってGOサインを出したこの天皇が、戦後もその生涯を閉じるまで天皇としての地位を維持してたんだ
一体どうして彼は地位をはく奪されたりしなかったんだろう?



一番わかりやすい理由は、戦後の日本を管理しやすくするため
他の枢軸国のリーダーたちとは違って、天皇はただのトップってわけじゃなかった
裕仁天皇は国民からあがめられてたってだけじゃなくて、同盟国側は彼を排除しようとする試みは大きな抵抗にあうって分かってたんだ
これに唯一何の注意も払ってなかったのがスターリン
日本が無条件降伏を宣言した後にも、彼は日本に対して戦力を拡大し続けた
この無条件降伏に含まれてたのが、天皇の地位をはく奪しないって言う事
当初アメリカ側はこの条件に賛成しなかった
だって、無条件降伏だからね
トルーマンは、日本に対して天皇制を維持することは認めない、とははっきり言わなかったんだ、ここが彼のずるがしこいところだ
日本国民が望む政府を作る、って言った
天皇が国民に人気がある、って言う事実を見て日本政府は、天皇はそのままだろうって思ってたんだ
でも、実際はそうじゃなかった。。。。
天皇が無条件降伏を受け入れた時、天皇の地位は確固たるものではなかった
アメリカでは、天皇を戦争犯罪者として裁判にかけるべきだ、っていう風潮が強かった
でも、アメリカのリーダーたちにとって、事はそれほど単純じゃなかったんだ
彼らには日本に進駐するに際して、色んなミッションがあった
まず最初は、できるだけ非暴力的に進駐を行う事
天皇を生かしておくことで、これはよりやりやすくなるだろうって考えた
次にアメリカが懸念してたのが、日本での共産主義の台頭
天皇制を継続することで、共産主義の台頭を抑え込めるだろうって考えたんだ
日本が占領されることになれば、ソビエトがやってくるのは火を見るよりも明らか
そうなれば、日本が東西ドイツみたいに分断される可能性もある
これは何としても避けたかった
第3が、天皇がいた方がその後の日本の占領もリフォームもよりやりやすいって事
法律の変更にしても、アメリカが押し付けたって思われるより、天皇の署名が入ってる方が受け入れられやすいからね
と言いながら、外国勢力だけが天皇制の廃止の圧力をかけてたわけでもないんだ
日本政府の中にも、もっとリベラルな考えを持っていた人もいた
日本には全く新しい制度と、新たな天皇が必要だって考えた
彼らは裕仁天皇の皇太子を新たな天皇として迎えようと提案していた
でも、これにはアメリカ側が強固に反対した
天皇を排除したって思われることは必至で、新たな天皇が傀儡だって思われるだろうから
日本を、長期的には反共産主義への同盟国に仕立て上げたかったアメリカとしては、これは上手くない
日本に武器を放棄させるときに一番難儀だったのが、じゃどうやって国を防衛するかってところ

最終的に裕仁天皇が裁判にかけられることはなく、天皇制は維持された
彼は天寿を全うするまで、天皇であり続けたんだ
彼が立場を失わなかった理由はとってもシンプルだったんだね
アメリカの指導者と裕仁天皇の間には、愛も友情もなかったけど、アメリカが冷戦に勝利するためには、裕仁天皇が在位してることが必要だったんだ


海外「恐ろしい…」日本の進軍を止めるために中国国民党が黄河を決壊させた『黄河決壊事件』に海外議論(海外反応)

海外「恐ろしい…」日本の進軍を止めるために中国国民党が黄河を決壊させた『黄河決壊事件』に海外議論(海外反応)

投稿者
1938年に中国国民党軍が日本の侵略を邪魔するために黄河の流れを変えて洪水を起こして80万人もの死者を出した

黄河決壊事件
黄河決壊事件(こうがけっかいじけん)は、日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした黄河の氾濫である。事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国語では花园口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。軍事目的の環境破壊として史上最大とされる。




海外「福沢諭吉の頭の良さ…」鎖国中に海外視察…西欧に渡った日本人に海外興味津々(海外反応)

海外「福沢諭吉の頭の良さ…」鎖国中に海外視察…西欧に渡った日本人に海外興味津々(海外反応)

投稿者
鎖国の後で最初にヨーロッパに行った日本人

アメリカから戻って来た最初の年に、私(福沢諭吉)は英和辞典を発行した
これをきっかけに、私はその後数々の著作を発表する
次の2-3年の間は、英語学習と教鞭をとることに時間を取られていた
しかし、文京2年になると、政府が派遣した使節団の一員としてヨーロッパを訪れる機会が巡ってきた
私は400両の支度金を得たが、旅費のすべては政府が負担していたので、この400両はすべて自分のために使うことができた
自分自身の為にはそれほどお金は必要なかったので、これは別の事に使うことにした
故郷で暮らす自分の母親に100両送った
アメリカに行っている間、故郷の中津では私に対するうわさが広がっていたらしい
そのうちの一つは、私は異国で命を落とした、というものだ
外国嫌いが蔓延していたので、これは致し方ないことだったのかもしれない
母親には申し訳ないと思ったが、頭を低くしてやり過ごすしかなかった
送金することで自分の長期間の不在の埋め合わせができるとは思わないが、100両は私たちにとっては今まで目にしたことのない大した金額だった



我々は12月にイギリス海軍の船(HMS Odin)に乗船して出発した
使節団は全員で40人ほどだった
様々な役割を担う一般人に加え、サムライの名家から参加している者たちもいた
彼らは、召使いとして連れて行ってくれるようにこっそり頼み込んで、船に乗り込んでいた
我々は和服を着、両刀を手挟み、その格好でロンドンやフランスの街角を歩いた
人目を引いたことは間違いないだろう

パリ
パリに到着し、フランス政府から正式に挨拶を受けた後に我々が最初に要請したのは、使節団の団長の宿泊先の近くにできるだけ多くの団員を宿泊させてもらう事だった
我々の荷物は相当な量だったから
異国で団員たちが別々の場所で宿泊することに対する安全性への懸念で、団長はかなり神経質になっていた
招へい元はこれに理解を示し、使節団の人数を尋ねた
我々が40人だと答えると、相手は“たった40人か、我々のホテルではその10倍から20倍の宿泊客を泊めることができる”と逆に驚いたようだった
実際にホテルに到着すると、相手の言っていたことが本当だと驚かされた
我々の拠点となったホテル・ドゥ・ルーヴは、宮殿の向かいに建つ5階建ての巨大な施設だった
客室数は600以上で、従業員は500名を数え、一度に1000人以上の宿泊客に対応可能
ホテルの中で迷子になるのではないかという不安さえ覚えた
廊下や室内で光きらめくガス灯のお陰で、外が暗くなったのにも気付かないほどだった
ダイニングホールには山海の食物が並び、外国の食事を毛嫌いする団員達もその豊富な食物には驚かされた
日本からコメを持ち込んでいたが、ホテルのキッチンでコメを炊くことはなできかったし、日本の馬毛に灯す油ランプなど使うべくもなかった
これらの使い道など考えられなくなってしまった我々は、持ち込んだすべてのコメやランプをホストの中でも位の低いスタッフにタダであげてしまった
我々は西洋の習慣に疎かったので、戸惑うことも多かった
日本で士族がトイレに行く時は、家来が提灯を持って供をするのが一般的な習慣だ
供のものは、トイレの開け放したドアの先で主人の刀を抱えてしゃがみ込んで主人が事を終えるのを待っているものだった
同じことを忙しいホテルの廊下に設けられたトイレでもやって、廊下を通りかかる人たちを
赤面させたものだ
廊下はガス灯で煌々と照らされていたにも関わらずだ
通りかかった自分が静かにトイレの扉を閉め、西洋の仕来りを説いた事は、想像に難くない

私はロンドンとパリで出会った人たちから、当時の政治状況などをできるだけ学ぼうとした
しかし、当時の私はまだ西洋の歴史に詳しくなく諸々の事を正しく理解できないことも多かった
しかし、今当時の日記を読み返してみると、ナポレオン3世が当時ヨーロッパではとてもパワフルであったことが分かる
そしてその隣国であるプロシアが勢力を拡大していたのが理解できる
オーストリアとの戦争は、コンスタントに話題に上っていた

ロンドン
ロンドンでは議会の議員の一人から、彼の属する政党の名で議会に提案された法案のコピーを見せてもらう機会があった
これは、日本担当大臣オールコックの不遜な態度に反対するものであった
オールコックの当時の認識は、日本は軍事力に敗れた国だ、というものだ
法案の中で例として用いられたのが、オールコックが芝で騎馬のまま神聖な場所に立ち入ったということ
この法案に接して、私は胸のつかえが降りたような気がした
外人はすべてが悪人ではない、ということが分かったからだ
我々の政府の経験不足と国政関係への無知のせいで、諸外国に良いように扱われていると感じていたが、その大臣の母国を訪れることで温かい心を持った人たちがいるということを実感できた
この出来事の後で、更に“世界と自由に交流する”という自分の信条が強くなった

私は、選挙とはどのようなもので、議会とはどう機能するのかを訊ねた
彼は道理の分からない子供に対するように微笑みながら答えてくれたが、私には本当に理解するのが難しいことだったのだ
保守派やリベラルなど異なる政党が存在し、常に議会で争っていた
私には彼らが何について議論し、平時にどうして争う必要があるのかがよく分からなかった
あの二人は政敵だ、と教えられたが、彼らは同じテーブルにつき一緒に食べたり飲んだりしている
これを理解できるようになるまでには、かなりの時間が必要だった
この話を聞いてから、自分の腑に落ちるまで5-10日ほどもかかった

ヨーロッパ周遊において、我々を一番歓迎してくれたのがオランダだ
これは日本とオランダが温めてきた過去300年の友好関係を考えれば自然な事だろう
我々の使節団で外国語を一つでも話せる者は、皆オランダ語を学んでいた
言葉もある程度通じる、第二の故郷のように感じられた
オランダでは、ある重要な出来事があった
アムステルダムで商人と話す機会があった時、土地の売買は自由に行うことができるのか訊ねると、その答えはYesだった
外国人にも土地を売るのかという問いへの答えもYes
誰でも、その土地に対する対価を支払うことができるなら、土地の大きさに関係なく外国人にも土地を売る、という事だった
では、もし外国人が対価を払って土地を買い、そこに城壁を設けることもできるのか、という私の問いに対しては、オランダ人の商人は少し戸惑ったように見えた
彼は、「そんなことは考えたことはなかった」と言い、イギリスやフランスの商人がそんなことにお金を使うとはとても考えられない、と答えた
我々は、お互いの意図が理解できなかったし、それは通訳も同じだったようだ
我々の大使館の内の一つは、必要以上に外国に出かけたり外国人との交流は控えるべきだ、と主張していた
海外を旅している間ですら、封鎖主義を取ろうとしていたのだ

ここでは自分の弱みに言及しておかなくてはならない
私はいつでもおっちょこちょいで内弁慶なところがあるが、生き物を殺したり、怪我をしたものを見るのが恐ろしいという面も持っている
ロシアを訪れた時、外科手術を見学する機会があった
私の友人たちは医者だったので、この機会をすごく楽しみにしていた
彼らは私もそこに引き込んだ
病院の手術室で、レインコートのようなものを着込んだ執刀医は、まな板のようなところに寝かせられた患者にクロロフォルムを与えた
医師は光り輝くナイフを患者の側腹部に当て切り込み、そこから噴き出した大量の血が執刀医のガウンを濡らした
この手術は胆石を取り除くためのもので、腹部にペンチのようなものを差し込み石を取り出していた
このシーンを見た私は気を失ってしまい、友人が私を見学室から外に運び込み水をくれたことを覚えている

私たちがヨーロッパ訪問を始めたころから、日本での反外国のセンチメントは強くなってきて、我々へのプレッシャーも強くなってきた
ロシアでは、国境問題に関する交渉が行われた
私もその席に同席したが、ロシア側は我々の主張に全く取り合わなかった
我々の交渉担当者は日本の領土が青、ロシアの領土が赤に塗られた地図を取り出し、国境を示し、この一方に属するすべての土地は日本のものだと主張したのだ
ロシア側は、こんなに簡単に領土が決められるなら世界中を赤に塗ることもできる、と我々を揶揄した
交渉は難航し、最終的には日本側はあきらめざるを得なかった
交渉の場にいた私は、日本人がこれほど偏った誇りに凝り固まっていたら、日本の将来はどんなものになるのか、と暗澹たる気持ちになったものだ
諸外国は、“ギブアンドテイク”を基本に交渉事を行っているのに
外国排斥の機運が高まれば高まるほど、国としての崇高さを失っていくのだ
自国が特別だという考えに凝り固まることから生じる、将来への不安を禁じ得ない

ある日、招へい団の一員とプライベートで会話をする機会があった
彼は私を個室に招き入れ、私に個人的なことを質問した
私自身は、日本は野心を持った若者には適さない国、と言った印象を持っていた
日本は小さな国なので、大きなことをするのは無理だと感じていた
彼は、それならロシアにわたってはどうか?と聞いてきた
私は、自分は大使館の一員として働いているので、その地位を辞してロシアに留まることはできない、と正直に答えた
彼は「そんなことは簡単だ」と言い、自分の気持ちが決まったら何でもすることができる
必要なら自分がかくまってやろう、とまで言った
「ここには様々な職業や機会があり、富を築くことも容易だ」と語る
これは、小さな個室の中で真剣に語られたことで、とても冗談だとは思えなかった
この出来事は私の中にインパクトを残した
ロシアは他のヨーロッパの国々とは違う、ということは聞いていたが、このでき後を経て私はその意味が理解できたのだ
昨年アメリカを訪れた時や、今回のイギリスやフランス訪問の最中も、多くの人たちは“日本に行きたい”と語っていた
日本で仕事を見つける手助けをしてほしい、と頼んでくる人たちばかりで正直うんざりしていたのだ
自分にイギリスやフランスに留まるように示唆する人は誰もいなかった
しかし、ロシアでは私にロシアに留まるように熱心に説く人がいたのだ

我々はフランスに戻り、そこから日本に向けて帰国の途に就くことになっていた
そこで生麦事件の事を知らされた
突然、フランス政府の我々に対する態度が変わった
一般の人々の反応は知る由もないが、我々に対する公式の反応は冷淡なものだった
船に乗り込むときに、1.6キロほどにわたり騎馬兵が整列していたが、これは送別の意味で配置されているわけではないことは明らかだった
フランスの軍事力を静かに誇示するものだった
発砲されることはなかったが、この冷淡さは耐えられないほどのものだった
我々はポルトガルのリスボンで最後の公式行事を終え、地中海に入った
その後インド洋を航行し、最終的に無事日本に戻ることができたのだ

日本に戻ったころは、外国排斥の機運がピークに達していた時だった
日本中が外国排斥の機運に飲み込まれおり、これを止めるのは不可能に思えた
これまではこの外国排斥の動きは一部の社会層の中のみで起きていることで、人々の日常生活には無縁のものだったが、私たちがヨーロッパから戻ったころには幅広く見られるようになっていた
浪人どもが突然ヨーロッパと商売をする商人の店に現れ、それを恐れた店が扉を閉ざすこともあった
浪人は勝手気ままにふるまい、彼らが次にどんな振る舞いに至るのか予測することもできなかった



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