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海外「炎上商法かよ…」文化盗用として炎上していたカーダシアンの『キモノ』の商標登録撤回に海外喝采(海外反応)

海外「炎上商法かよ…」文化盗用として炎上していたカーダシアンの『キモノ』の商標登録撤回に海外喝采(海外反応)

キム・カーダシアン、下着に付けた「キモノ」の名称を撤回

体形補正下着のコレクションを「キモノ」と命名して文化の盗用と批判されていた米タレントのキム・カーダシアン・ウエストさんが1日、この名称を撤回すると発表した。

ツイッターとインスタグラムに掲載した声明の中でカーダシアン・ウエストさんは、「慎重に検討した結果、ソリューションウェアのブランドを新しい名称で立ち上げることにした」と表明した。

カーダシアン・ウエストさんが「キモノ」と名付けた肌色の下着の新しいコレクションを発表したのは6月25日。この単語の特定のフォントを使ったバージョンについて、米特許商標庁に商標登録を申請しているらしいとも伝えられた。




海外「日本のアニメだったなんて知らなかった…」1963年から2017年まで!東映アニメOP集に海外ファン絶賛(海外反応)

海外「日本のアニメだったなんて知らなかった…」1963年から2017年まで!東映アニメOP集に海外ファン絶賛(海外反応)

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1963年から2017年までの東映アニメOP




海外「宮本茂がいなければ人生変わってた…」マリオにホビット!8ビット時代の名作ゲームに海外興味津々(海外反応)

海外「宮本茂がいなければ人生変わってた…」マリオにホビット!8ビット時代の名作ゲームに海外興味津々(海外反応)

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ゲームが10億ドル市場になると誰が予想したであろうか 8ビットビデオゲームの歴史を紹介しよう 素晴らしい先駆者たちにささげる、最大の謎とその闇を解き明かすのだ



「ホビット」
ヘスス・マルティネス・デル・ヴァス スペイン在住 「ホビット」の大ファンだ このゲームをプレイするためだけに英語を勉強した フィル・ミッチェルとヴェロニカ・メガが制作した、80年代のビデオゲームだ しかしゲームのリリース前に、ヴェロニカは失踪した ヘススはヴェロニカの行方を追った 失踪した当時最高のテキストゲームのクリエイターを見つけるクエストの始まりだ
1982年タイム誌のマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたのはパーソナルコンピューター 科学者向けの大型機械が、自宅で使える小型の機会になったのだ 64ビット型の最新機械が人気を集め、より広大で複雑なビデオゲームの製作が可能になった とある小規模なオーストラリアのチームが目指したのは最高のテキストゲームを作ること まだマウスがなく、キーボードですべて作成していた時代 成功のカギはファンタジーのストーリーだった 書いたのはメルボルンのアルフレッド・ミルグロム ビデオゲーム界のパイオニアだ 「当時はまだビデオゲームの何たるかが誰にもわかっていなかったし、なんの決まりもなかった だからメルボルン大学の2人がいちばん良く知っていたんだよ」チームにはそのふたりの大学生が参加した 「フィルはプログラマー ヴェロニカは謎を創作する係 ホビットの脚本を担当したのも彼女だ 素晴らしいアドベンチャーゲームになったのは彼女のおかげだよ」ゲームはシンプルな一文で始まる 『あなたは穴のような居心地のいいトンネルのなかにいます』プレイヤーがコマンドを入力すると、そこから外の世界へ 1982年当時はパックマンの全盛期 だがヴェロニカとフィルはもっと複雑なデジタル世界をつくろうとしていた 「大ヒットしたんだ ホビットをやるためにパーティが開かれるくらい 25万部は売れたかな だがリリース以降、ヴェロニカと連絡がつかなくなった その後のことはわからない」

ヴェロニカはゲームがヒットしたことを知っているのだろうか? ロシアにもイギリスにもスペインにも大ファンがいて、このげーっむをやるためだけに英語を学んだようなひとがいるということを? 「ぼくの名前はヘスス ゲームが大好き このゲームを知ったことがぼくの人生のターニングポイントになった ゲームの開発者の話を聞いてみたいといつも思ってる」それは彼だけではない 世界中のファンがヴェロニカを探している 本当に失踪したわけではないが、80年代はまだインターネットもなく彼女と直接コンタクトを取る方法はなかった しかしいち早くヴェロニカのメールアドレスを手に入れたヘススは早速メールを書いた
「わたしはヴェロニカ・メグラー博士です」彼女はオレゴン州ポートランドにいた ごく普通の生活を送っている 「ゲームが大ヒットしたことは知らなかった 10年くらい前に、大学で臨時講師をしていて、ビッグデータのサーチエンジンを作ったの わたし自身はゲーマーじゃないわ ホビットを作ったあとも、ゲームは全然していない」 ファンからのメールでヴェロニカが世に現れたわけではない 「女だからプログラマーになれないと思っている人がたくさんいたから ホビットはわたしの財産 わたしの背中を押してくれるもの 男女差別を乗り越えさせてくれるもの 臨時講師のわたしが業界を変えたなんて、誰も思ってなかったでしょうね ハハ わたしの仕事は最高のテキストアドベンチャーゲームを書くこと わたしはやり遂げたわ」

「マリオ」   
下水管を通り、キノコをキャッチし、ピーチ姫を救う カメを蹴散らすイタリア人水道屋のことなら何でも知ってると思ってる? いや、何にも知らないね
ニンテンドーが創設されたのは19世紀 1886年にトランプの製作を始め、のちにおもちゃや即席ごはん、タクシー業にまで手を広げた 1970年代にニンテンドーは大きな破産の危機を迎えていた 当時はビデオゲームの最盛期 ニンテンドーも若いアーティストを迎え入れた ゲーム業界を根本から変えた男、シゲル・ミヤモト マリオを作った男だ
では、そのマリオ・シガーレに会いに行ってみよう かれはまだシアトルに住んでいた 実は有名人だったマリオ なんとストリートの名前にもなっている 連絡してみたが、コメントしたくないとのことだった
ドンキーコングのあと、われらがスターは主人公になった ミヤモトはマリオのゲームを制作 パイプを通るなら、水道屋だ ぽっちゃりした、ブルーカラーのヒーロー マリオはすでにゲームキャラ以上の存在になっている マリオも、クリエイターも、伝説なのだ

「ポリビアス」
太平洋側の北西部にはたくさんのものがある 美しい風景 温暖な気候 そして人を狂わせるという、謎多きビデオゲーム 
それは1980年代 ポートランドでは冷戦の妄想が最大の都市伝説を造り、それがビデオゲームになった 「ポリビアスのストーリーはアーケードゲームの聖杯のようなもの」人々がポロビアスの秘密に迫ったのは約40年前だ
「見た目はごく普通のアーケードゲームに見えるかもしれないが ポリビアスの内部は最先端の調査システムが内蔵されており、ユーザーの行動を追跡している ポリビアスにすべて見張られていると思ったほうがいい」
1950年から70年のあいだ、CIAは敵を弱体化させるため様々な実験を行っていた それがプロジェクトMKウルトラ 完璧な尋問方法を見つけるための実験だ だがこの秘密実験が1976年に世間に知られてしまう 様々な憶測が流れ、その恐怖感が映画にも持ち込まれた だが最大の都市伝説ビデオゲームも、MKウルトラの影響を受けた それはポートランドの町に突然現れた、一台の謎のアーケードゲームの機械から始まる
ローガン・ボーデンはポートランドにあるアーケードゲームの経営者 「都市伝説は好きだよ ポートランドに伝わるいろんな話を集めてる」ポリビウスもそんな話のひとつ それは友だちとテレビを見ているときに起こる 「ポリビアスというのは、1981年にポートランド周辺に置かれたアーケードゲームの機械 そのゲームをプレイすると、体がしびれたり麻痺したようになって、悪夢を見る そしてそのゲームをやりたくて仕方なくなるという 数週間たつと、黒いスーツの男たちが現れ、ゲームの背後をあける 集金に来たわけではなく、データの回収をするんだ あれはきっとMKウルトラと関係があるね ポリビアスは数か月経つと、突然姿を消した 以来誰もあのゲームを見ていない」

ブライアン・ダニング 都市伝説の専門家「ポリビアスは調べれば調べるほど、実話なのです 1981年、ポートランドであるゲームのやりすぎで体調を崩した子どもが2名いることが報告されています その2週間後、政府職員がゲームを撤去 このゲームは政府が訓練用に使ったことがわかっています ゲームの名前はポリプレイ アーケードゲーム業界は様々な記録が残っており、月刊誌もありました ところがどんな記録を調べても、ポリビアスという名前のゲームは出て来ません それは事実です」
せっかくのゲーム名をなくしてしまうのは惜しい そこで別の角度から動き出した人たちがいました 教師でアーケードゲームオタク ポール・サンタクルーズは都市伝説に息を吹き込んだのです 「そうだ、おれがポリビアスを作ろうって思いついたんだよね」でも、内容は? 2007年、ゲーマーのコミュニティでもうストーリーもグラフィックも出来上がっていた ポールはそこからもう一歩進んで、完全なアーケードゲームの形にしたのだ 「素材は全部そろってたからね あとは形にするだけ おれも伝説の一部になりたかったんだ」伝説は本物のゲームになった 「面白いことだよね」「ポリビアスは実在する いまはね」


海外「ちゃんと自国の文化について考えてるんだね!」日本人が思う日本人っぽいコトに海外興味津々(海外反応)

海外「ちゃんと自国の文化について考えてるんだね!」日本人が思う日本人っぽいコトに海外興味津々(海外反応)

投稿者
今日は東京で、日本人ぽいこと、日本人がやりがちなことについて聞いてみました
もっと伝統文化的なこと、日本料理とかそういう話になるかと思っていたんですが、逆でした 日本人はほかの国と比べて自分たちの文化はどうなのかをちゃんと考え始めているようですね オリンピックを控えているからでしょうか オリンピックで来年どうなるかとても楽しみです
いかにも日本人ぽいと思うことは何ですか? コメントしてくださいね
 



海外「当時最強の戦闘機…」ゼロ戦の生みの親『堀越二郎』の生涯に海外称賛(海外反応)

海外「当時最強の戦闘機…」ゼロ戦の生みの親『堀越二郎』の生涯に海外称賛(海外反応)

ゼロ戦の生みの親 堀越二郎



堀越二郎は彼が生きた時代で最も優れた日本人の航空工学のエンジニアだったと言われてる
彼は日本人が気軽に飛行機で旅行できる日が来ることを夢見ていたんだ
でも彼が生まれたときは、日本は戦争中で、彼の才能は第2次世界大戦中に爆撃機を開発することにしか活かされなかった。。。。
堀越が有名なゼロ戦を設計したんだ
当時最も優れたドッグ・ファイトが行える爆撃機として名を馳せ、“カミカゼ”と対になって知られるようになったよ

本題に入る前に、みんなにちょっと思い出して欲しいことがある
子供の頃どんな夢を持ってた?
宇宙飛行士になりたいっていう夢を持ってたとしても、大きくなるにつれてそんな夢は忘れちゃうよね
でも、二郎は子供の頃から飛行機のことばかり考えてた
彼が生まれた1903年頃は、ヨーロッパで生まれたモダンテクノロジーを取り入れて、日本は近代化への道を歩んでいたよ
彼の生まれた群馬県藤岡では、当時未だ人々は未舗装の道路を旅していて、畑を耕すのも手作業だった
二郎は空を眺めるのが好きで、たまには上空を飛ぶ飛行機も見えたりしてた
飛行機を飛ばすのは魔法みたいに思えて、二郎は最初パイロットになりたかったんだ
でも、子供の頃から近眼でメガネをかけてた二郎は、パイロットにはなれない。。。
変わりに飛行機を設計することが出来る、って事には気がついた
彼が唯一飛行機について学べるのは、ヨーロッパやアメリカの雑誌を通してだけだったけど、当時そんな雑誌に日本語訳なんてなかった
二郎は辞書で一言一言調べながら、文章を理解するしかなかったんだ
当時の航空業界で最も尊敬を集めていたのは、イタリア人のジオバニ・カプロニ
彼は、航空機の設計で斬新なアイディアを取り入れ試していることで有名だったんだ
彼が考察した空飛ぶボートの映像は世界各地で見られていたよ
大勢の乗客が乗った重たい飛行機が空を飛ぶなんて事は、考えられない時代だった
二郎もカプロニの映像を見た一人だ
二郎も子供の頃から夢見ていた飛行機を実際似スケッチし始めるようになる

二郎にとって幸いだったのは、東京大学が新たに航空工学科を開設したこと
ここで、二郎は自分と同じくらい航空工学に情熱を持った友人たちに出会う
その頃の東京は鉄道や路面電車が走り、街は古くからの日本と欧米のモダンな景観が混在してたんだ
二郎にはこの景色がすごくキラキラしたものに映ったことだろうね
彼の夢はもうすぐかなうかに見えたんだけど、そんな時1923年二郎が二十歳のとき東京は東京大震災に見舞われる
その時の被害は甚大なもので、鉄道は脱線し、ビルは瓦礫の山と化した。。。。
地震が起きたのは昼時だったから、昼食を作っていた台所から出火して、街はいたるところで火事になってた
この火事で38,000人もの人が命を落としたよ
この地震は津波も引き起こし、更に数千人の人が命を落とし、200万人もの人たちが住む所を失くしたんだ
この時に、当時日本に住んでいた韓国人や中国人が井戸に毒を入れる、っていういわれのないうわさが流れて、多くの韓国人や中国人が殺されたりもした。。。
二郎や彼の学友たちにとっても、学問なんてやってる場合じゃなくなっちゃったよ
二郎にとって幸いだったのは、彼の家族は藤岡にいたから、この震災で全てをなくさずに住んだってことだね
大学が再開された時に、二郎は学校に戻ることが出来て、学位を修得することが出来たんだ

大学を卒業して24歳で、彼はエンジニアとして最初の職を三菱で得ることが出来た
今じゃ三菱って言えば、カー・メーカーとして有名だけど、三菱の創業は実は1870年に遡る
当時三菱は帝国海軍から注文を得ようとして、ライバル企業としのぎを削っていたんだ
当時の日本では、旅行向けの旅客機なんて開発しようと思ってた会社は存在しなかった
彼に与えられた最初の課題は、1FM9を再構築することだった
最初の試作機は、パイロットが最高速度まで加速しようとした時に、無残にもばらばらに壊れてしまったんだ
当時三菱のような企業が生き残るには、海軍から契約をとることが欠かせなかった
帝国海軍は、中国との戦いに勝利する為にはもっと速度の出る飛行機が欠かせない、とエンジニアたちにはっぱをかけた
これを達成できなかったら、二郎も彼のチームメンバーも即お払い箱だよ
二郎は昼夜を問わず、計算式とスケッチに取り組んだ
当時の日本の飛行機はほとんどが他の国で開発された飛行機のパクリだったから、独自のデザインで設計するのはすごく難しい課題だった
二郎は29歳でとうとう製造に値する、全く新しい航空機を設計することに成功する
それが三菱1MF10 だよ
最初は単翼だったんだけどテストの失敗の結果二郎は再計算を実行して、最終的にA5Mを完成させる
これは、当時世界初の単翼飛行機だったんだ
でも、これは世界からは全く無視されて、当時の航空雑誌は、日本の戦闘機は欧米の真似をしたデザインばかりで、その性能は全く取るに足らないものだ、と論評していたよ
日本が欧米の技術に追いつくには、もっと長い年月が必要だって思われてたんだ
でも、それは思ったよりも早くやって来て、1940年には二郎はA6Mの開発に着手する
ゼロ戦って呼ばれたこの機体は、時速500キロのスピードに達し、7.7mmのマシンガンと20mmの大砲を2台を装着してた
その当時のアメリカ軍の戦闘機よりよほど速い飛行機で、日本はいきなり戦闘機サーキットで一番に躍り出たんだ

帝国海軍は、三菱の技術力と二郎に賞賛を惜しまなかった
中国戦では、A6Mは旧式の中国の戦闘機を全く寄せ付けなかったよ
でも、三菱のエンジニアたちは誰も、その戦闘機がアメリカを攻撃する為に利用されるって事は知らなかったんだ
最終的にアメリカが第2次世界大戦への参戦を決めた頃、日本軍の資源はすごく手薄になってた
でも、ゼロ戦が日本軍に新たなパワーを与えてくれた
当時連合軍はゼロ戦のパワーを過小評価してた、航空工学の分野では日本はスタートラインに立ったばかりだから、そんなにスゴイ爆撃機を開発できるなんて露ほども思ってなかったんだ
最初はゼロ戦に全く対抗できなかったアメリカ軍も、ほとんど無傷のゼロ戦を回収することに成功して、二郎の技術力を検証してその弱点を見つける機会を得る
ゼロ戦の機体はすごく薄い金属で出来ていたから、数発の攻撃で燃料タンクを破壊することが可能だって気がつくんだ
機体の速度が速いって事は、急に方向転換をかけるのが難しい、って事でもあるしね
ゼロ戦は撃ち落されるようになり、経験豊富なパイロットを失った軍は、経験の浅いパイロットを導入するしか手がなくなる
このような若いパイロット出された指示が、機体ごと的の軍艦に突っ込む、カミカゼ攻撃だ
当時のプロパガンダビデオでは、日本人は狂信的だって言われ続けてた
ゼロ戦パイロットで生き残ったサカイ・サブローは、このような説に真っ向から反対し、カミカゼ・パイロットは洗脳されてたわけじゃなくて、自分の命を賭けて、兎に角家族や国土を守ろうと必死だったんだ、って語ってるよ
彼は又、20時間程度の飛行時間しか経験の無いパイロットが、アメリカに向かっていけ!、って言われたら突っ込んでいくしか方法はなかった、って言ってる
天皇陛下のために戦ってた、って言うのは嘘っぱちだよ、皆家族を守るために戦ってたんだ

カミカゼのアイディアは二郎の中にはなかったよ
彼は、何度も再利用できて何年も使える飛行機を考えてたんだ
撃ち落されてもパイロットを守る安全性もしっかり考慮してた
二郎は後に出版された自身の日記の中で、真珠湾攻撃にA6Mが使用されたことがどれ程ショックだったか記してる
技術力の最先端を誇るアメリカに対して日本が戦いを挑んで勝てるとは、誰も思ってなかったし、政府が外交努力で問題を解決するって信じてたんだ
このような悲劇に日本を追い込んだ軍と政府に憤りを禁じえない
戦局の悪化以外にも1944年の地震により、三菱は戦闘機の製造を中止せざるを得なくなる
戦闘機の組み立て工場は地震で破壊され、エンジニアたちは近くの学校に拠点を移さざるを得なかった
二郎自身は、彼の設計した戦闘機が大日本帝国崩壊の原因の一つとなっていることに、益々落ち込みを深めてた
二郎は具合が悪くなり、職場を離れざるを得なかった
この年、東京と名古屋はアメリカによる空襲を受ける
二郎は具合が悪すぎて、疎開することもできなかったよ
二郎は自分の子供たちや親戚を故郷の群馬に疎開させる、すごく田舎だったから危険も少なかったんだろうね
二郎の妻は名古屋を離れることを拒んで、二郎の看病を続けたんだ
病気が癒えて、職場に戻った二郎は、空襲の悲惨さに言葉もない
でもわずか一週間職場に復帰しただけで、二郎はこれ以上戦争に関わることは出来ない、って感じるんだ
二郎はようやく妻と共に群馬に疎開して戦火を逃れる

1945年にアメリカによる東京大空襲があり、80000人から130,000人の人が命を落とした
そんな状況でも、日本人は益々、大勢を救う為に少数の犠牲は仕方がない、って思うようになってくる
22歳のカミカゼ・パイロットは出撃の前に母親に宛てた手紙で、自分が如何に幸せな22年間を過ごし、その恩に報いるために出撃するという趣旨のことを書いているよ。。。
彼は、同期の兵隊と一緒にアメリカのUSSバンカー・ヒルに体当たり攻撃をかけ、何百人もの負傷者を出すことに成功する
真珠湾攻撃やバンカー・ヒルへの攻撃はアメリカ軍の大空襲に比べれば何てことない規模のものだけど、アメリカは日本への攻撃の手を緩めることなく、遂に広島と長崎に原子爆弾を投下することを決定する
この原子爆弾により、推定226000人に及ぶ人命が失われた。。。。
三菱は終戦までに10400機のゼロ戦を製造したけど、終戦までにその全てが破壊されたよ
権力の中枢にいた数人のエゴのために、何千人と言う尊い命が失われた
堀越二郎は死ぬまで、彼の作り出した戦闘機のために多くの若い命が失われたことを後悔してたよ

連合軍の占領を受け、三菱の戦闘機部門は1947年に解体された
二郎は飛行機の設計を諦め、東京大学の教授となった
二郎は日本の復興をこの目で見ることが出来た
1970年代にとうとう、民間の旅客機に搭乗して東京・ニューヨーク間を横断するんだ
堀越二郎は1982年78歳でその生涯を閉じる

2013年にオスカーを受賞した日本人のアニメ映画監督宮崎駿が、堀越の生涯を描いた『風たちぬ』を発表する



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