- Date: Tue 08 10 2019
- Category: 歴史
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海外「これが侍が名乗りを上げる理由か…」武士が台頭し源平合戦につながる日本の『保元の乱』に海外興味津々(海外反応)
海外「これが侍が名乗りを上げる理由か…」武士が台頭し源平合戦につながる日本の『保元の乱』に海外興味津々(海外反応)
投稿者
保元の乱 : 国全部があなたを攻撃する時どうやって自分をまもるのか
鳥羽元天皇が後白河を天皇にしてから鳥羽は亡くなりました
この時期源vs源 藤原vs藤原 平vs平と同じ家系の者たちが争っていました
後白河天皇は時間を無駄にする事なく藤原頼長をとらえ屋敷を取り上げました
引退した崇徳天皇は自分を守るために軍隊を呼びましたが味方してくれたのはほんの少数でした
この当時軍隊は専門の軍隊ではなく招集がかかってから地元の侍を説得して戦いに参加してもらうというスタイルでした
崇徳天皇は自分の小さな軍隊と共に集まり、後白河天皇は日本中からあつめた軍隊と共に宮殿に集まりました
ただし崇徳天皇の側には伝説の勇者 源の為義とその息子源為朝がいました
源為朝は夜襲をおそれ今すぐ責めていくべきだと主張しました
しかし藤原頼長がそれは卑怯だと反対しました
藤原頼長の計画が採用された結果 後白河天皇の軍隊は夜襲を仕掛けてきました
この後の事に関しては保元物語に書いてありそれは勝った側のお話なので何もかもを信頼するわけにはいきませんが
例えば人数
この当時兵士というのは騎乗している人達のみを数えていました
騎乗した人達それぞれに2、3人の歩兵がついていたので4500騎がいたとなると全体としては13000人の軍隊となりそれはちょっと大げさだと考えられます
もう少し信頼出来そうなのは日記です
軍師が残した日記には騎乗しているのが600ほど それに歩兵を足してだいたい2000あまり
これが妥当でしょう
天皇が日本中からあつめた軍隊にしては小さいと思われるでしょうがこのくらいが平安の戦争の規模でした
この時代の戦争では武将は名乗りを上げ自分が達成した事などを大きな声で叫ぶものでした
そして相手を指名するやり方でした
実際の戦いでこれが実際にされていたのかはわかりませんが実際に戦い自体は1vs1だったようです
頼りの藤原頼長は矢の傷のために重傷を負いました
そして屋敷は火をかけて燃えてしまいました
崇徳天皇は逃げたのですが流刑になりそこでなくなりました
崇徳天皇がなくなったあと幽霊になって敵を呪ったという話しがありますが それに関する動画も作ってあります
弓矢の天才であった源為朝は左腕の腱を切られ弓を引けないようにした上で放逐されました
その後記録にある中では一番ふるい切腹をした事が残っています
崇徳天皇に味方した人達は死刑になりました
この戦いで勝利した側にいたのは源義朝と平清盛でした
後白河天皇は権力をもつことが出来ました
源為朝はその後取り立てられいい地位を得る事が出来ましたが平の清盛はさらに高い地位を得たばかりか播磨藩の領主となりました
義朝とその家来達はもちろんおもしろくありません
これ以降 平と源は争っていく事になります
保元の乱は今までのような手回しなど違い武力で権力を奪い取った最初の戦いとなりました
比較的平和であった平安時代が終わり武力がものいう時代になっていくのです
国中のみんなに囲まれてる人を守らないといけないのはイヤだっただろうね
なるほど こうやって源と平がライバルになったんだね 未来のイベントの原因が見られたわけだ
自分が戦争をするなら自分の国に裏切られないようにしてねってことだよな
だからアニメではみんな戦いの前に名乗りをするんだね!
もうすぐ侍がでてくるんだ
藤原頼長はあんなバカみたいな提案をしたらいけなかったよ 戦争ではせめていくチャンスがあればそこを諦めちゃだめなのに
新しい戦争の匂いがするね 源平合戦かな
なんだって保元物語に影響を受けてるんだ 相手が名乗りを上げるまで相手は待ってあげてるんだからね だから侍はいつも1vs1で戦うんだよね
前近代の時代で日本が平和だった事なんてある? いつも戦争してるって気がするけど 争いの終わりは新しい争いの種になってるだけってかんじ
↑投稿者
平安時代はかなり平和だったんだ もう平安時代の終わり頃だからね 戦いがはじまってる
正々堂々と戦っているならそれは正しい戦いじゃないんじゃないか
近代日本にたどり着く間であとどれだけ動画がいりそうかしら
侍や騎馬の弓矢隊が出てくるまでの背景をやる予定かな? 本州の北側をまとめようとしたのと関係があるのは知ってるけどその辺りにすごく興味があるんだ 源平合戦が始まる前にその辺をやって欲しいな
結局だれが悪い奴でだれがよい奴だったっけ? わすれちゃった
藤原頼長 =バカ
次はやっと源平合戦だ 日本で一番有名な戦いだけど未だにアニメにはなっていないよね
そのうちモンゴルが日本にせめて来たことをやるかしら? それとももうやってるのに私が知らないだけ? おもしろい話題だろうなって思っただけ
↑投稿者
まだそこにたどり着いていないんだ モンゴルがせめて来たのは1200年代で 僕らはまだ1100年代あたりにいるもんだから
セーラームーンで戦う前に名乗って相手を指名するのは伝統だったってことか?
戦いの規模は参加した軍隊の大きさだけで決まるものじゃなくて歴史に対する影響力も大事なんだ何千もの人を動かそうとしたら準備は外交に時間がかかるけど急に何か起こった時には600人の侍で充分かもしえない それに馬をつかった戦いでは従者は一緒に戦うのがむずかしかったかもしれない 侍は900年代に発達したけれど実権を持ったのはこの保元の乱からだ 侍はヨーロッパの騎士と似てると思われる事が多いけどそれはちがう 貴族とその土地の領主がそれぞれ軍隊をもつという事はトラブルの元になるからね
琉球王国の記録によると源為朝は琉球王国の最初の王になったっていうんだ ただこの舜天は伝説的な人で次の王朝のために大事だったみたいなんだけどね この王朝にはくをつけるために源の血をひいてるっていってたようだけど
藤原頼長が戦争に対して理想ばかりをみていて現実を見てなかったのが残念だね 未亡人と孤児をつくっていたら名誉なんてすぐに窓からにげちゃうよ
https://www.youtube.com/watch?v=QQ0bHKNrcfY
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
投稿者
保元の乱 : 国全部があなたを攻撃する時どうやって自分をまもるのか
鳥羽元天皇が後白河を天皇にしてから鳥羽は亡くなりました
この時期源vs源 藤原vs藤原 平vs平と同じ家系の者たちが争っていました
後白河天皇は時間を無駄にする事なく藤原頼長をとらえ屋敷を取り上げました
引退した崇徳天皇は自分を守るために軍隊を呼びましたが味方してくれたのはほんの少数でした
この当時軍隊は専門の軍隊ではなく招集がかかってから地元の侍を説得して戦いに参加してもらうというスタイルでした
崇徳天皇は自分の小さな軍隊と共に集まり、後白河天皇は日本中からあつめた軍隊と共に宮殿に集まりました
ただし崇徳天皇の側には伝説の勇者 源の為義とその息子源為朝がいました
源為朝は夜襲をおそれ今すぐ責めていくべきだと主張しました
しかし藤原頼長がそれは卑怯だと反対しました
藤原頼長の計画が採用された結果 後白河天皇の軍隊は夜襲を仕掛けてきました
この後の事に関しては保元物語に書いてありそれは勝った側のお話なので何もかもを信頼するわけにはいきませんが
例えば人数
この当時兵士というのは騎乗している人達のみを数えていました
騎乗した人達それぞれに2、3人の歩兵がついていたので4500騎がいたとなると全体としては13000人の軍隊となりそれはちょっと大げさだと考えられます
もう少し信頼出来そうなのは日記です
軍師が残した日記には騎乗しているのが600ほど それに歩兵を足してだいたい2000あまり
これが妥当でしょう
天皇が日本中からあつめた軍隊にしては小さいと思われるでしょうがこのくらいが平安の戦争の規模でした
この時代の戦争では武将は名乗りを上げ自分が達成した事などを大きな声で叫ぶものでした
そして相手を指名するやり方でした
実際の戦いでこれが実際にされていたのかはわかりませんが実際に戦い自体は1vs1だったようです
頼りの藤原頼長は矢の傷のために重傷を負いました
そして屋敷は火をかけて燃えてしまいました
崇徳天皇は逃げたのですが流刑になりそこでなくなりました
崇徳天皇がなくなったあと幽霊になって敵を呪ったという話しがありますが それに関する動画も作ってあります
弓矢の天才であった源為朝は左腕の腱を切られ弓を引けないようにした上で放逐されました
その後記録にある中では一番ふるい切腹をした事が残っています
崇徳天皇に味方した人達は死刑になりました
この戦いで勝利した側にいたのは源義朝と平清盛でした
後白河天皇は権力をもつことが出来ました
源為朝はその後取り立てられいい地位を得る事が出来ましたが平の清盛はさらに高い地位を得たばかりか播磨藩の領主となりました
義朝とその家来達はもちろんおもしろくありません
これ以降 平と源は争っていく事になります
保元の乱は今までのような手回しなど違い武力で権力を奪い取った最初の戦いとなりました
比較的平和であった平安時代が終わり武力がものいう時代になっていくのです
保元の乱
保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は隠岐に配流された。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。
国中のみんなに囲まれてる人を守らないといけないのはイヤだっただろうね
なるほど こうやって源と平がライバルになったんだね 未来のイベントの原因が見られたわけだ
自分が戦争をするなら自分の国に裏切られないようにしてねってことだよな
だからアニメではみんな戦いの前に名乗りをするんだね!
もうすぐ侍がでてくるんだ
藤原頼長はあんなバカみたいな提案をしたらいけなかったよ 戦争ではせめていくチャンスがあればそこを諦めちゃだめなのに
新しい戦争の匂いがするね 源平合戦かな
なんだって保元物語に影響を受けてるんだ 相手が名乗りを上げるまで相手は待ってあげてるんだからね だから侍はいつも1vs1で戦うんだよね
前近代の時代で日本が平和だった事なんてある? いつも戦争してるって気がするけど 争いの終わりは新しい争いの種になってるだけってかんじ
↑投稿者
平安時代はかなり平和だったんだ もう平安時代の終わり頃だからね 戦いがはじまってる
正々堂々と戦っているならそれは正しい戦いじゃないんじゃないか
近代日本にたどり着く間であとどれだけ動画がいりそうかしら
侍や騎馬の弓矢隊が出てくるまでの背景をやる予定かな? 本州の北側をまとめようとしたのと関係があるのは知ってるけどその辺りにすごく興味があるんだ 源平合戦が始まる前にその辺をやって欲しいな
結局だれが悪い奴でだれがよい奴だったっけ? わすれちゃった
藤原頼長 =バカ
次はやっと源平合戦だ 日本で一番有名な戦いだけど未だにアニメにはなっていないよね
そのうちモンゴルが日本にせめて来たことをやるかしら? それとももうやってるのに私が知らないだけ? おもしろい話題だろうなって思っただけ
↑投稿者
まだそこにたどり着いていないんだ モンゴルがせめて来たのは1200年代で 僕らはまだ1100年代あたりにいるもんだから
セーラームーンで戦う前に名乗って相手を指名するのは伝統だったってことか?
戦いの規模は参加した軍隊の大きさだけで決まるものじゃなくて歴史に対する影響力も大事なんだ何千もの人を動かそうとしたら準備は外交に時間がかかるけど急に何か起こった時には600人の侍で充分かもしえない それに馬をつかった戦いでは従者は一緒に戦うのがむずかしかったかもしれない 侍は900年代に発達したけれど実権を持ったのはこの保元の乱からだ 侍はヨーロッパの騎士と似てると思われる事が多いけどそれはちがう 貴族とその土地の領主がそれぞれ軍隊をもつという事はトラブルの元になるからね
琉球王国の記録によると源為朝は琉球王国の最初の王になったっていうんだ ただこの舜天は伝説的な人で次の王朝のために大事だったみたいなんだけどね この王朝にはくをつけるために源の血をひいてるっていってたようだけど
藤原頼長が戦争に対して理想ばかりをみていて現実を見てなかったのが残念だね 未亡人と孤児をつくっていたら名誉なんてすぐに窓からにげちゃうよ
https://www.youtube.com/watch?v=QQ0bHKNrcfY
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
京都近辺にいた人間あのクーデタークラス
全然戦争じゃない