- Date: Tue 18 02 2020
- Category: 歴史
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海外「この頃からコピーが上手だったんだ…」わずか2丁をコピー…日本の鉄砲伝来の歴史に海外興味津々(海外反応)
海外「この頃からコピーが上手だったんだ…」わずか2丁をコピー…日本の鉄砲伝来の歴史に海外興味津々(海外反応)
投稿者
16世紀の鉄砲伝来―歴史家が紹介する日本と外国との最初の遭遇
第1部 種子島への外国船の到着
九州南部に種子島という小さな島があります
古くからの言い伝えによれば、ここには何世代にもわたって隼人族が暮らしていました
種子島という名前のとおり、ここでは独自の種が派生し、島としては最も小さなものでありながら、豊かな植生を享受していました
16世紀の天文時代の和暦8月25日、西村湾に大型の船が到着しました
どこの国からやってきたものか誰にもわかりませんでしたが、船には100名ほどの乗員がいました、そこには日本人とは全く異なる身体的特徴を持った者たちがいました
彼らが話す言葉を理解できる島民もいませんでした
異人を見た人たちは一様にその奇異さに驚きましたが、乗員の中には明王朝の学者五峯がいました
当時の西村の長、Onbenojo Tokitsuraは中国語の書物をよく理解した為、五峯と面会し砂浜に木の枝を使うことで筆談で会話を交わしたということです
彼らは筆談で、この異人たちがどこからやってきたのかを話し合いました
実は彼らは、西南の貿易者たちでした
彼らは位の上下という概念は持っていたようですが、所有という概念は持ち合わせていないようでした
そのため、飲み物を飲むときには、自分のカップを使うということはなく、物を食べるときには指を使い、我々のように箸を使うということはありませんでした
感情の赴くままに言葉を発し、私たちの書く言葉を理解することはありませんでした
これらの交易者たちは、色々な土地を巡りながら、自分たちの持っているものとその土地のものを交換して生計を立てていました
知り合ってみると、彼らはそれほど奇異ではなく特に害を及ぼすようなことはありませんでした
第2部 鉄砲
西村から13里ほど離れたところに、赤尾木という村がありましたが、ここでは何世代にもわたっていく組かの家族が港湾業務に従事しながら暮らしていました
人口は数千に及び、豊かな生活を送っていたのです
南からの商人と北からの交易者が行き来し、ここを貿易の拠点としていました
赤尾木は西村よりも奥まっていて波も穏やかだった為、船を停泊させるにはより適していました
外国船の寄港したとの報告は、島の治世者種子島重時とその息子時堯になされました
重時と時堯は、船を西村から赤尾木に移動させるよう命じ、8月27日船は赤尾木に到着しました
この時港を訪れていたのが、法華宗の僧侶住乗院でした
住乗院は中国語の読み書きに良く通じていたため、五峯と面談し筆談で会話を交わしました
五峯にとっても、異国の土地で真の友を得る機会となったようです
交易者の中には2人のリーダーがいました、フランシスコとキリシタ・ダ・モッタです
彼らは今までに見たこともないような物を持っていました、長さは2-3尺形はまっすぐで、中には空洞が通っており、何かとても重い物体でできていました
真ん中部分は空洞でしたが、根本の部分は閉じられており、点火する部分がついていました
今まで見たことがないようなものです
これを使用する際には、ミステリアスな粉と小さな小さな鉛玉を詰め、土手に設えられた的に向けてこれを片手で抱え、背をしっかりと伸ばし、片目で的を見据え引き金を引くと、鉛玉は常に的に命中したのです
爆発の際の音と光はまるで雷鳴のようでした
見物人は皆耳を覆ったものです
的は弓の的のようですが、鉛玉は命中すると的を粉々にし、鉄さえも通り抜けるようでした
これに歯向かう敵は瞬時に命を失うことでしょう
田圃を荒らす鹿にも効果がありそうです
野原で使用した場合には、鉛玉を見つけることは不可能です
これを目撃した時堯はひどく感銘を受けました
最初は人々はこれが何のために用いられるものかも分かっていませんでしたが、これに鉄砲という名前を付けました
この名前が明王朝によって名付けられたのか、種子島の島民によって名付けられたのかは分かっていません
ある日、時堯は二人の異人に通訳を介して話しかけ、この鉄砲の使い方を学びたいと言いました
二人の異人はこの願いを聞き届け、鉄砲の使い方の秘密を伝授する、と答えました
秘密とは、気持ちを落ち着け片目をつむって引き金を引くことでした
時堯は、気持ちを静めることはすでに太古の昔の教えから習得している、と答え天地の教えに従って引き金を引けば、的を外すはずはない、と語りました
しかし、片目を閉じていては遠くまではっきり見通すことはできないはずです
なぜ片目を閉じなければいけないのか、と時堯は尋ねます
これに対して、異人は片目を閉じることは集中につながる、と説きます
片目を閉じているからと言って遠くが見えないわけではありませんが、集中して的を当てるんだという気概を持っていれば、命中するものだということを心すべきだ、と異人は語りました
この言葉は時堯の腑に落ち、彼はこれを老子の教えに通じるものであると理解します
この年の9月9日の祭事の日が、この鉄砲を披露するのに最適であると決められました
鉄砲が準備され、的は100歩離れた場所に設置されました
この場で、的のほぼ真ん中が撃ち抜かれたのです
見物人は皆、度肝を抜かれましたが、最後には皆が射撃の方法を学びたいと言いました
鉄砲はかなり高価な物でしたが、時堯は2丁買い求め、宝として家にしまい込みました
火薬の調合に関しては、時堯は家臣の篠川小四郎にこれを習得させ、自身は昼夜鉄砲の修練に励みました
このかいあって、時堯の鉄砲の腕前は100発100中になったということです
時堯の鉄砲への興味は深く、彼は何人もの鍛冶に鉄砲のつくりを研究させ、複製を作ることを命じたのです
出来上がったものは、オリジナルの鉄砲に酷似していましたが、鍛冶が苦労したのが、根本を閉じることです
時堯は、この鉄砲を有事の際にいかに活用させるか、ということに思いを馳せます
そのため、彼の家臣団にも鉄砲の修練を奨励し、100発100中の者も多く現れました
最初に鉄砲が伝来してから、60年以上の歳月がたちました
白髪交じりになった人たちの中には、時堯が2丁の鉄砲を買い求めた時のことを覚えている者もまだいました
この鉄砲の存在は、今では60諸国に広がっています
時堯の先見の明により、鍛冶に鉄砲づくりを行わせたことで、鉄砲の利用が広がったのです
太古の時代から、一つの種をまくことで次々と新しい種を生むものです
これが種子島の名の由来です
種と同じように、わずか2丁の鉄砲が、日本全国に広がるまでになりました
当時から日本人は箸を使って物を食べてたんだね、西洋人を野蛮人って描写されちゃうんだ。。。。
銃の使い方を哲学的に議論するなんて、奥が深い
集中することが大事って聞いて、すぐさま老子を思い浮かべる殿様はすごい!
1丁の銃を巡って、日本人・中国人・ポルトガル人が友人になれるなんて、不思議
銃の打ち方を教えるのに、これほどシンプルなインストラクションはないよね
日本の武士にとっては、両目をしっかり開けてるってことはすごく大切だったのかな
この異人たちが“害がない”って判断した理由は何だったんだろう?
通訳を2回も経ながら、時堯とポルトガル人が交わした会話って、どれくらい正確に相手に伝わってたんだろう??
天ぷらもこの時日本に伝わったのかな???
ヨーロッパ人っていつ頃野蛮人から脱却したんだろう???
この時銃が日本に伝わらなかったら、真珠湾攻撃もなかったかも。。。。。
ポルトガル人が出島から追放された後に、オランダ人が日本に入ってきたんだよね
歴史ってただに日にちと出来事を記録するだけじゃなくて、その時に生きていた人のことを記録することがすごく大事だと思う
これがキリスト教徒が日本にたどり着いた最初の出来事だったのかな
心を平静に保つって、いつの時代でも大事なことだよ
この時に時堯が銃の扱いを間違って怪我でもしてたら、その後の日本での銃の広がりは全く違ったものになってただろうね
えー、ポルトガル人って指を使ってモノ食べてたの???
ポルトガルから日本まで航海するってどれくらい時間かかったんだろう?
この歴史って、ポルトガルでも習うのかな?
日本人って、500年前でもコピーするの上手だったんだ
ポルトガル人が結構気楽に銃の使い方を知らない人に教えてた、っていうのにびっくり
これって、日本の歴史にとってはものすごく大きなインパクトを残した出来事だろうね
https://www.youtube.com/watch?v=xZnaCel6LdU
投稿者
16世紀の鉄砲伝来―歴史家が紹介する日本と外国との最初の遭遇
第1部 種子島への外国船の到着
九州南部に種子島という小さな島があります
古くからの言い伝えによれば、ここには何世代にもわたって隼人族が暮らしていました
種子島という名前のとおり、ここでは独自の種が派生し、島としては最も小さなものでありながら、豊かな植生を享受していました
16世紀の天文時代の和暦8月25日、西村湾に大型の船が到着しました
どこの国からやってきたものか誰にもわかりませんでしたが、船には100名ほどの乗員がいました、そこには日本人とは全く異なる身体的特徴を持った者たちがいました
彼らが話す言葉を理解できる島民もいませんでした
異人を見た人たちは一様にその奇異さに驚きましたが、乗員の中には明王朝の学者五峯がいました
当時の西村の長、Onbenojo Tokitsuraは中国語の書物をよく理解した為、五峯と面会し砂浜に木の枝を使うことで筆談で会話を交わしたということです
彼らは筆談で、この異人たちがどこからやってきたのかを話し合いました
実は彼らは、西南の貿易者たちでした
彼らは位の上下という概念は持っていたようですが、所有という概念は持ち合わせていないようでした
そのため、飲み物を飲むときには、自分のカップを使うということはなく、物を食べるときには指を使い、我々のように箸を使うということはありませんでした
感情の赴くままに言葉を発し、私たちの書く言葉を理解することはありませんでした
これらの交易者たちは、色々な土地を巡りながら、自分たちの持っているものとその土地のものを交換して生計を立てていました
知り合ってみると、彼らはそれほど奇異ではなく特に害を及ぼすようなことはありませんでした
第2部 鉄砲
西村から13里ほど離れたところに、赤尾木という村がありましたが、ここでは何世代にもわたっていく組かの家族が港湾業務に従事しながら暮らしていました
人口は数千に及び、豊かな生活を送っていたのです
南からの商人と北からの交易者が行き来し、ここを貿易の拠点としていました
赤尾木は西村よりも奥まっていて波も穏やかだった為、船を停泊させるにはより適していました
外国船の寄港したとの報告は、島の治世者種子島重時とその息子時堯になされました
重時と時堯は、船を西村から赤尾木に移動させるよう命じ、8月27日船は赤尾木に到着しました
この時港を訪れていたのが、法華宗の僧侶住乗院でした
住乗院は中国語の読み書きに良く通じていたため、五峯と面談し筆談で会話を交わしました
五峯にとっても、異国の土地で真の友を得る機会となったようです
交易者の中には2人のリーダーがいました、フランシスコとキリシタ・ダ・モッタです
彼らは今までに見たこともないような物を持っていました、長さは2-3尺形はまっすぐで、中には空洞が通っており、何かとても重い物体でできていました
真ん中部分は空洞でしたが、根本の部分は閉じられており、点火する部分がついていました
今まで見たことがないようなものです
これを使用する際には、ミステリアスな粉と小さな小さな鉛玉を詰め、土手に設えられた的に向けてこれを片手で抱え、背をしっかりと伸ばし、片目で的を見据え引き金を引くと、鉛玉は常に的に命中したのです
爆発の際の音と光はまるで雷鳴のようでした
見物人は皆耳を覆ったものです
的は弓の的のようですが、鉛玉は命中すると的を粉々にし、鉄さえも通り抜けるようでした
これに歯向かう敵は瞬時に命を失うことでしょう
田圃を荒らす鹿にも効果がありそうです
野原で使用した場合には、鉛玉を見つけることは不可能です
これを目撃した時堯はひどく感銘を受けました
最初は人々はこれが何のために用いられるものかも分かっていませんでしたが、これに鉄砲という名前を付けました
この名前が明王朝によって名付けられたのか、種子島の島民によって名付けられたのかは分かっていません
ある日、時堯は二人の異人に通訳を介して話しかけ、この鉄砲の使い方を学びたいと言いました
二人の異人はこの願いを聞き届け、鉄砲の使い方の秘密を伝授する、と答えました
秘密とは、気持ちを落ち着け片目をつむって引き金を引くことでした
時堯は、気持ちを静めることはすでに太古の昔の教えから習得している、と答え天地の教えに従って引き金を引けば、的を外すはずはない、と語りました
しかし、片目を閉じていては遠くまではっきり見通すことはできないはずです
なぜ片目を閉じなければいけないのか、と時堯は尋ねます
これに対して、異人は片目を閉じることは集中につながる、と説きます
片目を閉じているからと言って遠くが見えないわけではありませんが、集中して的を当てるんだという気概を持っていれば、命中するものだということを心すべきだ、と異人は語りました
この言葉は時堯の腑に落ち、彼はこれを老子の教えに通じるものであると理解します
この年の9月9日の祭事の日が、この鉄砲を披露するのに最適であると決められました
鉄砲が準備され、的は100歩離れた場所に設置されました
この場で、的のほぼ真ん中が撃ち抜かれたのです
見物人は皆、度肝を抜かれましたが、最後には皆が射撃の方法を学びたいと言いました
鉄砲はかなり高価な物でしたが、時堯は2丁買い求め、宝として家にしまい込みました
火薬の調合に関しては、時堯は家臣の篠川小四郎にこれを習得させ、自身は昼夜鉄砲の修練に励みました
このかいあって、時堯の鉄砲の腕前は100発100中になったということです
時堯の鉄砲への興味は深く、彼は何人もの鍛冶に鉄砲のつくりを研究させ、複製を作ることを命じたのです
出来上がったものは、オリジナルの鉄砲に酷似していましたが、鍛冶が苦労したのが、根本を閉じることです
時堯は、この鉄砲を有事の際にいかに活用させるか、ということに思いを馳せます
そのため、彼の家臣団にも鉄砲の修練を奨励し、100発100中の者も多く現れました
最初に鉄砲が伝来してから、60年以上の歳月がたちました
白髪交じりになった人たちの中には、時堯が2丁の鉄砲を買い求めた時のことを覚えている者もまだいました
この鉄砲の存在は、今では60諸国に広がっています
時堯の先見の明により、鍛冶に鉄砲づくりを行わせたことで、鉄砲の利用が広がったのです
太古の時代から、一つの種をまくことで次々と新しい種を生むものです
これが種子島の名の由来です
種と同じように、わずか2丁の鉄砲が、日本全国に広がるまでになりました
当時から日本人は箸を使って物を食べてたんだね、西洋人を野蛮人って描写されちゃうんだ。。。。
銃の使い方を哲学的に議論するなんて、奥が深い
集中することが大事って聞いて、すぐさま老子を思い浮かべる殿様はすごい!
1丁の銃を巡って、日本人・中国人・ポルトガル人が友人になれるなんて、不思議
銃の打ち方を教えるのに、これほどシンプルなインストラクションはないよね
日本の武士にとっては、両目をしっかり開けてるってことはすごく大切だったのかな
この異人たちが“害がない”って判断した理由は何だったんだろう?
通訳を2回も経ながら、時堯とポルトガル人が交わした会話って、どれくらい正確に相手に伝わってたんだろう??
天ぷらもこの時日本に伝わったのかな???
ヨーロッパ人っていつ頃野蛮人から脱却したんだろう???
この時銃が日本に伝わらなかったら、真珠湾攻撃もなかったかも。。。。。
ポルトガル人が出島から追放された後に、オランダ人が日本に入ってきたんだよね
歴史ってただに日にちと出来事を記録するだけじゃなくて、その時に生きていた人のことを記録することがすごく大事だと思う
これがキリスト教徒が日本にたどり着いた最初の出来事だったのかな
心を平静に保つって、いつの時代でも大事なことだよ
この時に時堯が銃の扱いを間違って怪我でもしてたら、その後の日本での銃の広がりは全く違ったものになってただろうね
えー、ポルトガル人って指を使ってモノ食べてたの???
ポルトガルから日本まで航海するってどれくらい時間かかったんだろう?
この歴史って、ポルトガルでも習うのかな?
日本人って、500年前でもコピーするの上手だったんだ
ポルトガル人が結構気楽に銃の使い方を知らない人に教えてた、っていうのにびっくり
これって、日本の歴史にとってはものすごく大きなインパクトを残した出来事だろうね
https://www.youtube.com/watch?v=xZnaCel6LdU
なかなか興味深い