- Date: Fri 29 05 2020
- Category: 出来事・話題
- Response: Comment 13 Trackback 0
海外「もはや伝説…」海外でも多くのファンをもつ日本のお笑いコンビ『ダウンタウン』の生い立ちに海外興味津々(海外反応)
海外「もはや伝説…」海外でも多くのファンをもつ日本のお笑いコンビ『ダウンタウン』の生い立ちに海外興味津々(海外反応)
投稿者
ダウンタウンは、今更改めて紹介する必要がないくらいの超有名なお笑いコンビだ
クレージーなコントや、鋭い突っ込み、パーフェクトなタイミングは、彼らを日本のエンタメ界の頂点へとのし上げた
でも、彼らはどうやってそこまでたどり着いたんだろう?
松本と浜田は兵庫県の同じ小学校に通っていた
でも、お互いを意識するようになったのは中学に入って放送部に入部してからだ
二人はお笑いの放送を始めたけど、たまに暴走しすぎて放送禁止になることもあった
その頃松本は冗談で、浜田とコンビを組んで漫才師になることを話していたが、高校は別々のところに進んだ
浜田は寄宿制の高校に進学し、松本は工業高校に入学
二人の交流は途絶えることなく、高校を卒業して浜田がボートレーサー試験に失敗した時、松本が再度漫才師を目指すことを提案した
松本は出版社への就職が決まっていたが、最終的に浜田を追って大阪に出て、1982年、吉本NSCに入学することにする
NSCは現在のようなタレント養成学校ではなく、ダウンタウンはその一期生だった
入学後程なくして、彼らの才能は先輩コメディアンやスタッフに認められるようになる
テレビ出演も果たし、ひとしまさし名で出場したアマチュア漫才コンテストにも優勝する
翌年NSCを卒業し、正式に吉本所属となる
漫才コンテストには出場し続けたが、落選し続けた
漫才は続けながらコントを始めるようになったが、そこでも人気は出なかった
二人は実家に戻り、バイトをしながら生活費を稼ぐ生活を送るようになる
目が出ないことに焦り、漫才をあきらめることも考えたが、兎に角前に進み続けた
笑ってくれるお客さんがいなくても、漫才を続けた
1984年、二人は漫才コンテストに再び挑戦し、優勝を果たす
それでも人気はイマイチのままだった
当時彼らのマネージャーをしていた大崎は、彼らの才能を認め、もっと露出が必要だと考えていた
彼は、自分がダウンタウンの活躍できる場を作ってあげなくてはいけない、と考える
大崎は南海電鉄と交渉し、そこのホールを借り受けることに成功した
彼は南海ホールで心斎橋2丁目劇場をオープンする
彼が目指したのは、新人コメディアンたちが活躍できる舞台を提供することだった
大崎は、ここでダウンタウンを売り出しの中心に据えた
彼らはここで毎週末漫才を提供し、人気も段々出てきたが、それでも大きな稼ぎを得るまでには至っていなかった
ダウンタウンは知らなかったが、1985年5月島田紳助が彼らのライブを鑑賞していた
彼らの漫才を見て、紳助は自身の漫才の才能の限界を感じ、その日のうちに彼の漫才コンビを解消する記者会見を行った
1985年5月20日、引退表明の正式な記者会見の席で、彼は漫才界で3組彼らが勝てないコンビがいると語った
それは、阪神巨人・サブローシロー、そしてダウンタウンだ
当時ダウンタウンは、漫才界ではそれほど知られた存在ではなかった
メディアはダウンタウンにはあまり注目していなかったが、紳助のコメントを受けて、多くの漫才ファンがダウンタウンに注目するようになる
その年の秋に、サブローシローは彼らの舞台でダウンタウンにコントを演じる機会を与えた
そのおかげで、南海ホールでのライブは毎回大盛況となった
吉本は自社の資金を使って、大規模ホールの建設に着手する
5月16日、2丁目劇場は再開された
ダウンタウンは大ブレークの手前だった
翌年、5年間の下積みを経て、ダウンタウンは最初の冠番組を持つことになる
視聴者のリアクションは大きく、ダウンタウンはアイドル並みの人気を博すようになった
アルバムや写真集なども発売され、おっかけも現れた
この成功により、多くの扉が開かれ、彼らの冠番組も増え続けて行った
その代表が“笑ってはいけない”コーナーが人気のバラエティー番組『ガキの使い』
笑ってはいけないは、紅白歌合戦や初詣に匹敵する年末の恒例行事となった
もう一つが『ごっつええ感じ』
こちらもバラエティー番組だが、放送コードぎりぎりのコメディを放送し続けた
ここで放送されたコメディの数々は大人気で、今でも話題に上る
数年前には、吉本がこの番組のハイライトDVDを発売したほどだ
わずか5年間でここまでの成功を遂げた、って言う事実には心底驚かされる
人の輪の広がりや、彼らの忍耐、常に向上心を忘れないこと、などは本当に素晴らしい
自分的には、松本と浜田に勝てる奴は一人もいないと思う
僕が感心するのは、人気が出た後でも、自分たちを笑いの種にして体を張ってコメディをやり続けてる、ってことだ
ダウンタウンに批判的な人たちは、彼らの芸風は攻撃的すぎるという
それでも、この30年の間ダウンタウンがエンタメ界を席巻し続けていて、お笑い界に多大な影響を与え続けていた、って言う事実は誰にも否定できない
ダウンタウンは、真に日本のレジェンドだよ
ダウンタウンの事は10年以上フォローし続けてる!
こいつらは僕のお気に入りのコメディ・デュオ
日本のエンタメ界の頂点!
ダウンタウンはレジェンドだよねぇ
5年くらい前にたまたまTVで彼らを見たんだけど、それからずっとフォローしてるよ
彼らのコメディスタイルは、アメリカのコメディアンよりうんと体張ってる
お笑いのだいご味って、言葉がなくても世界中に通じるよ
最初に日本に行った時から、ダウンタウンを見て育ったんだ
ダウンタウンをテレビで見ない日はないね
あきらめるな!っていうのは、どんなことにも当てはまるね
この動画1.25倍のスピードで再生すると、面白さが倍増するよ
この二人見てると笑いが止まらないんだ。。。。
この二人を知ってから、日本のお笑いに興味を持つようになったんだ
ダウンタウンは吉本の金の卵だよね
彼らのインタビューを見ると、どれほどお互いを尊敬しあってるかよくわかるよ
言葉が分からなくても、笑えるってすごい!
ダウンタウン見て、鬱から立ち直ったんだ
浜田は80歳になるまでお笑いはやめない、って言ってたよ
この二人最高!
この二人、どれくらい稼いでるんだろう?
もしダウンタウンが引退したら、彼らの抜けた穴をふさぐのは不可能だと思う
https://www.youtube.com/watch?v=Re1UewDl1T0
投稿者
ダウンタウンは、今更改めて紹介する必要がないくらいの超有名なお笑いコンビだ
クレージーなコントや、鋭い突っ込み、パーフェクトなタイミングは、彼らを日本のエンタメ界の頂点へとのし上げた
でも、彼らはどうやってそこまでたどり着いたんだろう?
松本と浜田は兵庫県の同じ小学校に通っていた
でも、お互いを意識するようになったのは中学に入って放送部に入部してからだ
二人はお笑いの放送を始めたけど、たまに暴走しすぎて放送禁止になることもあった
その頃松本は冗談で、浜田とコンビを組んで漫才師になることを話していたが、高校は別々のところに進んだ
浜田は寄宿制の高校に進学し、松本は工業高校に入学
二人の交流は途絶えることなく、高校を卒業して浜田がボートレーサー試験に失敗した時、松本が再度漫才師を目指すことを提案した
松本は出版社への就職が決まっていたが、最終的に浜田を追って大阪に出て、1982年、吉本NSCに入学することにする
NSCは現在のようなタレント養成学校ではなく、ダウンタウンはその一期生だった
入学後程なくして、彼らの才能は先輩コメディアンやスタッフに認められるようになる
テレビ出演も果たし、ひとしまさし名で出場したアマチュア漫才コンテストにも優勝する
翌年NSCを卒業し、正式に吉本所属となる
漫才コンテストには出場し続けたが、落選し続けた
漫才は続けながらコントを始めるようになったが、そこでも人気は出なかった
二人は実家に戻り、バイトをしながら生活費を稼ぐ生活を送るようになる
目が出ないことに焦り、漫才をあきらめることも考えたが、兎に角前に進み続けた
笑ってくれるお客さんがいなくても、漫才を続けた
1984年、二人は漫才コンテストに再び挑戦し、優勝を果たす
それでも人気はイマイチのままだった
当時彼らのマネージャーをしていた大崎は、彼らの才能を認め、もっと露出が必要だと考えていた
彼は、自分がダウンタウンの活躍できる場を作ってあげなくてはいけない、と考える
大崎は南海電鉄と交渉し、そこのホールを借り受けることに成功した
彼は南海ホールで心斎橋2丁目劇場をオープンする
彼が目指したのは、新人コメディアンたちが活躍できる舞台を提供することだった
大崎は、ここでダウンタウンを売り出しの中心に据えた
彼らはここで毎週末漫才を提供し、人気も段々出てきたが、それでも大きな稼ぎを得るまでには至っていなかった
ダウンタウンは知らなかったが、1985年5月島田紳助が彼らのライブを鑑賞していた
彼らの漫才を見て、紳助は自身の漫才の才能の限界を感じ、その日のうちに彼の漫才コンビを解消する記者会見を行った
1985年5月20日、引退表明の正式な記者会見の席で、彼は漫才界で3組彼らが勝てないコンビがいると語った
それは、阪神巨人・サブローシロー、そしてダウンタウンだ
当時ダウンタウンは、漫才界ではそれほど知られた存在ではなかった
メディアはダウンタウンにはあまり注目していなかったが、紳助のコメントを受けて、多くの漫才ファンがダウンタウンに注目するようになる
その年の秋に、サブローシローは彼らの舞台でダウンタウンにコントを演じる機会を与えた
そのおかげで、南海ホールでのライブは毎回大盛況となった
吉本は自社の資金を使って、大規模ホールの建設に着手する
5月16日、2丁目劇場は再開された
ダウンタウンは大ブレークの手前だった
翌年、5年間の下積みを経て、ダウンタウンは最初の冠番組を持つことになる
視聴者のリアクションは大きく、ダウンタウンはアイドル並みの人気を博すようになった
アルバムや写真集なども発売され、おっかけも現れた
この成功により、多くの扉が開かれ、彼らの冠番組も増え続けて行った
その代表が“笑ってはいけない”コーナーが人気のバラエティー番組『ガキの使い』
笑ってはいけないは、紅白歌合戦や初詣に匹敵する年末の恒例行事となった
もう一つが『ごっつええ感じ』
こちらもバラエティー番組だが、放送コードぎりぎりのコメディを放送し続けた
ここで放送されたコメディの数々は大人気で、今でも話題に上る
数年前には、吉本がこの番組のハイライトDVDを発売したほどだ
わずか5年間でここまでの成功を遂げた、って言う事実には心底驚かされる
人の輪の広がりや、彼らの忍耐、常に向上心を忘れないこと、などは本当に素晴らしい
自分的には、松本と浜田に勝てる奴は一人もいないと思う
僕が感心するのは、人気が出た後でも、自分たちを笑いの種にして体を張ってコメディをやり続けてる、ってことだ
ダウンタウンに批判的な人たちは、彼らの芸風は攻撃的すぎるという
それでも、この30年の間ダウンタウンがエンタメ界を席巻し続けていて、お笑い界に多大な影響を与え続けていた、って言う事実は誰にも否定できない
ダウンタウンは、真に日本のレジェンドだよ
ダウンタウンの事は10年以上フォローし続けてる!
こいつらは僕のお気に入りのコメディ・デュオ
日本のエンタメ界の頂点!
ダウンタウンはレジェンドだよねぇ
5年くらい前にたまたまTVで彼らを見たんだけど、それからずっとフォローしてるよ
彼らのコメディスタイルは、アメリカのコメディアンよりうんと体張ってる
お笑いのだいご味って、言葉がなくても世界中に通じるよ
最初に日本に行った時から、ダウンタウンを見て育ったんだ
ダウンタウンをテレビで見ない日はないね
あきらめるな!っていうのは、どんなことにも当てはまるね
この動画1.25倍のスピードで再生すると、面白さが倍増するよ
この二人見てると笑いが止まらないんだ。。。。
この二人を知ってから、日本のお笑いに興味を持つようになったんだ
ダウンタウンは吉本の金の卵だよね
彼らのインタビューを見ると、どれほどお互いを尊敬しあってるかよくわかるよ
言葉が分からなくても、笑えるってすごい!
ダウンタウン見て、鬱から立ち直ったんだ
浜田は80歳になるまでお笑いはやめない、って言ってたよ
この二人最高!
この二人、どれくらい稼いでるんだろう?
もしダウンタウンが引退したら、彼らの抜けた穴をふさぐのは不可能だと思う
https://www.youtube.com/watch?v=Re1UewDl1T0