- Date: Sat 19 09 2020
- Category: 歴史
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海外「実在していたとは…」日本の戦国武将『伊達政宗』の生涯に海外興味津々(海外反応)
海外「実在していたとは…」日本の戦国武将『伊達政宗』の生涯に海外興味津々(海外反応)
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織田信長の死後2つの大きな戦いが発生した
最初の戦いが、徳川・上杉・北条・真田による関東の領土をめぐるものだった
2つ目は、更に大きな意味を持つ、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いだ
この戦いの結果、秀吉が織田の跡目を継承することになった
ここで中部地方で繰り広げられていた勢力争いから、北日本に目を転じてみよう
伊達家が歴史舞台に現れたんだ
戦国時代 - 伊達政宗と東北地方での戦い
これまでこのシリーズでは、東北地方の事を取り上げていないのは皆に知られてる
その理由の一つが、東北地方での衝突は中部・関東にはそれほど影響を与えていなかった事
戦国時代の気風は東北にも大きく広がっていたが、戦国時代のメジャーイベントに影響を与えるようなものではなかった
でもこれは、東北地方で生まれた一人の武将によって変えられようとしている
彼の名前は日本中に知られることになる
僕が東北地方に触れなかったもう一つの理由は、東北地方は大混乱だったからだ
東北地方には様々な勢力があった、南部・津軽・最上・芦名・相馬、そして伊達
これが東北地方を席巻していた大きな勢力の一部だ
しかし歴史は、これらの内の一つが歴史に名を遺すに値する者だとした、それが伊達家
伊達家の始まりは12世紀にさかのぼる、藤原家に連なるものだと言われている
伊達家は何代にもわたって陸奥の大部分を支配下に置いてきた
戦国時代の始めまでには、東北地方に多大な影響力を持つに至っていたが、他の東北地方の武将たちに比べて特に優れているというわけではなかった
戦国時代の性格上、伊達が近隣の争いに巻き込まれることは良く起った
ある時には、6年にも及ぶかなり危険な内戦(天文の乱)に関わったこともある
1566年、伊達家の当主はまだ若い伊達輝宗、意志の強い武将で、天文の乱に自身の父、稙宗に対して勝利をおさめたことで知られる伊達晴宗を父に持つ
1566年秋、輝宗とその正室で最上から嫁いだ義姫は息子を得る、その子の名前は梵天丸
この子が後に政宗の名を持つことになる
かつて伊達家に栄光をもたらした先祖から名前を得たのだ
しかし政宗の子供時代は順調なものではなかった
幼児の頃かかった天然痘のせいで右目が腫れあがってしまい、小さなころからあまり自信のない子供だった
彼の気鬱に関しては、数々のエピソードが残っている
母の義姫も彼の振る舞いには気を病み、将来家を継ぐにはふさわしくないのではないかと語ることがあったと言われている
政宗はネグレクトのような状態に置かれた
普通であれば、ここで彼は歴史から忘れ去られていたことだろう
しかし、彼に多大の影響を与えた2人の人物がいた
最初が彼の乳母、片倉喜多、実の母親が与えなかった愛情を示し、軍記物語などから学ぶことを奨励し、政宗の中に武将の心と素質を植え付けたのだ
しかし彼女一人の尽力だけでは、彼の大成は叶わなかっただろう
彼に多大な影響を与えたもう一人が、喜多の異兄弟、片倉小十郎のちの景綱
政宗より少し年上だったが、小十郎は常に政宗と行動を共にし忠実な友であり続けた
この小十郎こそが自らの刃物で政宗の膿んだ右目を取り出し、彼の長年の気鬱の元を取り除いたのだ
小十郎と乳母喜多のお陰で、政宗は長年の劣等感を克服し、伊達家を継ぐにふさわしい素質を身に着けたのだ
1581年、齢14歳で政宗は父親に従って、相馬家を相手にした初の戦に繰り出した
しかし、この戦いで政宗は危うく殺されそうになる
父親から後継者だと認めてもらうには、まだまだ技量を磨かねばならなかった
3年後の1584年、彼は父親にその実力を見せつける機会を得た
政宗は、伊達家を継いでからそれほど長く安定した権力の座についていたわけではない
傘下の武将大内定綱が、敵である蘆名家側に寝返ったのだ
これに激怒した政宗は、自身の別の側面を見せつけた
これが彼の“独眼竜”という名の由来となった
政宗は蘆名と大内に対して戦いを宣言し、定綱の裏切りへの復讐を図る
当初の攻撃は、蘆名の徹底抗戦により難航したが、政宗はそれに気圧されることなく攻撃を続けた
数か月後、ようやく定綱の本拠地を打ち破ることに成功した
政宗は城を占拠し、城に残されていた800人を老若男女問わず虐殺した
定綱は後に小浜城に逃れたが、自らの城での虐殺の知らせを受けると、小浜城に火を放ち蘆名家の領土の奥深くへと身を隠した
政宗の激情型の性格は、戦時に適したものであった
しかし、対外外交政策には問題があることが早晩明らかになる
畠山家の子孫である二本松は、代々伊達家とはライバル関係にあった
この関係を改善しようと、二本松義継は何度も政宗に働きかけていたが、政宗はその一切を拒否していた
とうとう1585年、二本松義継は政宗の父輝宗に仲介を依頼する
当初、義継と輝宗の話し合いは上手くいっていたが、途中で暗雲が立ち込め輝宗は義継から人質に取られてしまう
義継としては、輝宗を懐柔することはできるかもしれないと考えたが、政宗が和平に応じる可能性は全くないと判断したのであろう
輝宗を人質とすることで、和平を達成しようと目論んだのだ
この知らせを聞いて、政宗は少数の武士を従えて父を救出する為に城を離れた
阿武隈川で義継の軍勢に対峙した政宗は、絶体絶命の局面に立たされる
政宗は、銃弾が誤って輝宗を殺してしまうかもしれないと恐れた
しかし輝宗は自らの命に頓着せず、銃を発するようにと叫ぶ、これは武将の指示だ
政宗はこの短い戦いに勝利をおさめることはできたが、結果として父を失った
一方義継は、何が起きたのかよく分かっていなかった
義継自身がこの戦いで命を落としたという説もあるが、彼は生き延びたという説もある
しかし、伊達と二本松の戦いは本格的なものへと発展した
その頃には政宗を頭に抱く伊達家は、安定を欠く東北地方で危険な存在だと捉えられていた
相馬や蘆名・佐竹は二本松の側についた
政宗の軍勢は数の上では劣勢だった
1586年、人取橋の戦いで政宗は大勢の敵軍に対峙すると、彼は手早く防御態勢を確立した
7千の伊達の軍勢が3万の敵軍に向かったのだ
伊達の軍勢は一つ一つ敵軍の前に倒されていき、本拠とした本宮まで後退を余儀なくされた
政宗や側近たちは、そこでの最後を覚悟する
しかし運命のいたずらが、政宗を救うことになる
自らがこの戦いに関わっている間に常陸の国に里見が攻め込んできた為、佐竹の軍勢が撤収を余儀なくされたのだ
軍勢の大半を失ったことで、相馬や蘆名・二本松は自陣は戦いを続けるには十分な戦力を備えていないと判断し、戦いを辞めることにしたのだ
政宗は命をつないだ
この戦いから、政宗は多くを学んだことだろう
こののち、政宗はもっと戦略的に物事を考えるようになる
年を重ねるごとに、彼の名前と戦果は日本中に知られるようになった
今日のビデオでカバーしたことは
東北地方は群雄割拠の状態で、日本の他の地方とそれほど違わなかった
しかし、この状況から頭一つ抜け出したのが伊達政宗だ
子供の頃は色々不幸だったが、成長するにしたがって自信を持ち、鉄拳を用いて伊達家を治めるようになった
伊達家を継いで一年目に大規模な戦いに参戦しが、彼の激情型の人格が災いして敗戦に直面したりもした
二本松を相手にした戦いでは多勢に無勢の状況を強いられたが、運を味方につけて切り抜け、その後彼の名は日本全国にとどろくことになる
オペラ歌手の伊達佳内子さんは、伊達家の子孫なんだよ!
蘆名って、ゲームの中に出てくる武将で本当にいたなんて知らなかった。。。。。
独眼竜政宗だよね、かっこいい!
これで伊達政宗の事は何でも分かっちゃった
政宗って隠れキリシタンだったんでしょ?
「生まれてきたのが遅すぎた」って言った人だよね?
あー、この人が出てくるとゲーム勝てなくなっちゃうんだよなぁ
お母さんの義姫が、お茶に毒を仕込んで政宗を殺そうとしたって読んだことある
政宗って自分の実の弟を殺しちゃったんでしょ?
丁度戦国時代の東北地方ってどんなだったんだろう?って考えてたところだよ
伊達政宗の事なら、俺に何でも聞いてくれ
Sekiro: Shadow Die Twiceだと蘆名がメインキャラなんだけど。。。。。
独眼竜なんて格好いい名前だな
20年早く生まれていたら、天下を取れていたのに。。。。。
戦闘で怪我をして右目を失ったんだと思ってた
伊達の子孫でミスワールドに出た人がいるから、彼もきっとハンサムだったんだろうね
何年も前にJames Clavellsの『Shogun』を読んでから、日本の大ファンなんだ
Ultimate Immersionでは武田信玄として戦ってます!!
日本中が武将で溢れてたんだね
政宗、って英語でもかっこいい名前だよ
我が家の苗字も伊達の家来とおんなじだ!!!!!
Samurai warriors 2の世界だ!
戦国時代のサムライとヨーロッパの中世の騎士ってすごく似てるね
https://www.youtube.com/watch?v=_s_dPhkM0iI
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織田信長の死後2つの大きな戦いが発生した
最初の戦いが、徳川・上杉・北条・真田による関東の領土をめぐるものだった
2つ目は、更に大きな意味を持つ、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いだ
この戦いの結果、秀吉が織田の跡目を継承することになった
ここで中部地方で繰り広げられていた勢力争いから、北日本に目を転じてみよう
伊達家が歴史舞台に現れたんだ
戦国時代 - 伊達政宗と東北地方での戦い
これまでこのシリーズでは、東北地方の事を取り上げていないのは皆に知られてる
その理由の一つが、東北地方での衝突は中部・関東にはそれほど影響を与えていなかった事
戦国時代の気風は東北にも大きく広がっていたが、戦国時代のメジャーイベントに影響を与えるようなものではなかった
でもこれは、東北地方で生まれた一人の武将によって変えられようとしている
彼の名前は日本中に知られることになる
僕が東北地方に触れなかったもう一つの理由は、東北地方は大混乱だったからだ
東北地方には様々な勢力があった、南部・津軽・最上・芦名・相馬、そして伊達
これが東北地方を席巻していた大きな勢力の一部だ
しかし歴史は、これらの内の一つが歴史に名を遺すに値する者だとした、それが伊達家
伊達家の始まりは12世紀にさかのぼる、藤原家に連なるものだと言われている
伊達家は何代にもわたって陸奥の大部分を支配下に置いてきた
戦国時代の始めまでには、東北地方に多大な影響力を持つに至っていたが、他の東北地方の武将たちに比べて特に優れているというわけではなかった
戦国時代の性格上、伊達が近隣の争いに巻き込まれることは良く起った
ある時には、6年にも及ぶかなり危険な内戦(天文の乱)に関わったこともある
1566年、伊達家の当主はまだ若い伊達輝宗、意志の強い武将で、天文の乱に自身の父、稙宗に対して勝利をおさめたことで知られる伊達晴宗を父に持つ
1566年秋、輝宗とその正室で最上から嫁いだ義姫は息子を得る、その子の名前は梵天丸
この子が後に政宗の名を持つことになる
かつて伊達家に栄光をもたらした先祖から名前を得たのだ
しかし政宗の子供時代は順調なものではなかった
幼児の頃かかった天然痘のせいで右目が腫れあがってしまい、小さなころからあまり自信のない子供だった
彼の気鬱に関しては、数々のエピソードが残っている
母の義姫も彼の振る舞いには気を病み、将来家を継ぐにはふさわしくないのではないかと語ることがあったと言われている
政宗はネグレクトのような状態に置かれた
普通であれば、ここで彼は歴史から忘れ去られていたことだろう
しかし、彼に多大の影響を与えた2人の人物がいた
最初が彼の乳母、片倉喜多、実の母親が与えなかった愛情を示し、軍記物語などから学ぶことを奨励し、政宗の中に武将の心と素質を植え付けたのだ
しかし彼女一人の尽力だけでは、彼の大成は叶わなかっただろう
彼に多大な影響を与えたもう一人が、喜多の異兄弟、片倉小十郎のちの景綱
政宗より少し年上だったが、小十郎は常に政宗と行動を共にし忠実な友であり続けた
この小十郎こそが自らの刃物で政宗の膿んだ右目を取り出し、彼の長年の気鬱の元を取り除いたのだ
小十郎と乳母喜多のお陰で、政宗は長年の劣等感を克服し、伊達家を継ぐにふさわしい素質を身に着けたのだ
1581年、齢14歳で政宗は父親に従って、相馬家を相手にした初の戦に繰り出した
しかし、この戦いで政宗は危うく殺されそうになる
父親から後継者だと認めてもらうには、まだまだ技量を磨かねばならなかった
3年後の1584年、彼は父親にその実力を見せつける機会を得た
政宗は、伊達家を継いでからそれほど長く安定した権力の座についていたわけではない
傘下の武将大内定綱が、敵である蘆名家側に寝返ったのだ
これに激怒した政宗は、自身の別の側面を見せつけた
これが彼の“独眼竜”という名の由来となった
政宗は蘆名と大内に対して戦いを宣言し、定綱の裏切りへの復讐を図る
当初の攻撃は、蘆名の徹底抗戦により難航したが、政宗はそれに気圧されることなく攻撃を続けた
数か月後、ようやく定綱の本拠地を打ち破ることに成功した
政宗は城を占拠し、城に残されていた800人を老若男女問わず虐殺した
定綱は後に小浜城に逃れたが、自らの城での虐殺の知らせを受けると、小浜城に火を放ち蘆名家の領土の奥深くへと身を隠した
政宗の激情型の性格は、戦時に適したものであった
しかし、対外外交政策には問題があることが早晩明らかになる
畠山家の子孫である二本松は、代々伊達家とはライバル関係にあった
この関係を改善しようと、二本松義継は何度も政宗に働きかけていたが、政宗はその一切を拒否していた
とうとう1585年、二本松義継は政宗の父輝宗に仲介を依頼する
当初、義継と輝宗の話し合いは上手くいっていたが、途中で暗雲が立ち込め輝宗は義継から人質に取られてしまう
義継としては、輝宗を懐柔することはできるかもしれないと考えたが、政宗が和平に応じる可能性は全くないと判断したのであろう
輝宗を人質とすることで、和平を達成しようと目論んだのだ
この知らせを聞いて、政宗は少数の武士を従えて父を救出する為に城を離れた
阿武隈川で義継の軍勢に対峙した政宗は、絶体絶命の局面に立たされる
政宗は、銃弾が誤って輝宗を殺してしまうかもしれないと恐れた
しかし輝宗は自らの命に頓着せず、銃を発するようにと叫ぶ、これは武将の指示だ
政宗はこの短い戦いに勝利をおさめることはできたが、結果として父を失った
一方義継は、何が起きたのかよく分かっていなかった
義継自身がこの戦いで命を落としたという説もあるが、彼は生き延びたという説もある
しかし、伊達と二本松の戦いは本格的なものへと発展した
その頃には政宗を頭に抱く伊達家は、安定を欠く東北地方で危険な存在だと捉えられていた
相馬や蘆名・佐竹は二本松の側についた
政宗の軍勢は数の上では劣勢だった
1586年、人取橋の戦いで政宗は大勢の敵軍に対峙すると、彼は手早く防御態勢を確立した
7千の伊達の軍勢が3万の敵軍に向かったのだ
伊達の軍勢は一つ一つ敵軍の前に倒されていき、本拠とした本宮まで後退を余儀なくされた
政宗や側近たちは、そこでの最後を覚悟する
しかし運命のいたずらが、政宗を救うことになる
自らがこの戦いに関わっている間に常陸の国に里見が攻め込んできた為、佐竹の軍勢が撤収を余儀なくされたのだ
軍勢の大半を失ったことで、相馬や蘆名・二本松は自陣は戦いを続けるには十分な戦力を備えていないと判断し、戦いを辞めることにしたのだ
政宗は命をつないだ
この戦いから、政宗は多くを学んだことだろう
こののち、政宗はもっと戦略的に物事を考えるようになる
年を重ねるごとに、彼の名前と戦果は日本中に知られるようになった
今日のビデオでカバーしたことは
東北地方は群雄割拠の状態で、日本の他の地方とそれほど違わなかった
しかし、この状況から頭一つ抜け出したのが伊達政宗だ
子供の頃は色々不幸だったが、成長するにしたがって自信を持ち、鉄拳を用いて伊達家を治めるようになった
伊達家を継いで一年目に大規模な戦いに参戦しが、彼の激情型の人格が災いして敗戦に直面したりもした
二本松を相手にした戦いでは多勢に無勢の状況を強いられたが、運を味方につけて切り抜け、その後彼の名は日本全国にとどろくことになる
オペラ歌手の伊達佳内子さんは、伊達家の子孫なんだよ!
蘆名って、ゲームの中に出てくる武将で本当にいたなんて知らなかった。。。。。
独眼竜政宗だよね、かっこいい!
これで伊達政宗の事は何でも分かっちゃった
政宗って隠れキリシタンだったんでしょ?
「生まれてきたのが遅すぎた」って言った人だよね?
あー、この人が出てくるとゲーム勝てなくなっちゃうんだよなぁ
お母さんの義姫が、お茶に毒を仕込んで政宗を殺そうとしたって読んだことある
政宗って自分の実の弟を殺しちゃったんでしょ?
丁度戦国時代の東北地方ってどんなだったんだろう?って考えてたところだよ
伊達政宗の事なら、俺に何でも聞いてくれ
Sekiro: Shadow Die Twiceだと蘆名がメインキャラなんだけど。。。。。
独眼竜なんて格好いい名前だな
20年早く生まれていたら、天下を取れていたのに。。。。。
戦闘で怪我をして右目を失ったんだと思ってた
伊達の子孫でミスワールドに出た人がいるから、彼もきっとハンサムだったんだろうね
何年も前にJames Clavellsの『Shogun』を読んでから、日本の大ファンなんだ
Ultimate Immersionでは武田信玄として戦ってます!!
日本中が武将で溢れてたんだね
政宗、って英語でもかっこいい名前だよ
我が家の苗字も伊達の家来とおんなじだ!!!!!
Samurai warriors 2の世界だ!
戦国時代のサムライとヨーロッパの中世の騎士ってすごく似てるね
https://www.youtube.com/watch?v=_s_dPhkM0iI