- Date: Fri 27 11 2020
- Category: 歴史
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海外「政治力がすごい…」島津と秀吉の激突!九州統一の歴史に海外興味津々(海外反応)
海外「政治力がすごい…」島津と秀吉の激突!九州統一の歴史に海外興味津々(海外反応)
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前回のエピソードでは本州への侵攻を目論む九州の島津と、豊臣秀吉との軋轢を特集した
今回は秀吉の九州平定の目論見に焦点を当てる
戦国時代
1586年、大友家は島津に攻め込まれ崩壊の危機を迎えていた
その為、大友宗麟は豊臣秀吉に支援を求める
前回も少し触れたが、ここでも豊臣秀吉の役割に関して言及しよう
1584年の小牧・長久手の戦いを経て、1585年には四国侵攻を果たすと同時に最初の上田制覇を果たしたことで、秀吉は西方及び東方を平定する機会を得ていた
更なる西方には九州があり、ここは平定されるのを待っている状態だった
九州が秀吉の最重要ターゲットであったが、当時秀吉は当方にも課題を持っていた
上田城を平定したが、秀吉と北条氏との関係は更に悪化する
秀吉は、早晩北条氏と対峙しなくてはならないだろうと覚悟を固めた
北条氏政が秀吉に屈服することは考えられなかったからだ
しかし、その時には北条氏を相手に戦いを挑む正当な理由がなかった
将来の平安の為には、現況を変えるべき正論が必要だったのだ
ここまでの所、秀吉のアクションにはすべて明確な理由があった
織田信長との戦い然り、柴田勝家然りである
織田信勝や徳川家康との戦いに関しても、彼なりの正当な理由があったのだ
四国平定に関しても、四国の大名が徳川方についたということを理由にして挑んでいった
秀吉はただ単に領土を広げるためだけにランダムな戦いを行っていたのではなく、戦略的な領土拡大を画策していた
秀吉がコミットした数々の戦いは、将来の日本の平安を達成するという目的のために正当化されている
秀吉は自らを、日本を平定した人物として描きたかったようだ
勿論、現代の検証では秀吉もまた野望をもって、敵方についた武将たちを攻撃していたと言われているのだが
この段階では、北条氏はまだ秀吉に、彼らに攻撃を仕掛ける理由を与えていなかった
そのような状況で、秀吉の第一のターゲットとなったのが九州だ
当時の九州は、島津と大友の勢力争いが激しく行われていた
1586年、大友氏が秀吉に助勢を願い出た
これが秀吉に待ち望んでいた機会を与える
当初、秀吉は島津と大友の争いを話し合いで解決しようと試みる
島津の拒絶にあった秀吉側は、早急に武力侵攻の策を練る、秀吉は島津を打ち破り九州平定を試みたのだ
四国平定の際の経験が、秀吉に水軍での戦いの策を授け、九州の戦いでは当時最大規模の水軍での攻撃を仕掛けた
秀吉と彼の同盟軍は九州での戦いに注力した
初期の作戦は、四国から豊後に上陸することであった、長曾我部などがこれに参加した
この作戦が成功すれば、島津側は豊後に上陸した勢力に対峙することに戦力を割かれ、弁方面から九州に攻め込む豊臣軍への対応が遅れると見たのだ
メインの戦力である豊臣軍は、九州北部側から豊前に攻め込む
総勢力は200,000であったと言われる
豊臣秀長と小早川隆景などは、上陸と共に南下して東海岸側に向かい、秀吉自身は120,000の兵を率い西に向かうという作戦だった
東西両方から島津を攻め込み、制圧する戦略だ
しかし、戦局は当初予定したようには展開しなかった
先陣を切った長曾我部と仙谷秀久の九州上陸は大失敗を喫する
四国での敗北を挽回する為か、仙谷秀久は上陸に際しての秀吉の指示を無視して、大友軍への助太刀に走る
豊後に上陸した軍勢は散々な敗北を喫し、長宗我部元親はその子供を失うという結果を招いた
秀久はこれにより、秀吉からすべての領土を取り上げられる
長宗我部元親は秀吉の命に従ったが、秀久の失敗により子を失くすという悲劇を経験する
これに心を痛めた秀吉は、元親に大隅の領土を与えた
1587年1月、秀吉軍は九州に侵攻する
島津軍は何万もの兵を、大友氏から奪い取った土地だけでなく九州全体に配備して、迎え撃つ準備をしていた
しかし、大量の豊臣軍の九州上陸を目にして、島津側は戦略の再考を余儀なくされた
島津義久は兄弟と協議を重ね、得たばかりの領土を手放し一旦南部に撤退する道を選ぶ
豊臣軍は、ほとんど抵抗を受けないまま、南部の島津の拠点まで侵攻した
この道すがら、多くの武将が豊臣側に投降したが、その中には島津側から寝返ったものも多かった
最も顕著だったのが、鍋島氏の豊臣側への参戦であろう
鍋島氏は大友氏と共に、秀吉軍を迎え入れた
日向に侵攻した豊臣軍は、島津軍と最初の大掛かりな戦闘に入る、これが高城の戦いだ
秀長軍に追われていた島津家久は、いきなり軍を展開させ秀吉軍に奇襲をかけた
島津軍20,000人が15,000の秀長軍に対峙した
数で上回る島津軍が勝利を得るかと思えた時、後方から15,000の豊臣の雄軍が駆けつける
背後からの攻撃は、島津軍に実際よりも大勢の軍勢がいるという幻想を抱かせた
島津軍は南方への撤退を余儀なくされる
これにより、秀長は高を平定する機会を得る
優勢に転じる機会を失した島津に残されていたのは、防戦のみだ
川内川では反撃の機会があった
数で大きく差をつけられていた島津軍は、川を渡りきることができれば戦局を変える機会があると考えた
しかし、5,000人の軍で170,000に対峙するのは不可能であるのは火を見るよりも明らかだったが、島津軍は最後まであきらめなかった
この戦いでは、新納 忠元と加藤清正の決闘でも有名だ
加藤清正が勝利を納めたが、今日でもどちらが勝ってもおかしくなかったと言われている
この戦いで島津軍は壊滅的な打撃を受け、豊臣軍に鹿児島への侵攻を許すことになる
鹿児島は、豊臣秀長、加藤清正、福島正則、黒田孝高らにより囲まれた
島津義弘は戦い続けることを望んだが、島津義久は敗北を認める道を選択した
義久は京都に移送され、自分の娘を含む家族のものを人質として差し出すことに合意した
かつての敵と講和を結ぶ経験に長けていた秀吉は、島津の領土を残し島津義弘のもとで薩摩を治めることを許可した
秀吉は先に大隅を長曾我部に与えたが、豊後は大友の手に残したままだった
肥前は竜造寺と有馬とその他小名に分けられ、小早川は筑前筑後を手にする
備前は黒田孝高に与えられ、肥後の大部分は加藤清正のものとなりその他の部分は小西行長のものとなった
日向の残りは、島津・秋月などにより分けられた
九州全土が豊臣の勢力下におかれたのだ
わずか半年で九州平定を成し遂げた秀吉は、当方制定にその焦点を当てる
今日のおさらいだ
1586年に大友氏からの支援要請を受けた秀吉は、これを島津を攻撃する千載一遇のチャンスととらえ、スピーディーに行動を起こす
外交的な調整には失敗するが、戦いを仕掛けることで九州平定の目標は達成された
大軍を急襲に上陸させることで、島津の領土深くまで侵攻することに成功し、数の力で優位に立ち島津を退けた
最後には島津義久は負けを認め、九州は秀吉の影響下に置かれることになったのだ
数では絶対的に不利だったのに、最後まで戦い続けた島津ってすごい!
西郷隆盛によれば、島津は最終的には勝利をおさめたんだって
秀吉の勝利の話を聞くたびに「こいつって、草履取りからスタートしたんだよなぁ」って感慨深い気持ちになる
秀吉のチャンスを逃さないって言う才能はすごいよ
秀吉って軍事戦略だけじゃなくて、政治力もなかなかのものだったんだろうね
この辺りの日本の歴史が一番好き!
Shogun2で一番好きなのが島津一族!!!
信長の時代にも、島津っていい動きしてたよねぇ
関東平野に4-5年住んでたよ、日本が大好き!
日本の戦国時代の歴史にどんどん詳しくなっちゃう、どうしよう??
このビデオ見てたら、鳥肌立ってきちゃった。。。。。
うーん、次は北条相手の戦いか、どんな手を見せてくれるんだろう?
長曾我部が大隅全土を支配するのを断ったって言うのが興味深いな
このビデオ何度も見返して、歴史の流れを頭に入れなきゃ
今度の試験に出ないかなぁ??
どうして秀吉は苦労して手に入れた領土を、こんなに簡単に人に任せちゃうんだろう?
秀吉って島津には優しいけど、北条には容赦なかったよね
え? 立花氏出てこないの??
戦国時代って、ロマンがあるなぁ
大友義鎮が仏門に入って大友宗麟になったんだよね
あー、なんか日本の歴史に詳しくなったような気がする
前の戦いの経験を次にキッチリ生かしてるところが凄いね
秀吉って現代に生きてたら、どんなリーダーになってたんだろう?
中国の歴史にも、こういうダイナミックなものがあるよ
https://www.youtube.com/watch?v=Z2V8BkwGqiw
投稿者
前回のエピソードでは本州への侵攻を目論む九州の島津と、豊臣秀吉との軋轢を特集した
今回は秀吉の九州平定の目論見に焦点を当てる
戦国時代
1586年、大友家は島津に攻め込まれ崩壊の危機を迎えていた
その為、大友宗麟は豊臣秀吉に支援を求める
前回も少し触れたが、ここでも豊臣秀吉の役割に関して言及しよう
1584年の小牧・長久手の戦いを経て、1585年には四国侵攻を果たすと同時に最初の上田制覇を果たしたことで、秀吉は西方及び東方を平定する機会を得ていた
更なる西方には九州があり、ここは平定されるのを待っている状態だった
九州が秀吉の最重要ターゲットであったが、当時秀吉は当方にも課題を持っていた
上田城を平定したが、秀吉と北条氏との関係は更に悪化する
秀吉は、早晩北条氏と対峙しなくてはならないだろうと覚悟を固めた
北条氏政が秀吉に屈服することは考えられなかったからだ
しかし、その時には北条氏を相手に戦いを挑む正当な理由がなかった
将来の平安の為には、現況を変えるべき正論が必要だったのだ
ここまでの所、秀吉のアクションにはすべて明確な理由があった
織田信長との戦い然り、柴田勝家然りである
織田信勝や徳川家康との戦いに関しても、彼なりの正当な理由があったのだ
四国平定に関しても、四国の大名が徳川方についたということを理由にして挑んでいった
秀吉はただ単に領土を広げるためだけにランダムな戦いを行っていたのではなく、戦略的な領土拡大を画策していた
秀吉がコミットした数々の戦いは、将来の日本の平安を達成するという目的のために正当化されている
秀吉は自らを、日本を平定した人物として描きたかったようだ
勿論、現代の検証では秀吉もまた野望をもって、敵方についた武将たちを攻撃していたと言われているのだが
この段階では、北条氏はまだ秀吉に、彼らに攻撃を仕掛ける理由を与えていなかった
そのような状況で、秀吉の第一のターゲットとなったのが九州だ
当時の九州は、島津と大友の勢力争いが激しく行われていた
1586年、大友氏が秀吉に助勢を願い出た
これが秀吉に待ち望んでいた機会を与える
当初、秀吉は島津と大友の争いを話し合いで解決しようと試みる
島津の拒絶にあった秀吉側は、早急に武力侵攻の策を練る、秀吉は島津を打ち破り九州平定を試みたのだ
四国平定の際の経験が、秀吉に水軍での戦いの策を授け、九州の戦いでは当時最大規模の水軍での攻撃を仕掛けた
秀吉と彼の同盟軍は九州での戦いに注力した
初期の作戦は、四国から豊後に上陸することであった、長曾我部などがこれに参加した
この作戦が成功すれば、島津側は豊後に上陸した勢力に対峙することに戦力を割かれ、弁方面から九州に攻め込む豊臣軍への対応が遅れると見たのだ
メインの戦力である豊臣軍は、九州北部側から豊前に攻め込む
総勢力は200,000であったと言われる
豊臣秀長と小早川隆景などは、上陸と共に南下して東海岸側に向かい、秀吉自身は120,000の兵を率い西に向かうという作戦だった
東西両方から島津を攻め込み、制圧する戦略だ
しかし、戦局は当初予定したようには展開しなかった
先陣を切った長曾我部と仙谷秀久の九州上陸は大失敗を喫する
四国での敗北を挽回する為か、仙谷秀久は上陸に際しての秀吉の指示を無視して、大友軍への助太刀に走る
豊後に上陸した軍勢は散々な敗北を喫し、長宗我部元親はその子供を失うという結果を招いた
秀久はこれにより、秀吉からすべての領土を取り上げられる
長宗我部元親は秀吉の命に従ったが、秀久の失敗により子を失くすという悲劇を経験する
これに心を痛めた秀吉は、元親に大隅の領土を与えた
1587年1月、秀吉軍は九州に侵攻する
島津軍は何万もの兵を、大友氏から奪い取った土地だけでなく九州全体に配備して、迎え撃つ準備をしていた
しかし、大量の豊臣軍の九州上陸を目にして、島津側は戦略の再考を余儀なくされた
島津義久は兄弟と協議を重ね、得たばかりの領土を手放し一旦南部に撤退する道を選ぶ
豊臣軍は、ほとんど抵抗を受けないまま、南部の島津の拠点まで侵攻した
この道すがら、多くの武将が豊臣側に投降したが、その中には島津側から寝返ったものも多かった
最も顕著だったのが、鍋島氏の豊臣側への参戦であろう
鍋島氏は大友氏と共に、秀吉軍を迎え入れた
日向に侵攻した豊臣軍は、島津軍と最初の大掛かりな戦闘に入る、これが高城の戦いだ
秀長軍に追われていた島津家久は、いきなり軍を展開させ秀吉軍に奇襲をかけた
島津軍20,000人が15,000の秀長軍に対峙した
数で上回る島津軍が勝利を得るかと思えた時、後方から15,000の豊臣の雄軍が駆けつける
背後からの攻撃は、島津軍に実際よりも大勢の軍勢がいるという幻想を抱かせた
島津軍は南方への撤退を余儀なくされる
これにより、秀長は高を平定する機会を得る
優勢に転じる機会を失した島津に残されていたのは、防戦のみだ
川内川では反撃の機会があった
数で大きく差をつけられていた島津軍は、川を渡りきることができれば戦局を変える機会があると考えた
しかし、5,000人の軍で170,000に対峙するのは不可能であるのは火を見るよりも明らかだったが、島津軍は最後まであきらめなかった
この戦いでは、新納 忠元と加藤清正の決闘でも有名だ
加藤清正が勝利を納めたが、今日でもどちらが勝ってもおかしくなかったと言われている
この戦いで島津軍は壊滅的な打撃を受け、豊臣軍に鹿児島への侵攻を許すことになる
鹿児島は、豊臣秀長、加藤清正、福島正則、黒田孝高らにより囲まれた
島津義弘は戦い続けることを望んだが、島津義久は敗北を認める道を選択した
義久は京都に移送され、自分の娘を含む家族のものを人質として差し出すことに合意した
かつての敵と講和を結ぶ経験に長けていた秀吉は、島津の領土を残し島津義弘のもとで薩摩を治めることを許可した
秀吉は先に大隅を長曾我部に与えたが、豊後は大友の手に残したままだった
肥前は竜造寺と有馬とその他小名に分けられ、小早川は筑前筑後を手にする
備前は黒田孝高に与えられ、肥後の大部分は加藤清正のものとなりその他の部分は小西行長のものとなった
日向の残りは、島津・秋月などにより分けられた
九州全土が豊臣の勢力下におかれたのだ
わずか半年で九州平定を成し遂げた秀吉は、当方制定にその焦点を当てる
今日のおさらいだ
1586年に大友氏からの支援要請を受けた秀吉は、これを島津を攻撃する千載一遇のチャンスととらえ、スピーディーに行動を起こす
外交的な調整には失敗するが、戦いを仕掛けることで九州平定の目標は達成された
大軍を急襲に上陸させることで、島津の領土深くまで侵攻することに成功し、数の力で優位に立ち島津を退けた
最後には島津義久は負けを認め、九州は秀吉の影響下に置かれることになったのだ
数では絶対的に不利だったのに、最後まで戦い続けた島津ってすごい!
西郷隆盛によれば、島津は最終的には勝利をおさめたんだって
秀吉の勝利の話を聞くたびに「こいつって、草履取りからスタートしたんだよなぁ」って感慨深い気持ちになる
秀吉のチャンスを逃さないって言う才能はすごいよ
秀吉って軍事戦略だけじゃなくて、政治力もなかなかのものだったんだろうね
この辺りの日本の歴史が一番好き!
Shogun2で一番好きなのが島津一族!!!
信長の時代にも、島津っていい動きしてたよねぇ
関東平野に4-5年住んでたよ、日本が大好き!
日本の戦国時代の歴史にどんどん詳しくなっちゃう、どうしよう??
このビデオ見てたら、鳥肌立ってきちゃった。。。。。
うーん、次は北条相手の戦いか、どんな手を見せてくれるんだろう?
長曾我部が大隅全土を支配するのを断ったって言うのが興味深いな
このビデオ何度も見返して、歴史の流れを頭に入れなきゃ
今度の試験に出ないかなぁ??
どうして秀吉は苦労して手に入れた領土を、こんなに簡単に人に任せちゃうんだろう?
秀吉って島津には優しいけど、北条には容赦なかったよね
え? 立花氏出てこないの??
戦国時代って、ロマンがあるなぁ
大友義鎮が仏門に入って大友宗麟になったんだよね
あー、なんか日本の歴史に詳しくなったような気がする
前の戦いの経験を次にキッチリ生かしてるところが凄いね
秀吉って現代に生きてたら、どんなリーダーになってたんだろう?
中国の歴史にも、こういうダイナミックなものがあるよ
https://www.youtube.com/watch?v=Z2V8BkwGqiw