- Date: Tue 05 01 2021
- Category: 歴史
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海外「すごい発想…」秀吉の天下統一を決定づける小田原城包囲に海外興味津々(海外反応)
海外「すごい発想…」秀吉の天下統一を決定づける小田原城包囲に海外興味津々(海外反応)
投稿者
小田原城包囲
前回のビデオでは、豊臣秀吉は日本の将来を左右する計画を実行に移したことに触れた
日本に起きたキリスト教の広がりを押さえつけるとともに、下級の大名からの武器を取り上げることにも取り組んだ
これは後年、刀狩りとして記録されている
彼の北条氏政との確執についても触れた、両家の関係は一触即発の状態にまで悪化したのだ
とうとう、これが実際の戦にまで発展する
これが秀吉の天下平定への最後の障壁となっていたのだ
戦国時代 - 小田原平定
1589年、北条氏政は、当時一番の勢力を誇っていた豊臣秀吉との戦いに臨もうとしていた
過去2年にわたって、秀吉は北条家に対して外交的手段で近づこうとした
何度も氏家を首都に招き、彼を傘下に取り込もうとしたが、これはことごとく失敗した
氏政は北条家の誇りをもって、秀吉に対峙する決意を固めていたのだ
これに関しては、当時氏政の一番の味方であった徳川家康さえも彼の気持ちを変えさせようと助言したほどだ
戦の勃発は、避けられないことだった
秀吉はこの戦の勝利を確信していた、これが全国平定の最後のハードルだったのだ
関東の制覇が叶えば、東北地方がその手中に落ちることは明らかだった
しかし、この戦いは避けることが可能だったことも確かだ
もしも氏政が秀吉の招きに応じて彼の傘下に与していれば。。。。
この戦に関しては、北条側が仕掛けたとみられている
1589年、北条軍は真田軍に攻撃を仕掛けた、これは1585の戦の際の不公平な取扱いに対する敵討ちだという名目で行われた
これが秀吉には、氏家に攻撃を仕掛ける格好の理由を与える
1590年3月、秀吉は北条に対する最終戦を始める
京都に本拠を置いていた秀吉は自軍を進める
彼の前には織田と徳川の軍勢が東海道を東に上り、北からは前田利家と上杉景勝が南下した
海からは、長宗我部元親軍が進軍した
豊臣とその連合軍は総勢20万にのぼったといわれている
以前の戦いでは、北条軍は関東の地の利に頼り、特に箱根を天然の砦としていた
しかし、四方八方から敵が押し寄せてくる状況では、この地の利に頼ることはできない
これは国境の城を守っていた北条氏邦と氏照にはすぐに明らかになり、彼らは敗れ去る
氏政の長子氏直は、自軍が豊臣軍の4分の1程度のとなってからも進軍を望んだ
しかし最後は、氏政や彼の重臣たちの助言を受け、進軍をする代わりに小田原城の守りを固めることを受け入れる
実際、最終的には北条軍はほぼすべての軍勢を小田原に集結させることになる
関東平野の守りをとき、豊臣軍の侵攻を許してまで小田原城を守ろうとしたのだ
これには理由があった
当時小田原城は、一番堅牢な城であると言われていた
巨大な堀を持つ、北条氏の本拠地であった
8万人を数える北条軍がこの城の守りを固めた
1561年にはしかし、この城は上田軍により征服されている
北条軍が生き残るには、厳しい戦いを耐え抜くことが必要だった
しかし、ここで氏政が見落としていたことがある
当時の日本で秀吉ほど立てこもり戦に長けた武将はいなかったことだ
北条軍が立てこもりを続けるなら、秀吉は城の外で待ち続ける
ただ待つだけでは、兵の士気に乱れが生じる
この立てこもり戦は、稀に見るスタイルのものだった
城の外を一大エンタメ拠点としたのだ
女性や芸人・商人などを招き入れ、歴史に例を見ないパーティ会場に仕立て上げた
遠く北方からも、このお祭り騒ぎに参加しようとやって来た人もいるほどだ
すべてが、豊臣軍が立てこもり戦に飽きて規律を乱すことを防ぐためのものだった
どれほど長く待つことになろうとも、城を陥落することは確実だ
城に立てこもった北条軍の士気は、外のお祭り騒ぎに気を取られ乱れていた
この期間中に北方の大名たちが秀吉を訪れている
相馬に打ち勝ったばかりの伊達政宗もその一人だ
政宗は自分が放った間者からの報告を受け、秀吉の勝利を確信していた
長年にわたり東北地方での影響力を拡大していた政宗は、日本全土で影響を拡大している秀吉のさまを見て、自分の将来を熟考した
秀吉にたてつきその立場を失くしていった武将たちの前例を見て、政宗は、秀吉の傘下に入るしか自分の生き残る道がないことを悟る
1590年6月、政宗は秀吉キャンプを訪れて、彼の傘下に入ることを告げた
政宗のように多くの東北大名が自身の傘下に入れば、秀吉は自身の軍勢の多くを南に割くことができる
伊達だけでなく、南部もその後秀吉の傘下に入る
秀吉は他の東北大名たちにも触れを回し、人質を京に送ったり年貢を納めたりすることを奨励した
更には、東北の城を解体するよう要求するまでに至った
この戦いの間に、いくつかの武将が名を上げようとしたが、豊臣の庇護を受けなかったものは、そのすべてが最後には敗れ去っている
豊臣軍はほとんど何の抵抗も受けずに多くの領土を平定したが、この中で大石の戦いは興味深いものだ
秀吉が最も頼りとした石田三成は、まだこの戦いでは武名を上げられずにいた
その為秀吉は、彼をこの地域での幾多の城を制圧するための軍隊の頭に据えた
しかし光成は大石城で思いがけない苦戦を強いられることになる
大石城は、小田原城が豊臣の手に落ちた後まで陥落することはなかった
この話は、2012年の日本映画『のぼうの城』で詳しく描かれている
小田原城に話を戻すと、小田原城は最終的に徳川家康により陥落した
徳川軍は小田原城の城壁の一部を爆破することに成功する
戦いは激しいものだったが、この段階では氏政はまだ負けを認めてはいなかった
豊臣勢の攻撃に永遠に持ちこたえることはできず、また城へのダメージを考慮し、氏政は6月の終わりに降参することを決意する
秀吉の度重なる招きにも応えず、長期にわたる戦にも耐えてきたが、とうとう北条は負けを認めることになった
後の研究によれば、氏政自身は戦いを続けることを願っていたが、その子氏直の助言を聞き入れ降参することにしたということだ
城陥落の一週間後、氏政とその兄弟氏照は秀吉の命により切腹する
氏政の辞世の句は、「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」
「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」といものだ
北条氏が戦国時代屈指の武将であったことは間違いない
北条氏を打ち破り、秀吉には彼にたてつく勢力はいなくなった
北条氏直は、徳川家康の次女を妻に迎えていたという理由で切腹は免れた
しかし彼は高野山に送られ、そこで一年後に生涯を閉じることになる
徳川家康は、1584年の小牧・長久手の戦い以降、長年秀吉の信を得てはいなかった
北条氏に対する戦では東進する軍を任され勝利は納めていたが、秀吉は今一つ家康を信頼できなかった
しかし、最後には秀吉は家康が元々の領土を諦めることを条件に、北条氏の領土のすべてを家康に与える決断を下す
これには、家康の働きに報いるということのほかに、家康をできるだけ首都から遠いところに押し込める、という意図もあった
この誤算は、家康は関東に置かれることで更に富を得たということだ
結果として、家康は秀吉よりも富を得ることになった
家康は、当時は知られていなかった『江戸』を本拠地とする
秀吉は家康の元の領土を、同じく小田原の戦いで活躍した織田信雄に与えようとしたが、先祖伝来の土地から離れることに難色を示した信雄はこの申し出を断る
これに激怒した秀吉は、信雄を下野国烏山に流罪とする
結果この土地は、豊臣の昔からの家臣たちによって分割された
領土問題の解決を経て、秀吉は伊達政宗と共に宇都宮に進み東北地方の平定を目指す
これは、1590年の9月には終結を迎える
100年以上にわたる戦いの時代を経て、この年の12月日本は平和の時を迎える
豊臣秀吉は、織田信長が目指した日本平定に成功した
しかし、戦国時代が終わったわけではない
さぁ、今日のビデオのおさらいだ
1589年、幾度かのニアミスを経て、豊臣秀吉は当時の最大のライバル北条氏に対する戦いに挑む
1590年になると、秀吉の大群は関東平野に進軍し、小田原城を包囲する
当時もっとも堅牢と言われた小田原城に籠城する北条軍を降参させるため、秀吉は包囲網を一大エンタメセンターに変え、自軍の士気を保つことに成功した
これが北条軍の士気を貶め、数か月後には小田原城を陥落することに成功する
この結果、褒美として北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康の元々の領土は豊臣の忠臣たちで分けられることとなった
秀吉自身は、東北で伊達政宗に加勢し、東北地方の平定を目指した
1590年末までに、豊臣秀吉は日本全土を平定することとなる
秀吉ってあんまり好きなキャラじゃないけど、この時はよくやったと思う
徳川家康の事は心から信じてたわけじゃないけど、小田原の戦いの功績に報いるために北条氏の領土を全部家康にやった、って言うのはボスの鏡のようなアクションだな
城に立てこもってる雑兵は、城の外でパーティーやってたらそりゃ面白くないよね
誰も目も向けなかった江戸を、世界でも有数の大都市にしたんだから、家康ってすごい!
日本全土は自分のもの、って分かった時、秀吉どんな気分だっただろうな?
ゲームやってるより、このビデオ見てる方がよっぽど面白いよ
今の戦争でも、これくらいの発想があればいいのになぁ
スマホはおろか、飛脚もいない時代にどうやって芸人集めたんだろう? 伝書鳩か?
パリピポ!!! イェイ!
伊達が傘下に入るのは許したけど、秀吉は絶対政宗も追い落とそうとしてるよね
石田三成が勝ちを治めることができなかったのは、彼の失敗って言うより秀吉のせいだよ
秀吉が北条からぶんどった城の一つ、八王子城の近くに住んでるよ!
ホリデーシーズンにじっくり見るには最適のビデオ、ありがとう!
各武将の領土の地理的条件が戦の勝敗を分ける、って聞いたことある
北条氏、悔しかっただろうねぇ
陣太鼓の音が聞こえてくるようなビデオだったな
石田三成って、戦国武将で一番のお気に入り!
小田原、この前行ったばかりだよ
ちょっとした出来事でその結果が180度変わっちゃうんだ。。。。。
小田原城って、ポケモンにも出てくるかなぁ?
戦国の大名たちも、今頃みんな天国で酒盛りしてるのかな?
辞世の句って、なんか心にジーンとくるなぁ
徳川家康の名言集とか読んだことあるよ、戦国武将ってみんな教養があったんだね
中世の騎士もこんな風に詩を書いたりしてたのかな?
https://www.youtube.com/watch?v=44P6lJOa-YA
投稿者
小田原城包囲
前回のビデオでは、豊臣秀吉は日本の将来を左右する計画を実行に移したことに触れた
日本に起きたキリスト教の広がりを押さえつけるとともに、下級の大名からの武器を取り上げることにも取り組んだ
これは後年、刀狩りとして記録されている
彼の北条氏政との確執についても触れた、両家の関係は一触即発の状態にまで悪化したのだ
とうとう、これが実際の戦にまで発展する
これが秀吉の天下平定への最後の障壁となっていたのだ
戦国時代 - 小田原平定
1589年、北条氏政は、当時一番の勢力を誇っていた豊臣秀吉との戦いに臨もうとしていた
過去2年にわたって、秀吉は北条家に対して外交的手段で近づこうとした
何度も氏家を首都に招き、彼を傘下に取り込もうとしたが、これはことごとく失敗した
氏政は北条家の誇りをもって、秀吉に対峙する決意を固めていたのだ
これに関しては、当時氏政の一番の味方であった徳川家康さえも彼の気持ちを変えさせようと助言したほどだ
戦の勃発は、避けられないことだった
秀吉はこの戦の勝利を確信していた、これが全国平定の最後のハードルだったのだ
関東の制覇が叶えば、東北地方がその手中に落ちることは明らかだった
しかし、この戦いは避けることが可能だったことも確かだ
もしも氏政が秀吉の招きに応じて彼の傘下に与していれば。。。。
この戦に関しては、北条側が仕掛けたとみられている
1589年、北条軍は真田軍に攻撃を仕掛けた、これは1585の戦の際の不公平な取扱いに対する敵討ちだという名目で行われた
これが秀吉には、氏家に攻撃を仕掛ける格好の理由を与える
1590年3月、秀吉は北条に対する最終戦を始める
京都に本拠を置いていた秀吉は自軍を進める
彼の前には織田と徳川の軍勢が東海道を東に上り、北からは前田利家と上杉景勝が南下した
海からは、長宗我部元親軍が進軍した
豊臣とその連合軍は総勢20万にのぼったといわれている
以前の戦いでは、北条軍は関東の地の利に頼り、特に箱根を天然の砦としていた
しかし、四方八方から敵が押し寄せてくる状況では、この地の利に頼ることはできない
これは国境の城を守っていた北条氏邦と氏照にはすぐに明らかになり、彼らは敗れ去る
氏政の長子氏直は、自軍が豊臣軍の4分の1程度のとなってからも進軍を望んだ
しかし最後は、氏政や彼の重臣たちの助言を受け、進軍をする代わりに小田原城の守りを固めることを受け入れる
実際、最終的には北条軍はほぼすべての軍勢を小田原に集結させることになる
関東平野の守りをとき、豊臣軍の侵攻を許してまで小田原城を守ろうとしたのだ
これには理由があった
当時小田原城は、一番堅牢な城であると言われていた
巨大な堀を持つ、北条氏の本拠地であった
8万人を数える北条軍がこの城の守りを固めた
1561年にはしかし、この城は上田軍により征服されている
北条軍が生き残るには、厳しい戦いを耐え抜くことが必要だった
しかし、ここで氏政が見落としていたことがある
当時の日本で秀吉ほど立てこもり戦に長けた武将はいなかったことだ
北条軍が立てこもりを続けるなら、秀吉は城の外で待ち続ける
ただ待つだけでは、兵の士気に乱れが生じる
この立てこもり戦は、稀に見るスタイルのものだった
城の外を一大エンタメ拠点としたのだ
女性や芸人・商人などを招き入れ、歴史に例を見ないパーティ会場に仕立て上げた
遠く北方からも、このお祭り騒ぎに参加しようとやって来た人もいるほどだ
すべてが、豊臣軍が立てこもり戦に飽きて規律を乱すことを防ぐためのものだった
どれほど長く待つことになろうとも、城を陥落することは確実だ
城に立てこもった北条軍の士気は、外のお祭り騒ぎに気を取られ乱れていた
この期間中に北方の大名たちが秀吉を訪れている
相馬に打ち勝ったばかりの伊達政宗もその一人だ
政宗は自分が放った間者からの報告を受け、秀吉の勝利を確信していた
長年にわたり東北地方での影響力を拡大していた政宗は、日本全土で影響を拡大している秀吉のさまを見て、自分の将来を熟考した
秀吉にたてつきその立場を失くしていった武将たちの前例を見て、政宗は、秀吉の傘下に入るしか自分の生き残る道がないことを悟る
1590年6月、政宗は秀吉キャンプを訪れて、彼の傘下に入ることを告げた
政宗のように多くの東北大名が自身の傘下に入れば、秀吉は自身の軍勢の多くを南に割くことができる
伊達だけでなく、南部もその後秀吉の傘下に入る
秀吉は他の東北大名たちにも触れを回し、人質を京に送ったり年貢を納めたりすることを奨励した
更には、東北の城を解体するよう要求するまでに至った
この戦いの間に、いくつかの武将が名を上げようとしたが、豊臣の庇護を受けなかったものは、そのすべてが最後には敗れ去っている
豊臣軍はほとんど何の抵抗も受けずに多くの領土を平定したが、この中で大石の戦いは興味深いものだ
秀吉が最も頼りとした石田三成は、まだこの戦いでは武名を上げられずにいた
その為秀吉は、彼をこの地域での幾多の城を制圧するための軍隊の頭に据えた
しかし光成は大石城で思いがけない苦戦を強いられることになる
大石城は、小田原城が豊臣の手に落ちた後まで陥落することはなかった
この話は、2012年の日本映画『のぼうの城』で詳しく描かれている
小田原城に話を戻すと、小田原城は最終的に徳川家康により陥落した
徳川軍は小田原城の城壁の一部を爆破することに成功する
戦いは激しいものだったが、この段階では氏政はまだ負けを認めてはいなかった
豊臣勢の攻撃に永遠に持ちこたえることはできず、また城へのダメージを考慮し、氏政は6月の終わりに降参することを決意する
秀吉の度重なる招きにも応えず、長期にわたる戦にも耐えてきたが、とうとう北条は負けを認めることになった
後の研究によれば、氏政自身は戦いを続けることを願っていたが、その子氏直の助言を聞き入れ降参することにしたということだ
城陥落の一週間後、氏政とその兄弟氏照は秀吉の命により切腹する
氏政の辞世の句は、「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」
「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」といものだ
北条氏が戦国時代屈指の武将であったことは間違いない
北条氏を打ち破り、秀吉には彼にたてつく勢力はいなくなった
北条氏直は、徳川家康の次女を妻に迎えていたという理由で切腹は免れた
しかし彼は高野山に送られ、そこで一年後に生涯を閉じることになる
徳川家康は、1584年の小牧・長久手の戦い以降、長年秀吉の信を得てはいなかった
北条氏に対する戦では東進する軍を任され勝利は納めていたが、秀吉は今一つ家康を信頼できなかった
しかし、最後には秀吉は家康が元々の領土を諦めることを条件に、北条氏の領土のすべてを家康に与える決断を下す
これには、家康の働きに報いるということのほかに、家康をできるだけ首都から遠いところに押し込める、という意図もあった
この誤算は、家康は関東に置かれることで更に富を得たということだ
結果として、家康は秀吉よりも富を得ることになった
家康は、当時は知られていなかった『江戸』を本拠地とする
秀吉は家康の元の領土を、同じく小田原の戦いで活躍した織田信雄に与えようとしたが、先祖伝来の土地から離れることに難色を示した信雄はこの申し出を断る
これに激怒した秀吉は、信雄を下野国烏山に流罪とする
結果この土地は、豊臣の昔からの家臣たちによって分割された
領土問題の解決を経て、秀吉は伊達政宗と共に宇都宮に進み東北地方の平定を目指す
これは、1590年の9月には終結を迎える
100年以上にわたる戦いの時代を経て、この年の12月日本は平和の時を迎える
豊臣秀吉は、織田信長が目指した日本平定に成功した
しかし、戦国時代が終わったわけではない
さぁ、今日のビデオのおさらいだ
1589年、幾度かのニアミスを経て、豊臣秀吉は当時の最大のライバル北条氏に対する戦いに挑む
1590年になると、秀吉の大群は関東平野に進軍し、小田原城を包囲する
当時もっとも堅牢と言われた小田原城に籠城する北条軍を降参させるため、秀吉は包囲網を一大エンタメセンターに変え、自軍の士気を保つことに成功した
これが北条軍の士気を貶め、数か月後には小田原城を陥落することに成功する
この結果、褒美として北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康の元々の領土は豊臣の忠臣たちで分けられることとなった
秀吉自身は、東北で伊達政宗に加勢し、東北地方の平定を目指した
1590年末までに、豊臣秀吉は日本全土を平定することとなる
秀吉ってあんまり好きなキャラじゃないけど、この時はよくやったと思う
徳川家康の事は心から信じてたわけじゃないけど、小田原の戦いの功績に報いるために北条氏の領土を全部家康にやった、って言うのはボスの鏡のようなアクションだな
城に立てこもってる雑兵は、城の外でパーティーやってたらそりゃ面白くないよね
誰も目も向けなかった江戸を、世界でも有数の大都市にしたんだから、家康ってすごい!
日本全土は自分のもの、って分かった時、秀吉どんな気分だっただろうな?
ゲームやってるより、このビデオ見てる方がよっぽど面白いよ
今の戦争でも、これくらいの発想があればいいのになぁ
スマホはおろか、飛脚もいない時代にどうやって芸人集めたんだろう? 伝書鳩か?
パリピポ!!! イェイ!
伊達が傘下に入るのは許したけど、秀吉は絶対政宗も追い落とそうとしてるよね
石田三成が勝ちを治めることができなかったのは、彼の失敗って言うより秀吉のせいだよ
秀吉が北条からぶんどった城の一つ、八王子城の近くに住んでるよ!
ホリデーシーズンにじっくり見るには最適のビデオ、ありがとう!
各武将の領土の地理的条件が戦の勝敗を分ける、って聞いたことある
北条氏、悔しかっただろうねぇ
陣太鼓の音が聞こえてくるようなビデオだったな
石田三成って、戦国武将で一番のお気に入り!
小田原、この前行ったばかりだよ
ちょっとした出来事でその結果が180度変わっちゃうんだ。。。。。
小田原城って、ポケモンにも出てくるかなぁ?
戦国の大名たちも、今頃みんな天国で酒盛りしてるのかな?
辞世の句って、なんか心にジーンとくるなぁ
徳川家康の名言集とか読んだことあるよ、戦国武将ってみんな教養があったんだね
中世の騎士もこんな風に詩を書いたりしてたのかな?
https://www.youtube.com/watch?v=44P6lJOa-YA