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2017-07-17 (Mon)
原爆投下は事前通告されていた!?アメリカの第二次大戦博物館での事実に海外興味津々(海外反応)

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ニューオリンズの国立第二次世界大戦博物館に行ってきたんだ そこで最初の原爆と二番目の原爆のあいだに日本のあちこちの都市で配られたリーフレットがあることを知った

「日本人へ アメリカは以下のことを注意するよう求める われわれは人類が発明したうちでもっとも破壊的な爆発物を持っている われわれはこれをあなた方の母国に落とそうとしている 広島の惨状を見るがいい この無駄な戦争を長引かせるなら、この爆弾を使ってすべての軍事基地を破壊する あなた方は天皇が戦争を終わらせるよう願うがいい われわれはあなたがたが名誉ある降伏をし、新たな平和を愛する国に生まれ変わることを願っている 軍事的な反抗はもうやめなさい すぐにこの街から避難しなさい」
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2017-07-09 (Sun)
人々の笑顔に賑やかな通り…広島に原爆が落ちる前の貴重な映像に海外興味津々(海外反応)

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広島平和記念資料館 【河崎源次郎氏撮影・寄贈 1935(昭和10)年4月の広島】


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2017-07-07 (Fri)
日本文化に無理解な当然の結果!?イギリス人が日本の大名行列を妨害して斬り殺された『生麦事件』が海外で話題に(海外反応)

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1862年、日本において、4人のイギリス人商人が旅行中に大名行列に遭遇した
商人達は馬から下りず、敬意を表さなかったため、侍達は彼らを斬りつけた 賠償を求めたイギリスの批判には何も返答はなされず、海軍からの鹿児島への艦砲射撃に繋がった

生麦事件
生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。事件の石碑は、京急本線生麦駅近くに残っている[1]。


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2017-07-06 (Thu)
外国人「日本の僧兵って仏教の信念と矛盾してると思うんだけどどう思う?」(海外反応)

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ここで尋ねるべきなのか、歴史のことにより焦点を充てたサイトに投稿するべきなのか分からないけど、僕の質問は歴史的見解よりも仏教の見解寄りかと思ったんだ 基本的に、僕は日本の歴史に関連した物を見て来たんだけど、その中で僧兵のトピックスが出て来たんだ これに関して、いくつかの理由から僕は疑問に思った事があるんだ 僕の疑問はシンプルで、どの様にして、僧兵は仏教の考えと兵士としての役割を融合させたのかという事だ Wikipediaの様な場所には載ってなかったんだ これらの場所ではもっと歴史的な事に焦点を置いてるからね 甲冑を身につけ、武器を持って、血が流れる中で戦う事は仏教の信念の根本と逆に思えるんだ だから、彼らがこの信念と行動をどのように融合させたのか知りたいんだ
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2017-06-30 (Fri)
アメリカはなぜ日本を復興させたのか?外国人の分析に海外議論(海外反応)

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なぜアメリカが日本を復興させたか、自分の調べた限りで大きな理由がふたつあることがわかった でも戦後にそれをする理由が分からないでいる

1つは日本国内での共産党勢力の台頭 アメリカは日本を資本主義国家にしておく必要があった
2つ目は欧米的な政府に再編成することでアメリカの言うことを聞かせやすくし、日本が再びナチスドイツのようにさせないため
重要なのは、4年にわたって直接戦った国と、直接結んだ契約だということ 4年のあいだも困らされた国の復興を、どうして手伝うんだろう? 日本はずいぶんいい扱いをされてるように思うんだけど
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2017-06-25 (Sun)
海外「これがカミカゼの語源だったのか…」モンゴルの侵略から日本を救った二度の神風に海外興味津々(海外反応)

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歴史の大変動-日本を救った神風
誰にも止められない勢いでいたモンゴルは、日本を標的にしました
しかし、神風によって侍たちは守られたのです



激動の時、日本を救った神風
13世紀のモンゴル侵略は止まらないかのような勢いでした
当時最強と言われた軍隊ですら太刀打ちできませんでした
ヨーロッパや中央アジアや東アジアは死体で溢れかえっていました
そして、日本はその次と思われていました

当時の日本は鎌倉時代でした
侍が統治し、封建制度が確立していました
神山天皇は外交にはあまり興味を示していませんでした
しかし、1268年にモンゴル派遣団が渡来し、日本は小さな国であるため大国の一部となるべきだ、という文書が送られました

文書の最後には、“よく考えてください”と添えられていました
天皇へのアドバイスとして贈られたのは、“藁は風に吹かれても倒れず、強くしなやか”だという言葉です
しかし、北条時宗氏は天皇にこの挑戦に対抗すべきだとアドバイスしました
モンゴルの派遣団は免職され、それ以降のモンゴル派遣団は入国が禁止されたのです
そのころカブライ・ハンは巨大艦艇を作るために朝鮮半島を侵略し、1274年の秋ごろまでには多数の水兵や軍隊を派遣していました

準備は整い、日本に戦争が訪れました
モンゴルによる最初の侵略です
最初の侵略は10月に韓国の東南側の海からやってきました
軍の大きさは諸説あり、2万3千人から4万人の軍隊と、700隻から900隻の艦艇だったと言われています
最初の艦隊は津島に上陸した

政治家たちや騎兵隊は集まり耐え忍びましたが、結局抵抗は虚しく守備隊は破られ次の島に乗り込まれました
城に避難し耐え忍びましたが、モンゴル団の強さはすごいもので、すぐに打ち破られてしまいました
決定的な侵攻は11月の九州上陸時に起こりました
この時には既に日本の将軍にも侵略が伝えられており、応戦体制が整っていました
防衛は筑前海岸沿いの3~5mの高さの岩場を中心に配置され、侵略者たちを待ちかまえました
そしておよそ1万人の侍たちが待ち構えていました
博多湾での戦は何日にもおよび、接戦となりました
海岸での戦いは接戦で、モンゴル団の侵略は難航しました

4日目になりモンゴル団は一旦引き上げることにし、力を温存している兵士たちと交代することにしました
ここで日本の軍隊は地上ではなく、海上で戦うという手段に出たのです
しかし、彼らの船は小さく、1隻には12人しか乗れないようなものでした
モンゴル団への攻撃は確かにありましたが、致命的な決定打は打てずにいました
しかし、天は日本軍の見方をしたのです
海は荒れ、大きなモンゴル団の艦艇は雷に打たれたのでした
真っ暗闇の中、酷い嵐の末何百もの艦艇は修理が必要であったり、完全に大破したりしてしまいました
そして、1万5千人もの兵士たちは波にのまれてしまったのです
モンゴル団は朝鮮半島に戻ったのです

この一度目の日本侵略が失敗に終わった後、二度目の侵略が行われました
物質的な打撃はすぐに回復できましたが、精神的なダメージはとても大きかったと言われています
モンゴル帝国のカブライ・ハンの力を脅かすものとして、すぐさま汚名返上しなければならなかったのです
7年後、侵略が実行されました

この時モンゴルはさらに侵略を進め、土地を拡大していたのです
また、日本侵略の為の部隊も結成されていました
そのころ、日本はモンゴルの侵略を予想し、対応に追われていました
モンゴル団に見捨てられた元派遣団員たちはスパイとして捕えられ、情報に基づいた防衛線が敷かれたのです
1281年に幕があがりました
2隻の巨大艦艇が日本に向けて、1つは4万人の兵士と900隻の船を連ね韓国を出港し、もう一つは10万人の兵士と3,500隻もの船が中国を出港しました
しかし、規模が大きすぎたため、統制が難しい状況でした
北の艦艇が先に到着し、九州沿岸での攻撃を開始しました
日本軍は海でも迎え撃ちましたが、多くは海岸沿いに並び迎え撃ちました
そして、二度目の博多湾での戦いが始まりました

戦は何日にも及びましたが、またしても日本軍の防衛に苦戦していました
南の艦艇が到着し、応援によってバランスが取れた形でした
日本の防衛も厳し状況に追い込まれ始めていました
しかし、またしても天が日本に味方したのです
日本沿岸に大型台風が襲撃したのです
この台風は両軍にとって厳しいものでした
自然の力にはかなわず、巨大なモンゴル艦艇は大きな打撃を受けたのです
モンゴル団の船はこのような天候に対応しておらず、危機的なダメージを受けていました
船は岩や岸に打ち付けられ、記録では4000隻もの船と7万人もの兵士が行方不明になったと言われています
かろうじて海を渡って戻ったものもいたようです
侵略から守られたのです

三度目の侵略も計画されていましたが、実行されることはありませんでした
多くの国が侵略の標的になる中、日本だけは保留にされていたのです
日本はモンゴル団の影響を大きく受けました
刀なども改良されました
この侵略からの勝利は日本軍に自信とプライドをもたらしました
しかし、この二度の危機から救った天才は“神風”と呼ばれ、当時の天皇がもたらしたものとしてあがめられたのです

第二次世界大戦中、再度神風は舞い降りたのです
第二次世界大戦中の神風は、神風特攻隊と呼ばれ敵軍に空から突っ込んで行ったのです
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2017-06-22 (Thu)
外国人「なんで日本の旭日旗ってナチスの鉤十字ほど嫌われてないの?」(海外反応)

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どうして第二次世界大戦期の日本の旭日旗って、ナチスの鉤十字ほどは嫌われてないの?
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2017-06-13 (Tue)
勇猛果敢?自殺行為?第二次大戦の日本帝国陸軍歩兵が海外で話題に(海外反応)

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旧日本帝国陸軍歩兵



第二次大戦における帝国日本軍の歩兵の職業はさまざま 農業、工場労働者、教師、ホワイトカラー、鉱山労働者など 日本政府は1873年に健康な男子は20才から3年間軍で奉仕しなくてはならないという憲法を定めた だが戦争中、状況はもっと深刻になった 20歳以上の男子は全員入隊することと変えられたのだ

訓練は非常に厳しかった 戦争が始まると、訓練はたった3か月しか行われなかった そして天皇への忠誠と、むかしの侍のような心が求められた 銃剣はサムライの刀というわけだ 日本兵は神聖なる天皇への忠義を示すために働いた 上官に殴られたり、厳しい規律を定められることもあった 中国侵攻、そしてアメリカ、イギリス、オーストラリアなど連合国との太平洋戦争のあいだ、日本兵はその残虐さを敵に見せつけた 捕虜や一般市民に対しても同様だ 歩兵が持っていたのは38式有坂銃と99式有坂銃 11式、96式、99式の小型マシンガン、銃剣、布製のフィールドキャップとヘルメット

戦争後期、サイパン戦や沖縄戦では捕虜になることを拒み自決覚悟で突撃することが勇気の証しとされていた これはバンザイ突撃として知られている 側溝でもうこれまでだと悟った日本兵は、天皇陛下万歳!と叫びながら突撃してきた
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2017-06-12 (Mon)
外国人「日本は徳川幕府崩壊後になんであんなに急激な変化を遂げることができたの?」(海外反応)

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徳川将軍以降、日本はどうやってこんなに大きな変化を遂げたのか?
日本の歴史を読んでいて、明治時代を知ったんだ 僕が理解出来なかった事はどうやって日本は鉄道も蒸気機関もない1868年代から1905年に日露戦争で最も巨大な軍力をもつロシアに勝利するまでの国になったんだろう その頃には鉄道が町を走り回っていたし、電話も通っていたしね 彼らはどうやってここまでに来たんだろう 何処からそんなお金を得ていたんだろう 誰か教えて
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2017-06-05 (Mon)
外国人「日露戦争で日本がロシアに勝ったときの西欧諸国の反応ってどんなだったの?」(海外反応)

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日露戦争で日本がロシアに勝った時の西欧諸国の反応はどんなだったの? 新たな強国としての日本に対して何か政策はあったの? 政府関係者から一般人までの日本に対するイメージはどれだけ変わったの?
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